「黒い夜」(その5)

 野外の演習は初めてではなかったが、夜とはかくも黒い世界であったのかと底無しの黒に驚く。


 自分の動作の悉くが闇に消えるような、完璧な暗闇というものはこういうものだと、五感全てでいやおうなしに理解させられる。


 二日目の夜、伊織は続々と投入される追跡の兵を振り切っている。


 彼女は闇の中にあって、今は却って物がはっきり見えるように感じていた。視認できない分、聴覚が鋭敏になるといったようなものではない。確かに眼前に広がっているのは暗闇だが、


 「何だろう… あの時と似ている?」


 初めてこの美騎爾、環那をナオミ・オハラとの一戦で用いたときは攻撃の軌道をそれこそ視覚的に捉えることが出来た。それが今度は、何者かが動き回った跡や、潜んでいる様子がはっきりと見えている。さらには、物陰に潜む物体の気配は温度によってもっと明らかに認識できたし、各所から聞こえる物音はさらにその映像を鮮明にしていく。


 「違う、もっと見えている… 何だろう、これ?」


 伊織は環那が持つ能力によって、人間の五感を更に発展させた状態となっていたのだ。これについて、彼女自身が自覚するもう少し時間がかかりそうだったが、この事象休息のために一時撤退した兵員からも情報提供を受けている。


 伊織と接触した折の報告は、一様に彼女の様子が尋常ではないことを伝えている。


 「二日目の夜ともなれば、かなりバテているかと思いましたが… 彼女と来たらその逆でした」


 扶桑之國からも、協力した大合衆国側からも精鋭を集めたつもりだったが、口をそろえてこちらが参っているという具合になっている。ましてや、使、一体彼女に何を装備させているのかと疑問も絶えなかった。


 この報を、清河大佐は自身の小さな手帳を眺めながら聞いている。そこには美騎爾こと環那が発動させると予想される能力について、古文書から引用した情報がびっしりと書き込んであった。


 遂に環那の能力が発動したと確信するに至った。


 扶桑之國が旧政府によって統治される以前、戦乱の南扶桑にあって環那御前は領地を護るために美騎爾を用いて自ら戦場に赴いた。そこで、三日三晩の戦にあっても疲労の色は僅かにも見せず、確かな手綱さばきで戦場を駆け巡っては友軍を鼓舞し、大将たる御前を狙った伏兵や素破、しのびの類も悉く姿を見破られ打ち取られたという。


 これらの伝承は姫御前の女武者をぶりを誇張するのではなく、これはありのままの記録だった。 


 「装備すれば身体能力の向上、これの究極系に至るのが環那の能力か…」


 成程、美騎爾が元来装備する「記憶の固執」には、自己修復に加えて装備する者の身体能力の向上を確認している。そこから更に発展して、認知能力を向上させることで更なる生存率向上を実現させるというのは納得できる。


 この奇妙な甲冑がこれまで発揮した能力を振り返れば、理屈などを持ち出しては追いつかないところがある。


 装備する者の保護というよりは、自らを破壊させぬために他の生命体を利用して生存を図るようにも思える。いよいよ、この美騎爾を構成する金属「柔らかい機械」は何らかの意思を持つ生命体という可能性が出てきたが、こちらはまだ確証がない。

 

 「この謎は… 間違いなくこの御仁が鍵だ」


 鉄鋼業の最高峰ともいうべき東方連邦にあって筆頭に挙げられるベルクホルム家、その息女ニーナが扶桑之國へ来訪するという旨を、エマ・ジョーンズ伍長は上官のナンシー・フェルジ大佐からの暗号電報で受け取っていた。


 おそらく、明日には新聞各社が「ベルクホルム家の御令嬢が」と華々しい見出しと広報用の肖像写真で以ってにぎやかになることだろう。


 「おそらく、。でなければ、自らが動くとは考え難い」


 内通者、言い方を変えれば株主ないしは出資者、そんなものは扶桑之國の政財界に幾人もある。もちろん、自分が所属する陸軍と言う組織も例外ではない。扶桑之國陸軍は東方連邦の歩兵操典を初めとして、かなりの部分を参考にしてきた組織だ。


