3.夢・希望・キルキルキララ
明王学院大学は、自分自身を頭がいいと信じて一流大学に受験し、そして滑った人間を生ぬるく迎えてくれる大学だった。そして俺もまた、明王の学生だった。今年で二年生になる。
……浪人をしなければ、本当は今頃三年生だったが。
まりかの一件があってから、俺は軽い対人恐怖症に陥っていた。すれ違う人が怖い。学生が全員怖い。みんな俺のことをヒソヒソ笑ってる。噂している。わずかに得意だった文章すら書けなくなった根暗チー牛だと。
対人恐怖症に加え、文章すら書けない俺は、堕ちるところまで堕ちていた。文章は没個性な俺の貴重な得意分野だ。そして、唯一の現実逃避の手段だった。これが出来なくなってしまった今、毎日が、酸素ボンベもなしに深海へ潜っているような日々に近い。俺は息苦しかった。
三限の授業に間に合うように、明王学院大学の黒い門をくぐる。行き交う人々がみんな敵なような気がした。実際そうなんだろう。死ね。みんな死ね。しねしねしね、
「滑川くん、おはよ。あ、もうこんにちはか」
空気を変えるように、気さくにポン、と肩を叩かれた。振り向くと、ゆるい雰囲気の女性が、にゃはは、と猫のように笑っていた。
「依田先輩」
「わたしのことは依田にゃんと呼びなさい」依田は欠伸をかみ殺したような表情で、やはりふにゃふにゃ笑った。最高に人生を気楽そうに楽しんでいる顔だ。そして、美人。俺とは鏡のごとく正反対だ。「滑川くん、また後でね。部室でね。にゃははは〜〜〜」
依田先輩はしゃなりしゃなりと去っていった。振り向きざまに、
「あ、そうだ。また滑川くんの小説、見せてね。あたし滑川くんの小説のファンなんだあ〜」
と言って、やがて人混みに姿を消していった。
俺は嘆息した。次の休み時間になんとしてでも、爆速で小説を書き上げなければならない。俺はそう決意した。
依田にゃん先輩のために。
依田先輩は明王大の文学サークル『ドリス』のメンバーの一人だった。
『ドリス』は明王大のただ一つしかない文学サークルでありながら、どことなくサブカル臭のするサークルだった。そもそも『ドリス』という名前そのものが、アンダーグラウンドな少女漫画のタイトルからつけられたらしい。定かではないが。
そして、俺、滑川大志もその部員の一人だった。
明王大は文学部があるにも関わらず、『ドリス』は4人しかメンバーがいない小規模なサークルだった。
部長の佐藤、三年の依田先輩、一年の後輩枝野くん、そして俺、滑川。
毎週金曜日の夕方に教室を借りる。小規模なサークルなので専属の部室はない。そこで小説を発表して、部員同士で講評しあうことになっている。
「そろそろ学祭も近いな」
佐藤部長はでっぷり太った腹を揺らし、頬にできたにきびをぽりぽりかきながら言った。
「部誌『sleeping sheep』は、例年通り出す。締切に間に合うようにしてくれよ。じゃあ、今日も読み合わせをしようか。共用フォルダに更新した分は全員読んでくれたよな」
佐藤部長はサークル員全員が書いた小説のコピーを配り始めた。順番は年功序列、佐藤部長、依田先輩、俺、枝野くん。
もうすでに目は通してあるが、俺は改めてコピーされた小説に目を通す。
佐藤部長の小説は、評論と小説が入り交じったような固めの文章だ。一見難しい単語が多いように見えるが、読んでいると力量が今ひとつ足りないことがわかる。どこか使いこなすことが出来ず、上滑りしているからだ。読み進めていくにつれ、自分が頭がいいのだと、猛烈に確信している姿さえ浮かんでくる。
依田先輩はキャッチーな恋愛小説だ。題材はネットのお題メーカーから拝借したらしい。純情な男性と女性が告白して、付き合って、愛し合ったり、悩んだり、時折セックスをしたり……。依田先輩が書く男性はいつも真面目だが、メンタルが少し脆い。束縛気味で、不安定になると逆ギレする。そういう小説だ。
枝野くんはネットで流行りそうな転生もののライトノベルだ。タイトルは『陰キャでチー牛な俺が転生したら人生確変起きた』。パチンコかよ。現実世界での非モテっぷりと、転生した世界での無双っぷりの高低差に耳がやられそうだ。
そして俺の小説。
「なるほどねえ〜」もらった小説の紙の束をぱらぱらめくりながら、依田先輩は声を上げた。「全部読んだよお。滑川くんの小説は、今日もクオリティが高いねえ」
