「美騎爾の示し」(その4)
酒宴は凄まじい盛り上がりを見せ、雹華の従卒、林杏と麻美は歌えや踊れの大騒ぎ、取り巻き連中もそれに併せてさらに大騒ぎだった。
酔いも回り取り巻き連中がその辺で寝息を立てたりして静かになってくると、雹華も手酌でちびちびとやりはじめていた。この機を逃すまいと、明明は本題に入ろうと思った。同道し雹華の父である張文延に目通りを願う。これだけは幾ら酔っていても、忘れてはならない。
「雹華様、実は折り入ってお願いがございます」
「急に改まって、どうされた?」
妙に改まった明明の態度に、雹華は何かを感じ取っているようだった。
「実は、私は父君…将軍に目通りを考えております。その道中をご一緒してはいただけませんか」
「朋朋殿、問題ありません。これも何かの縁です。構いません」
「助かります。何と御礼を言えばいいか」
「ところで、ご用向きは何でしょう?父は、
雹華の言葉の節々に、明明は「やはり」と思ってしまう。この距離なら、暗がりでも正体は判る。先ほどから時折見せる眼光といい間違いない、ついに見破られた。だが、臆してはならない。これだけまっすぐな人間なら、無碍には扱うまいと明明は覚悟を決めた。もし、ここで彼女の方天戟で討ち取られるならそれもまた良し。今日の杯を死に水に、この政府に殉死してみせようではないか。
「それが・・・」
明明が続けようとしたとき、雹華のほうが先に言葉を発した。
「朋朋殿、父の再婚相手とは貴女のことであったか?」
雹華の「すべてがつながった」と言わんばかりの表情は暗がりでも分かったが、明明にしてみれば「なんのことやら」であった。何でも彼女が今回修業に飛び出したのは、あれだけ断っていた再婚の話に乗ろうとしていたからだった。
「父上ときたら、生涯愛するのは妻一人といいながら、よもや年下の女優を選ぶとは…所詮は男か」
雹華は、あの高潔な父親にこんな「男らしい」部分があるのかと落胆とも嘲笑ともつかない様子だった。
「これも、何かの導きでしょう。その願い、確かに承ります」
どうやら彼女は、本気で自分のことを女優の朋朋と勘違いしているようだ。却ってここまでくると、頼むから酒のせいであってくれと明明は思うようになった。
「身支度にもありますでしょうから、明日の正午。また、ここに」
「わかりました」
奇妙な形ではあるが、なんとか自分の要求を受け入れてくれたことに明明は安堵し、雹華に一礼して酔鯨亭を去って行った。その様子を見届けるとあれを連れていったら、父上もさぞかし驚くだろと、雹華は父の驚く顔を想像しながら、店の中ではなく愛馬「怪力」の隣で眠った。こうするのが彼女の修行の締め括りの儀式だった。
次の日の正午、酔鯨亭の前に身支度した司馬明明はやってきた。
さすがに昨晩の深酒が祟ったのか、今も頭の中で宴会でもしているようにガンガンする。湯浴みしても昨晩の酒の匂いがしやしないか気になるほどだった。副総裁の趙周明にも話をつけてきたが、平素から明明の行動は速いとは言え唐突すぎるだろうと呆れられた。そして、例のごとく朋朋に間違えられたというのは笑われてしまった。
それも、二日酔いの頭を揺らすような大笑いだった。
「おお、朋朋殿。お待ちしておりました」
雹華ときたら元気いっぱい、旅の疲れも昨晩の酔いもどこ吹く風といった顔色だった。甲冑は櫃に収められており平服であった。そして、あの愉快な従者の麻美と林杏はいなかった。
「あの二人もあんな調子ですが、一応は無事に帰宅しております」
道中で彼女たちと雹華の愉快なやりとりを見れないのは、すこし残念であった。
雹華との道中、明明はまったく安全という他はなかった。
首都近郊であっても、自然の豊かなこの地域は何処にも危険な存在が潜んでいる。彼女を狙う賊徒刺客は言うに及ばず、猛獣の類もその気配や
雹華が騎乗で方天戟を携えて闊歩する姿は、まさに凱旋そのものであった。遠巻きから見れば、その立派な体格もあって父の文延に見紛う者ももあるほどだが、よく見ると文延の特徴的な八の字髭がないことで「ああ、末娘の雹華様か」と気づくという。
この事実とも現実ともとれない逸話の出典は「武笑談」と言いう書籍である。古代から現代までの武人の笑い話をまとめたものである。昨晩、明明はその一冊を雹華の取り巻き連中から譲ってもらった。しかし、雹華が物心ついたころから「現代編」という独立し、毎年刷新されるという具合になっている。
理由は、言うまでもない。雹華がずば抜けた武人であるのと、その逸話がどこか面白いものばかりだからだ。暴れん坊と言われるが、彼女を恐れているのは賊徒とか無頼漢だけであり、市井の人々はその性格を愛していた。
それを道中、より間近でこの雹華を見ていた明明によくわかった。
時折、雹華の馬に老若男女が駆け寄っては「これをどうぞ」と間食の饅頭などを差し入れをする。その折は下馬して、しっかりと自らの手で受け取って見せ、求められれば例の能筆ぶりを発揮して何やら揮毫する。