 自ずと装備品の都合もこの国とベルクホルム家に依存してきたことになる。


 ここで息女自らが動くとなれば、それ相応の思惑があってのことに違いない。我々が大合衆国と協力して美騎爾、ないしは「柔らかい機械」を研究しているというのは面白い話ではない筈だ。どこぞと知れない、若い娘と浮気するのは、少しばかり早すぎやしないかという具合に。


 「観測班、月岡君の居所と小隊の展開状況を教えてくれ」

 「了解しました。位置情報は導通信号が送信できるので概ね把握できるのですが、どうも今日はが強いせいか、若干精度は落ちます。」

 「屈折する星屑?」


 大合衆国というのは科学の国でありながら、時折そういう言い回しを好むところがあると清河大佐は思った。寧ろ、この場合は語学などを愛好する普段の彼女、清河爾子のほうが反応したのかもしれない。 


 「清河大佐、失礼しました。大合衆国陸軍はそうあだ名しています。ちょっと癖のある波長パターンなのでそう呼んでいます」


 何でも大合衆国の通信兵では、この波長が音楽的であるというので録音しては蒐集する連中もいるらしい。例にもれず、この工兵もその一人であるようだった。さて、屈折する星屑とやらは、環那が能力を発動したことの影響か、いずれにせよ現地での異変が関わっていることは明らかだった。それは、先ほどから同時に増大し始めた物理故障の信号が教えてくれた。


 「月岡君の位置情報が変化していないとすれば、原因は何だ?」


 伊織が移動した形跡はコンソールからは探知できず、小隊連中が装備した「フラグメンツ」からの信号は増大するばかり。すわ一大事と、爾子も観測班も固唾を飲んだ。やはり、懸念事項が実現した。


 「清河大佐、どうやら私の出番のようですね」


 ぬっと姿を見せたのは大陸の美騎爾、紅王を収めた具足櫃を担いだ張雹華だった。既に愛用の戟まで携えていることから既に覚悟も支度も十分と言うところであった。これを見た爾子は即座に待機させていた特別分隊に合図し、雹華とともに伊織の下へ急行させた。


 観測班が麓で忙しなくしている一方で、やはり伊織も同じく山中に異変が起きていることに気づいてた。


 「なんか変、さっきから音が

 

 夏の定番たる百物語で蝋燭を一つ一つ消していくように、ぽつぽつと気配が消えていく。やがて山中に感じられた人の気配が完全に消えたのだった。相手が呼吸を止めて音を消しても、その体温を間近に捉えることすらできる今の伊織にとって、この静寂が非常事態であることは直ぐに理解できた。


 一斉に消えたのではないとすれば、小隊が一同に撤退したということは考え難い。だとすれば何らかの事故か、マムシなどはともかく、大型の猛獣の類は居ないことを事前に確認していたはずだがと、伊織は不安になる。


 「消えた!完全に消えた!何だろう…」


 今の伊織は、見えることが却って恐怖になっている。己に迫る危機にではなく、演習を通して顔を合わせた人たちに降りかかっている何事かが分からないことへの恐怖だった。相手は面頬で顔を覆っているせいか、表情は読み取れない。しかし、短い銀髪と赤い瞳ははっきりと判る。装備する甲冑の幽玄な佇まいから、羅刹や夜叉を思わせる妖気がある。


 「鬼ってあだ名の友達はいるけど、こうやって現物を見るのは初めてかな…」


 この剣士と間合いを取りつつ、伊織は相手を観察しつつ心の平静を保つ。この伊織は襲撃者の到来に驚くような肝っ玉ではない。


 背には大太刀、腰には太刀が一振り、旧政府以前の戦乱期に見られた装備だった。それも最初期の、最も暴力的で強烈な「ばさらの時代」と呼ばれる武者の絵姿を思わせる。それ以上に彼女の心に波を立てたのには、相手の甲冑だった。


 こともあろうにこの剣士は自分と同じ装備を、それもを装備しているではないか。黒糸威の漆黒のそれは、今宵ここで見た闇よりも深い闇に見える。


 「標的は間違いなく私、だとしたら小隊の皆は…」


 伊織の胸中に最悪の事態がよぎった刹那、闇もろともを切り裂くがごとき速さで、四尺はある大切先の大太刀が抜き払われていた。

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