「うむ……、まあ、そうだな」若干の悔しさを滲ませながらも、佐藤部長も依田先輩に同調した。「テーマは深く難解、ややフィロソフィカル(哲学的)だが、語り口はフラットで読みやすい。初期の村上春樹を彷彿とさせるようだ」
「俺も先輩の文章、嫌いじゃないっすよ」枝野くんは眼鏡越しに目を伏せながらぼそぼそと呟いた。「先輩の文章はブンガク的だけど面白いっすもん。変に気取ったところがないし。そこら辺がフツーの小説とは違いますよね」
珍しく三人から率直な賞賛をもらって、俺はたじろきながらも内心鼻高々だった。そして、自分の小説のクオリティが高いことは、俺自身も認めていた。恐らく俺は、この四人の中で誰よりも小説が上手い。
それぞれに小説の感想や評価をし合った。場が落ち着いてきた頃に、佐藤部長が手を挙げた。
「意見はまとまってきたな。じゃあ、いつものメモに『一番面白かった小説』のタイトルを書いて折りたたんで、そのメモを俺に渡してくれ」
そして佐藤部長はメモを回収した。一斉にメモを開封して、一呼吸おいて、
「今回、一番投票を得たのは満場一致で滑川くんの小説だ」
と発表した。
「にゃはは。悔しいけど、やっぱりねえ。あたしも滑川くんに投票したもん」依田先輩は身体をゆらゆら揺らしながら笑った。「次は頑張ろーっと。滑川くんに負けてらんないね」
「僕の小説もけっこういいセンいってると思うんすけど……」枝野くんはちょっと不貞腐れたように、机の下で足を揺らした。
「お前ら、今回の講評も踏まえて、部誌も頑張って制作してくれよ。何度も言うようだが、締切は絶対に破るなよ。絶対にな。……もうこんな時間か。じゃあ、そろそろ夜になってきたから、この辺でひとまず閉会にしよう」
次の部誌の表紙デザインや、最近見たアニメの話をしながら四人で下校した。枝野くんは、ややサブカル臭い魔法少女アニメ『キルキルキララ』を見ていると話したら、その話題に依田先輩が食いついてきた。佐藤部長も見ているらしく、『従来の魔法少女アニメを逆手にとった演出』『脱構築』と語っていたが、俺は見ていないのであまりわからない。熱く語る三人の聞き役に徹していた。それでいい。俺はあまり話すタイプの性格じゃない。
ほとぼりが冷めてきたところで別れて、俺は一人だけ郊外行きのバスに乗った。夜。俺の家が待ってる。四畳半の大学生らしく貧乏くさいアパートが。
ギイ、と木が軋むような音を鳴らして、俺は古いドアを開けた。築30年、郊外の木造アパート、家賃はもちろん安い。
安い家賃で住むとなると、都心の学生寮か郊外のアパートかになるのだが、ここが見つかって良かった。家賃が安いに越したことはない。俺が、学生寮に馴染めず、バイトなんて出来るわけがないことは、大学進学の時に薄々わかってた。
「ただいま」
一人帰ってきて、ちゃぶ台を前にして座椅子に座った。一呼吸置いた後、背負ってたリュックサックを開けた。授業のシラバス……、は二の次にして、大学の生協で買った雑誌をいくつか手にとって、ぱらぱらめくった。そして公募欄のページにたどり着く。
文学賞。賞金は百万。何よりこの賞を獲ることが出来れば、俺は念願叶って作家になることが出来る。
実績はあった。ネットや雑誌などの簡易的な公募には、何回か佳作や入賞に選ばれたことがある。何より、この前個人サークルで参加した芸術フリマは、文学の個人誌だったのにも関わらず、そこそこ売れた。これは希望があるんじゃないだろうか。
思えば、俺はどこに行っても馬鹿にされていた。学校ではぱっとせず、バイトはまず面接で落とされる。ひたすら親の仕送り頼りで節約生活を送り、華の大学生とは縁遠い日々だった。でも、俺には夢がある。
文学賞を獲る。作家になる。馬鹿にしてきた奴らより、もっともっと凄い人間になる。俺ならなれる。絶対になれるはずなんだ。
そう決意をして、俺は安パソコンの電源をつけた。スペックが低く、最近は立ち上がりにひどく時間がかかるが、文章さえ書ければ後はどうでもいい。実際、賞に出す原稿は、充分と言ってもいいほど順調なペースで進んでいた。よし、今日もやるぞ。
テキストファイルのアイコンをクリックしようとしたその瞬間、スマホが通知で震えた。確認すると、枝野くんが俺に個別でLINEを送っていた。
『センパイ、みかんって好きっすか?』
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