おかしかったのは、男児などが「雹将軍、私を家来にしてください!」などと寄ってくると「家来ではなく婿ではどうだ?」などとからかってやる。
ただしその時、男児が妙な表情をしていたのを明明は見逃していない。純真から来る照れではない、あれは恐怖だ。あの男児、なかなか女性を見る目がある。将なら一生を預けられるが、嫁なら一生頭が上がるまい。
こんな交流が続いたため、道中少し遅れた。そして差し入れなどを食べていたせいか、明明は腹が膨れるのと昨晩の疲れでうつらうつらしてしまった。姿勢を崩したとき、ぱっと雹華の方天戟の柄が伸びて明明を助け起こした。まるで手足のようにあの戟を操ると、明明は感心してしまった。
「ははは、馬の上で
ずいぶんと恥ずかしいところを見られた。
「これは失礼」
「いえ、落馬しなかったのは見事です。兵馬の扱いについては、流石は音に聞こえた司馬一門ですな
明明は、二日酔いも眠気も吹き飛んだ。まるっきり自分の正体は露見されていたのだ。
「これは重ねて失礼を。ところで、いつからお気づきに」
おそるおそる明明は尋ねた。命をとるつもりなら、先ほど差し出したものは柄ではなかった筈だ。だとすれば目的は。
「昨晩、一目見たときから。そこで従卒と図って、あのように騒ぎました。浅知恵ですが、あれが貴女を護る最良の手と思いましてね」
なるほど、雹華やあの二人が「女優の朋朋だ」というなら誰も異義を唱えまい。そして、明明本人に何かあればすぐに察知できる。人の中に人を隠すというが彼女の判断は十分過ぎた。
昨晩の明明は、その感覚を志士の時代に立ち返って、尾行や追っ手が辿れない裏道で帰宅していたのだ。それでも、大抵一人くらいは勘のいいものがいるのだが、今に至るまで遭遇していない。雹華の目的は、徹底して明明を護るということであった。
「それと、時折後ろを気にされておられるが、追っ手は来ません」
なんでも、今頃は関所のあたりで麻美と林杏が仁王像のように行く手を阻んでいるという。自分と明明を見かけたら、すぐに配置につけと段取りをつけておいたらしい。
「何かあれば、彼女たちが防ぎます。私の喧嘩修業に付き合う連中です。腕は保証しますよ」
流石は張文延の娘だ。
昨晩の惚けた芝居、今日の段取り、兵法を知る者の所作だ。蛮勇、跳ねっ返りと思っていたが戦の慣用を自然に身につけている。だが、明明も司馬の一門であるためか、少し意地の悪い質問をしてきた。
「もし、二人が買収されるとか、家族を人質に取られて、追っ手として追いかけて来たら?」
雹華は明明の一言に、司馬一門の知略というものを実感する。人間の信頼というものがどれだけ脆く、どれだけ簡単に崩せるかを知っている。
「はははは、それなら到着がもう三十分ほど遅れますな。この先に小橋があります。総裁は馬をそのまままっすぐ北へ向けてください。
明明は、からからと笑う雹華の姿に生っ粋の武人を実感せざるを得ない。寝食を共にした仲間でさえ、剣を交える必要があれば躊躇わない。冷徹なのではない、それだけの覚悟でこの道中に臨んでいるのだ。 張雹華、そして彼女を育てた張文延、十分に信頼に値する。これならば我々の思いにもいくらかは賛同を得られるだろう。
「雹華殿、貴女の心遣い真に感謝します」
明明とて女傑と呼ばれる人物だが、産まれる順番が違っていれば彼女が総裁だとかそういった立場にあったのではないかと思えた。
件の小橋を超えるといよいよ雹華の、文延の住居が見えてきた。
近衛大将を務めた人間の住まいとしては、なるほどと納得の行く広大な敷地だが質素過ぎる。
邸内も同じことだった。余計な装飾はなく、庭先でさえその風雅の気風はわずかにあるばかり。溢れているものとしたら、実用のただそれのみであるが、事が起きればここを小城として一戦構えられる様式であることに気づく。なるほど皇帝一族の別邸から程近く、そこを本丸とするならばここは出丸として防御の要になる。
「さて、到着しましたよ司馬総裁」
「ありがとうございました」
「ところで、父への目通りはすぐにかないます。しかし…」
にわかに雹華の表情が曇る。何事だろうかと明明は思う。
「お恥ずかしいのですが、いつも帰着の挨拶は少々ばかり父と揉めるのです。どうかご容赦いただければ」
張文延ゆずりの才覚があっても年頃の乙女である。帰ってきてのお説教。これはどの世代でも場所でも同じことらしい。そして、その恥じらう姿のかわいいことと明明は思う。やや頬を赤らめ、目を反らしながら語る雹華の姿ときたら!あの武人然とした覇気が消えているではないか。
「構いません。ここまで来たのですから」
「心遣い感謝いたします」
雹華も美しく一礼をすると、のしのしと家の中へ入っていった。そして「父上、ただいま帰りました」の大きな一言が聞こえるが速いか、あの張将軍が「この大たわけ!」という父親らしい声が響いた。明明が張将軍のこのような声を聞くのは、まるで初めてであった。
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