「美騎爾の示し」(その2)

 近衛大将、張文延の名前を知らないものはない。


 近頃の子供などは「親の名前より先に覚える」と言われるほど国民に慕われており、皇帝とは幼少の頃より付き合いのある武人である。身の丈は六尺を超え七尺近くあり、全身の古傷が虎の模様のように見えることから「虎将軍」というあだ名も用いられており、愛馬の汗血馬に跨がれば疾風の如く戦場を駆け回り数々の功績を挙げた。


 各地域の王朝打倒を目論んで武装化した邪教徒の反乱、夜盗山賊の大連合との大戦。王朝と国民を苦しめる輩は、ことごとく愛用の方天戟によって屠られていった。


 四十手前で近衛大将に就任したが異例の速度であり、ほぼ世襲となったこの役職に部外者が着任した例は数百年を遡らねばならない。


 彼の功績は、歴代の王朝が用いた兵馬の利点を再編纂し現代式に改めた点が挙げられる。


 騎兵単体の防御力の薄さを攻撃力で補うべく、拳銃や騎兵銃以上に戟や槍、または矛などの習熟を推奨した。その成果は、文延本人と配下の騎兵たちが戦場で幾度となく証明している。そして扶桑之國陸軍の騎兵隊相手に示して見せたことは記憶に新しい。


 あと一歩で敵の名将、黒木大将を討ち取るまでに迫った。


 さすがに最新式の装甲車両や機銃の加勢にその手は阻まれたが、影武者となった将校たちを討ち取ったのはすべて文延である。撤退する時は、人馬ともども自分の出血か返り血かわからないほどに真っ赤になっていた。


 大戦を通して、数少ない勝利をおさめていたのはすべて張将軍が率いる隊であった。


 常々、彼を疎ましく思っていた諸将は、彼が扶桑之國陸軍と内通しているとか、連戦の勝利は欺瞞でありその背景に裏打ちされた台本であると皇帝に讒言した。皇帝も連敗が続いたことや泰西王国の二枚舌に翻弄され疑心暗鬼、その言葉を真実と錯覚した。


 文延には連戦の慰労を名目に休暇を与えたが、これは半ば解任と軟禁であった。その判断の成否は言うまでもない。讒言した連中は戦死或いは生き延びてこそしたが戦犯として死刑執行、遺されたものは何もなかった。



 先の勅命により文延は退役将校という扱いとなり、軍事裁判にかけられることはなかった。仮に法廷に立ったとしても、将軍を責めるものは誰もないだろう。堂々とした戦いぶりを身をもって知った扶桑之國陸軍から助命の嘆願が来ていたかもしれない。もっとも、これは後の北方の帝国とのやり取りを知る故の明明の想像でしかない。


 その降伏後にとった将軍の行動で、明明は気になったことがひとつある。


 なぜ王宮を取り囲んだ我々や民衆を、例の騎馬隊総出で制圧しなかったかということだ。蟄居といっても形式だけのことだ。忠誠心の篤い将軍ならば、脱け出して部隊と共に我々を蹴散らすことは容易に出来るはずだ。


 そのことを直接聞いてみたい、前々から思っていたのだ。住まいは首都から馬をゆっくりと進ませても半日かかるまい。


 司馬一門は元来、軍馬にも通じていたのでこれは苦労にならない。距離や馬に乗ることは問題ではない。やはり、周明の言う通り危険過ぎる。護衛を付けたとしても、すでに、自分を排斥する気配は政府内に漂っている。


 「用心棒が要るが、誰が適任か…」


 明明はしばし、考え事などがあると変装して盛り場などに繰り出すことがある。一つは息抜き、もう一つは国民の実際の生活を見ることや、日常会話から聞き取ることがたびたびある。人が集まる中で、賑やかになってくると喧嘩などは日常茶飯事だが、木を隠すなら森の中とはよく言ったもので、一人で政府の庁舎や自宅にいるより遥かに安全であった。


 彼女はなじみの酒場「酔鯨堂」へ足を運んだ。


 民主運動の志士であったころはこういった所で密会しては、諸々の計画を練ったものだ。そして、さんざんに王宮警察から追いかけ回されたもので逃げ道にも習熟している。むろん、店の親父も心得たもので今でも明明とは顔なじみでいろいろ都合が利く。当時使った隠し扉や通路は今も健在だ。


 しかし、今日は自分を除いて客がいないことが気になっていた。少なくとも、自分が来ることは知らせていない。それでも問題ないことは、お互いによく知っている。

 

 「あるじ、随分静かだな」

 「ああ、もうじき賑やかになりますよ。今日は総裁とご一行様しか見えません」

 「この店を貸し切るとは、随分な輩が来るものだな」


 この店の名前の通り、鯨でもやってきて酒を飲み干すのだろうか。


 「随分な輩どころか、張将軍の末娘が帰ってくるんですよ」

 

 それは随分な輩どころではない。張将軍の末娘で知られる雹華は、元来の暴れん坊で腕っ節が強いことで知られる。十代も半ばになるとしばしば父に反発しては家を飛び出すようになった。そして「東大陸総追捕使」と勝手に名乗り、馬賊や夜盗を相手に喧嘩修業と言わんばかりに大暴れしているということは有名だ。


 彼女の逸話については武人の逸話を集めた書籍にも載っているが、半ば冗談のようなものだと思っている。しかし、これから張将軍の下へ帰るのだとすれば、同道を願えないかと考えた。もっとも安全で確実な同伴者である。


 少し酒が入ったせいか、考えが甘すぎたと明明は自嘲する。自分の素性を考えればそれは難しい。そんな暴れん坊が、親の敵ともいうべき政府総裁を目の間にしたらどうなる。明日には臨時政府が明明本人の葬儀と、次期総裁の選挙を都合するだろう。


 「総裁、案ずることはありませんよ。あの娘はそういう類の人間じゃありません」


 親父は明明の顔色を見て一言言った。


 なるほど、確かに親父の人を見る目は確かだ。自分で言うのもおこがましいが、自分や副総裁の趙周明の危機を幾度も助けた点からも言える。これからやってくるという末娘が、我々と同じようなものを持っている人間ならばと考えると、今度は急に張雹華という人物を知りたくなってきた。


 あの虎将軍こと張文延をてこずらせる末娘とはどれほどのものだろうか。


 すると、往来から太鼓を打ち鳴らす音や、笛の音が近づいて来るのがわかった。


 「ああ、おいでなさった」


 親父はいそいそと、厨房の方に声をやったり使用人たちと席を整えるなどした。その様子をよそに、明明は往来に出て近づいて来るご一行様を見ることにした。

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