7.ブラックアウト

 いつもの通り枝野くんのアパートに来た。

 枝野くんは何だか、LINEで少し素っ気なかったような気がした。気のせいかどうかというくらいだが。まあ、きっとVRchat? にハマって睡眠時間を削っているのだろう。やれやれ、仕方ない。早く寝ろよな。

 トントン、とドアをノックする。が、出ない。あれ、おかしいな。ちゃんと時間通りに来てるんだけど。

 試しにドアノブを引くと、すんなりドアが開いた。もわっと、やや湿気た空気が流れ込む。あと、臭気がすごい。換気をしてないのだろうか。いや、それにしても……。

 ものすごく嫌な予感がした。しかし、ここで何もなかったふりをして去ることは出来ない。

「枝野くん?」

 俺が呼びかけると、ガサッと何かが動く音がした。とりあえず、奥に誰かはいるようだ。

「……入るからな」

 俺は枝野くんの部屋に入った。相変わらず、ガサ……、ガサ……と何かが動くような音がする。

「先輩」

 暗い部屋の奥の方で、枝野くんのかすれた声がかすかに聞こえた。

「なんだ。いるじゃん」

「先輩。少し、このままで話をしてもいいですか」

 枝野くんは暗闇の奥で話し始めた。

「例えば、生きていくうえで、『これはおかしいな』と気がついたことってないですか。

 例えば、一部の人間が幸せを享受して、残りの人間は不平等を強いられている。そのうえ、それを抗議したら『お前らが不幸なのは自己責任だが、俺たちの平和を乱すな』と口封じされるんです。先輩も身に覚えがありますよね?

 先輩、僕の言ってることを笑いますか」

「……笑わないけど」

 俺は口ごもりつつも答えた。異様な雰囲気が伝わってくる。彼は何を話したいのだろう。

「あるいは。中学生、高校生時代の記憶が、今でも肌に迫って来るように忘れられない。僕、今でも中学生の時の思い出を夢に見るんです。好きな子に告白しただけで、翌日クラスの笑いものにされたこと。好きなアニメの主題歌をからかうように歌われたこと。純粋さを踏みにじられたこと。

 生まれてきたことが罰なんだろうか。僕はずっとそう思ってきたんです。でも、それは違うって、『キルキルキララ』が教えてくれました」

 枝野くんは「キルキルキララ」の単語を出しただけで、声のトーンがわずかに上がった。

「僕の推し、サキリちゃんは元々ブサイクな男子生徒だったんです。いじめられつつも、毎日毎日テレビでやってる魔法少女アニメに夢を投影していた。ある日、マスコットキャラクターと契約して美しい魔法少女になるんです。そして、いじめっ子を魔法で美しく殺戮していく。

 サキリちゃんもまた僕に夢を見せてくれました。僕も魔法少女になりたいと思った。そして、夢は半分叶いました。VRchatで」

 枝野くんは淀みなく、すらすらと唱えるように話していく。いつもの自信なさげな声色とは違っていた。

「VRchatで、ボイチェンと女子のアバターを使いました。初めは恐る恐るだったけど、次第に僕と同じ趣味のグループが広がっていった。でも、足りない。まだ足りない。

 結局はみんな、女装した僕なんかじゃなくて、本物の女が好きなんだ。みんな僕を置いて行ってしまう。だったら僕も変わらないと、そう、今すぐに―――」

「枝野くん」

 俺は衝動的に部屋の電気を点けた。いつもより更に埃っぽい部屋に、たくさんのエナジードリンクの空き缶が転がっていた。奥に、いつもの枝野くんがサキリのコスチュームを着て床に座っていた。右手には、ナイフを持っていた。俺は愕然とした。

