「美騎爾の示し」(その5)

 旧東王朝を治めた皇帝一族は、首都北部の郊外に位置する別邸に蟄居していた。

 

 当然ではあるが、革命の後ということで王朝が権勢を奮った時期以上に危険がつきまとう。臨時政府の過激な一派から刺客が向けられたのは一度や二度ではない。


 瓦解後も付き従う僅かばかりの兵卒や士官が日々の警護を担っている。皇帝一族の別邸ということもあり、自然の豊かな風雅な光景が見事であるが、それを呑気に楽しむ余裕はない。


 そこに毎日のように訪れる一人の絵師があった。


 絵師とはいえ正門の衛兵は義務として中身を日々改めるが、そこにあるのは絵筆、文鎮、それに岩絵の具を溶く小皿と変わりがなく、平和の風景そのものであった。


 この張香月という絵師はその柔らかな雰囲気も相まって、かつてあらゆる将兵が憧れ、時に嫉妬した近衛大将の張文延の次女だとは到底思えなかった。


 「ご協力感謝します。お通りください」

 「ありがとうございます」


 若い衛兵が頭を下げると、香月も一礼する。その様子もまた美しい。豊かな長い黒髪を結った姿は、いかなる簪でも似合うだろう。いや、並の簪などは彼女の飾りにもならないかもしれない。


 「おい、いつまでもぼやっとしてるんじゃないよ。まったく」


 香月の後ろ姿をぼーっと見つめる若い衛兵を、同僚の衛兵が注意した。歳は、彼よりも二つ三つ上のようだった。

 

 「ああ、すみません」

 「しかし、女性一人でこの道中を毎日とは」


 絵師が、まして若い女性が一人でこの空気の中で参上するとは幾ら張将軍の次女とは言えど、危険が過ぎる。


 「香月様は、あのように見えて拳法の鳳と呼ばれている。供廻りなんていらないのさ」

 「ええ? あの方が拳術家? 冗談はよしてくれよ」


 毎日荷物を改めるときに、絹のように滑らかな香月の手のひらを見ているが、拳打などとは無縁にしか見えない。あれで殴打されてたとしても春風にあたるようなものだろう。


 「俺は昔、香月様の御前試合を見たことがあるよ。南北双方の拳術の大家が挑んでみたが、あっさり降参していったよ」

 「本当ですか、それ?」

 「なんだか、あれを見ていると俺たちの研鑽なんてそのうちに入らないと思ったよ」


 年上の衛兵は語るが、どうも若い衛兵は納得がいかないようで、お前にはまだ研鑽が必要ということを託けて言いたいのだろうと思思った。そしてもし、香月様が拳術の達人だとしたら、一発くらい打たれてもいいかと少々不気味な願望を抱くのであった。


 香月が毎日、この別邸に通っているのは皇后の依頼によるものだ。


 皇帝一族とは言え蟄居の身分、書画に道楽するというのは贅沢のようにも思えるかもしれない。だが、助命嘆願が受け入れられた代わりに、この一族は人間が持つ価値観というものをことごとく喪失していた。これは、人間が生きるにあたって、精神的な支柱を成すものである。


 王朝の瓦解により政治、経済という基本的なものは言うに及ばず、その皇帝という一種の信仰・宗教をも失った。


 皇帝の一族は確かに生きながらえた。しかし、生きるに値するだけの価値を、精神的支柱をすべてを失っている。


 衣食住に困らず生きながらえることに、何が不幸がと思うものもあるかもしれない。しかし、一切の自由も選択肢もないその生き方は、果たして人間の生きる道であろうか。なおかつ世間の視線を集めつづけるその姿は、羽を切り詰められたの中の鳥と、どれほど違うだろうか。


 人間であれば、最後に唯一残される価値観は芸術である。


 花鳥風月の世界を愛で、あるいはその感情を何らかの形に托す行為は人間が最後に許される価値観、幸福といっていい。だが、皇帝一族はすでに人間の生きる道から外された。


 その芸術すらも喪失を続けている。


 王朝に代々伝わる神品名宝は、臨時政府にとって「資産」として接収されている。そして外貨獲得のため海外へ散逸をつづけ、王宮の宝物殿いっぱいにあったそれらは異国の紙幣と硬貨に両替されていく。殊に皇后の書画への愛着は並々ならぬものがあり、新たに作品を遺そうとかつての宮廷御用達の絵師や工芸職人達に声をかけた。


 中には、臨時政府の監視を恐れて申し出を断った連中も少なくない。そんな状況下で香月が足繁く通うことは、自ずと張一族の忠臣に二心がないことを証明していた。


 今日で通うこと一週間、当初はおぼろげであった絵の全容も徐々にその絵筆によって詳細になっていく。雨の一滴がやがて大河となり、海に続いていくという光景に四季のうつろいを顕した一幅、そこに託した比喩が何であるか皇后にはよく分かっていた。


