「祭典の日」(その8)
白い闇、これを最後に見たのはいつだったろう。この景色は八重が鬼園部と呼ばれる以前、それほど昔に見て以来だった。
旧政府では陸海軍および警察機関の剣術教授方を務めた父や祖父と対峙したとき、または彼らの知己と仕合をしたときにこの景色を見た。如何にしても気配も読めず、太刀筋も見えない。
ただ一つこれまでと違うものがある。そこにあるものは、雪梅と自分のみ。
あれほどの速度と威力を見せ、まさしく雨の如く降り注いだ雪梅の剣が止んでいるのに気づいた。玉砂利を踏む音も、剣が空を切る音も、すべてが消え失せている。というよりも、この空間では自分以外の動作が消えてしまっている。
「違う、この景色は…」
考えていると、不意にいつしか自分が見て来た景色が白い闇の中に投影されている。
「もう一度構えなさい。もう一度、はじめから」
それは父や祖父の指導の声と姿であり、幾度も木刀を払われては再び立ち向かう己の姿だった。払われた時に伝わる痛み、自分の未熟故のくやしさ、そして幼いころの自分の声もまた懐かしくさえもあった。
あの二人が立つ向こう側にある自分が進むべき道を、ただひたすらに見つめながら夢中で進んできたのだから。
「八重さん、さっきのもう一度教えて! あっ、ごめん。やっぱり無理かも…」
また景色が変わる。あの日、権益奪還を賭けた決闘で伊織に稽古をつけたときの自分の姿が投影されていた。
あの時は、友を死なせまいと己が知りうる技術を全て伝授した。幼少から彼女とは稽古をしてきた間柄とはいえ、この時だけは少しでも道を誤れば友を失うことにつながる。
伊織を失うことは己の剣の道が誤りであったことを示す。それは剣を失うこと以上の喪失だった。
それでも伊織は自分が歩いてきた道、剣を信じて最後までついてきてくれたこと、何より生還したことを八重は今も感謝している。ましてや、この仕合の直前に聞いた言葉を心から感謝した。
「そういうこと… なら、この空間は!?」
投影される景色が消えると、再びすべてが静止する白い闇がやってきた。自分は今、何者かにこの空間で問いかけられている。お前の剣はこれからどこを目指すのかと、ならば回答は決まっていた。
「ここから、もう一度始まる」
切先折れ、鎬は削がれ刃こぼれはササラの如く鍔元まで、最上大業物の伯耆高綱の太刀をここまで使い込んだ例は、過去にも未来にも存在しないだろう。既に武器としての役目は終えたこの一振りが果たす役目が、もう一つ残っている。
最後の一振りが、八重の剣の道を切り開く。
この道はまだ終わっていない。園部家に生まれた剣という宿命。その道を行く中で孤独でなかったことは親友の伊織が、そして今ここにいる雪梅との仕合が証明してくれた。自分は今、その始まりの日に帰還した。ここから新しい道が拓けるのだった。
「伊織、この瞬間を貴女にも見ていてほしい…」
全ての動作が停止した空間で、言葉が聞こえないならばせめて気持ちだけでも届と八重は思う。
あの日約束した伊織に、見えずともこの思いこそ伝わってほしいと思うのだった。
八重はゆっくりと上段に構える。初めて剣を執った時のような心地がした。縁頭を握る左手は鶏卵を握るがごとく柔らかく、そして柄を握る右手はやや内側に絞り、腕だけではなく胸筋と背筋で動かして振り下ろした。
切断の手ごたえがしたその刹那、すべての景色と音が戻って来た。
雪梅の眼前に、一刀を振り下ろした八重が突如として出現している。彼女が装備していた陽王の発光は終わり、光の剣も姿を消しており元の装飾の輝きがあるばかりだった。
「この距離では、反撃もできない…」
彼女は冷静にこの場を理解していた。この唐突に現れた一刀、見切ることも躱すこともできない完全に動作が消えた一刀を八重は繰り出したのだ。