「先輩も儀式を見守っていてください」

「ぎ、儀式……? 何、の?」

「僕が女になるための儀式です」

 俺はその言葉の意味を理解した途端、さっと血の気が引いた。

「ば、馬鹿!! やめろ!!」

「なんでやめるんですか。僕が女になるのがそんなに嫌なんですか」

「お前は勘違いしている。100歩譲ってお前がどうなるかは自由として、それが冷静に考えて得た結論か、と言ってるんだっ」

「僕は冷静ですよ、先輩」

「そんなわけないだろう!!」

 俺は一喝した。しかし枝野くんは動じない。一体どうしてしまったんだ……? そして、俺はどうすればいいんだ……。

「僕はサキリちゃんになります。先輩」

 そう言って枝野くんはナイフを振りかざした。俺は瞬時に枝野くんにタックルをかけた。

「わっ……!?」

 流石の枝野くんも取り乱したようで、体制を大きく崩した。しかし、ナイフは持ったままだ。

「落ち着け! お前、マジで落ち着け。そうだ、きっとお前は睡眠が足りてない。10時間寝ろ。いや、20時間くらい寝てもいい。エナドリはすぐにやめろ。VRchatもやめろ。いいから休め」

「先輩……」

「これは先輩からの命令だからな。いいな。寝ろよ。わかったな。朝起きてから考えろ。全てを。わかったな」

 俺は少しずつ身を引いて、やがて背中に玄関のドアに当たった。

「また今週もサークルに来い。……待ってるから。じゃあな」

 俺はなんとかドアを引いて、玄関の外に出た。そして、大きく深呼吸をした。で、出られた……。

 なんなんだあいつは!!? 本当に訳がわからない……。

 枝野くんのことはまだ心配だったが、相手はナイフを持ってる。下手に刺激しない方が賢明だろう。疲れた……。

 今日のことは早く忘れよう。しばらくは絶対に忘れられないだろうけど。そう思いながら、命からがら俺は帰路についた。

 それにしても。枝野くんは、帰り際に何かぼそぼそと呟いていたような気がする。あれは何を言っていたのか。

「先輩にはわからないですよ」

 確かこう言っていた気がする。それから、こうも。

「先輩には文章の才能がありますもんね」





 あの日から眠りが極端に浅くなった。眠れない。眠りたくない。眠れば悪夢を見る。

 しかし、脳みそが仮死状態になりつつも、なんとか大学には通っていた。あれから枝野くんと会話していない。LINEも来ていない。やがて、サークルの定例会の日程が近づいていく。

 定例会当日、俺は意を決して教室の扉をくぐった。教室はがらんどうで、そこには誰もいなかった。……覚悟して来た分、少し早かったか。

 黙って待っていると、やがて依田先輩と佐藤部長が同じタイミングで入ってきた。枝野くんの姿はない。

「滑川くん、にゃっほい~。って、ありゃ、深刻そうな顔をして、どうしたの……?」

 俺の表情を一目見て、依田先輩はびっくりしたように目をぱちぱち瞬きした。

「あの、部長。枝野くんのことなんですが」

「ああ、それについては俺も話したいことがある」

 困惑した面持ちの佐藤部長が話し始めた。

「枝野くんが俺に小説の提出をしていなかったんだ。催促のLINEを送っても、返事が来ない。まさかと思って大学に確認してみたら、なんと大学を退学していたそうだ」

「えっ……?」

 依田先輩がはっと息を呑む声がした。俺は何も言えなかった。

「もう、何が何やら……。滑川くん、何か知っているか」

「……知りません」

 俺は間髪を入れずに話した。佐藤部長は困惑したが、それ以上深堀りはしなかった。依田先輩はまだおろおろしていた。

 ……みかん。

 枝野くんは、大学をやめても美味しいみかんを食べているだろうか。脈絡なくそんなことを思うと、鼻の奥がつんと痛くなった。

 なんだよ。

 俺が才能があるのが、文章を書けるのが悪いって言うのかよっ……。

 枝野くんがそんなことを思っていたなんて、知らなかった。気づきもしなかった。

 心臓の奥がずっと痛い。まるで、鋭利な刃物が突き刺さっているみたいだ。この感覚はずっと存在し続ける気がした。死ぬまで。

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