 王朝の勃興から衰退、なるほど扶桑之國の旧政府に次ぐ長さを誇る東王朝も、改めてみればそのように起こり、消えていく運命であったかもしれない。


 果たしてこれが墨の濃淡だけでこれほど見事に描ききれるだろうか。


 驚くほかはない。掠れ、にじみ、濃淡、それだけではない妙味がこの白黒の絵画世界に存在している。その技は一体何だろうかと、今日は皇后自らが制作の様子を見学している。皇后自身も絵画については天賦のものがあり、その画風は東王朝時代の代表的な例となっている。特徴としては西方諸国からもたらされた油彩画の影響が見られ、写実に富んだ画風であった。


 「そなたの運筆には、一つも淀みがない。見事なことよ」


 じっと見つめていた皇后が発した一言に、ぴたりと香月の手が止まる。しかし、それでも一筆をし損じることは無かった。そして香月は一礼する。


 「皇后様、恐れ入ります」

 「それは何か秘訣があるのか」


 皇后は微笑みながら、香月に尋ねる。しかし、当の香月は何やら考えあぐねていた。


 「恐れながら、香月の絵筆には特段の秘訣というものはありません」

 「そのようなことがあろうか? まるで風か川の流れの如く


 他の宮廷絵師と香月の絵が明らかに違うのは、線の迷いが一つもないことであった。線どころか、紙上の一点に於いても無駄がない。そこで香月は、ひとつ思い当たるところがあるようで口を開いた。


 「強いて言うならば… 多少の拳術の心得があります故、そのためかと」

 「それは不思議、まるで真逆の術に思える」

 「拳術、いうなれば武術は、得物を用いて最小の動作で相手を破壊する最短の道を見つけます。しかし、これを創作に置き換えれば、創造への道をそうやって見つけるのかと思います」

 「優れた武術家は一種の芸術家ということか。ほほほ、それは面白い」


 皇后は多少、お作法としての武術の嗜みはあるが、そこまでの深奥に至っていない。故に純粋な画才を持つ貴人として、香月が示した不思議な哲学に惹かれた。

 

 「なれば、同じように武術の大家には優れた絵師があるのか?」

 「まさしくその好例があります。惜しむらくは、扶桑之國の剣客なのですが」

 「ああ、それは口惜しい」


 無理もあるまい。皇后も御前試合で香月の腕前を知っている。奥伝や秘伝という枕詞で半ば形骸となった拳術や、その大家達に彼女同様の術の応用が出来るとは到底思えない。できたとしても、それは見た目上の美しさだけであり、やはり彼女に打ち勝つことは不可能だ。


 「その剣客も、香月のような筆使いなのか?」

 「私より遥かに上を行くものです。武術の技量も、間違いなく」


 なんでも、その剣客は旧政府統治の時代に活躍し、全国を流浪したのちに南扶桑に滞在し客死したという。その滞在のおり、数々の書画や刀剣の装飾意匠を遺したという。特に枯れ枝に止まる鴃は有名な一幅であり、しばし扶桑之國の剣士たちはこの写しを買い求めるという。香月も、人づてにこの写しを手に入れたという。


 「その一幅の、枯れ枝に心を奪われたと?」

 

 話を聞いた皇后は何となく、鴃の描写の見事に目をやるものと想像していた。


 「はい、あれほど迷いのない筆で描かれた枝に止まった鴃なら、もっともっと高くへ飛んで行ったろうと思ったのです」


 香月の答に、皇后は思わず納得した。


 作者が流浪の剣客というのならば描いた鴃も同じく、鴎が水溜まりの上ではなく、大洋の上を行くが如く、本来あるべきところを目指して羽ばたくのだ。


 張香月は絵師である。そして同時に、拳術の鳳と評価される名人である。皇后とはまったく見える世界が違っていたのだ。拳術の鳳と呼ばれる彼女を、紙面の鴃で震え上がらせる剣客が居るとは、やはり扶桑之國とは昔から得体が知れない。


 「香月や、私はすこしばかりお前の秘訣がわかったぞ」


 皇后はまた、ほほほと笑った。


 「未熟な回答、お許しください

 「何、構わぬ」


 その正直な姿が、皇后にはある人物に重なる。 


 「近頃はますます母君に似てきたな」


 それは香月の母、華月であった。彼女は皇后の幼少の頃から右筆を務めた人物であり、同い年の皇后とは気のおけない友人同士でもあった。そんな友人の華月が張文延に嫁入りすると聞いたときは、何だか不思議な嫉妬が芽生えてしまった。今もその感情が何であったか判らないが、婚礼の前夜そんな感情から


 そして、その不思議な感情はまだ生きている。王朝も無い今、彼女との間を隔てるものは何も無い。手を伸ばせば、その影は影の役目を終えて実体となる。しかし悲しきかな、香月は華月ではない。そこで皇后はいつも我に返るのであった。


 「香月や、作品もじきに仕上がると見える。しばらく、会えぬようになるの」

 「皇后様、いつでもお申しつけください。この香月、どこへ呼ばれても馳せ参じて絵筆を執りたく思います」

 「そなたも体が丈夫なほうではないのだから、


  皇后のたきしめた香が、より香月に近づいて来る。皇后は優しく香月を抱きしめた。その甘いかおりと温もりに、香月もまた幼少期のわずかに残る母の残像を見るのであった。


 柔らかく暖かい空気が、制作場に満ちていた。

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