大陸の鳳と呼ばれた彼女はここに前代未聞の秘技を見た。全てを出し尽くした八重の穏やかな表情を、雪梅は見る。更に胸部の護心鏡についた縦一文字の刀痕に、この立ち合いの終わりを悟るのだった。なるほどこれが八重の回答かと。
「お見事」
全てを理解するには時間を要するだろう。
それでも雪梅の心からの一言が、奉納仕合の締めくくりとなった。八重からの贈り物とでもいうべき一刀を、確かに受け取ったのだった。互いが全身全霊を尽くし、これ以上は存在しない。誰がこれ以上を要求できるだろうか。そこで立会人の西條寺望子がすっくと立ちあがり、二人の傍へ寄って行った。
「両者これまで。鈴寿御前の御霊に恥じない見事な仕合であった」
この一言によって、この奉納仕合は締めくくられた。粛々と続けられる奉納仕合の完了を鈴寿に告げる儀礼の最中、八重の最後の一手は立会人たちに様々な思いを巡らせていた。
「園部家は剣術の他に魔術も伝承しているのか?」
あのエマ・ジョーンズ伍長を打ち破ったときに見せた居合を、時山少将は覚えている。あの時の速度とは桁が違いすぎる。挙動を消すことでの速度という段階の速度ではない。彼女そのものが、雪梅の間合いに突如として現れたではないか。それも、既に攻撃は完了している。理解が完全に追いつかない領域を目の当たりにした。
「仕掛ける前に飛び掛かった…それにしては、違う」
祝詞の奏上を聞きつつ、雹華は八重の足元に目をやった。すると、その玉砂利の妙な乱れに気が付いた。歩幅から察するに、あれは歩いた足跡であり飛び掛かった時のそれとは違う、余りにも緩慢すぎた。一瞬にして複数の足跡がつくことはありえないとなれば、考えうることは一つだった。
「まさか、いや。そんなはずはない。そんなことは
「何と言うことだ。鬼園部は、
これはまさしく前人未踏の領域であり近代あってこのようにな事象を目の当たりにするとは、立会人の清河大佐も調査研究を主導しているとはいえ驚きを隠せずにいた。
剣術がお互いを引き合わせ、剣を交えることでその言葉と精神を結び付けた。立会人ですら言葉を呑んだあの光景に、お互いが装備した美騎爾が共鳴し、その能力を最大限に発揮してこの結末に至った。雪梅と陽王に追いつかんとした八重を鈴寿が助けたということになる。
これまでの伝承にない新しい歴史が、この二人の剣によって切り拓かれたと言っていい。我々はもはや、名剣士の秘技を見届けた立会人という域にとどまらず、美騎爾という甲冑に
「良かった。八重さんが帰って来た」
伊織はこの決着を目の当たりにして、心からそう安堵していた。いつだって八重の剣は、誰よりも先へ向かっていくのを稽古で知っている。説明されても理解できないものや、絶対に追いつけないこともたくさんあるし、随分と痛い目にあったこともある。
それであっても、伊織が剣を厭うことは一度もなかった。
それは当然だった。最愛の友が愛したものを、どうして嫌いになることが出来るというのか。何より、彼女があるく道が剣術だというのなら、八重は剣そのものだ。未来永劫、剣がその役割を捨てることはないのだから。
きっとまた明日から、八重は道場で何か考えながら稽古をしているのだろう。それならば、また明日からもそうした日々が続くようにと、鈴寿御前が祀られる社に祈っていた。
その八重は、あの景色が鈴寿の能力であることに気づいている様子は無かった。
静かに神官の奏上に耳を傾けながら、ただこの全身全霊を使い果たすこととなった奉納仕合に、美騎爾という奇妙な甲冑が見せた秘技に感謝の他はない。何より、そこで思い浮かぶのは、伊織のあの時の表情だった。
「伊織、私は通り何処にも行ったりしない。これからも貴女と一緒に歩いていく…」
八重はそっと、そんなことを心の中で呟くのだった。
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