「もう一度彼女が行くところ」(その5)

 五月も中頃に差し掛かった頃である。


 伊織とナオミに学長室への呼び出しがあった。二人はちょうど、今週末が締め切りの補習課題について取り組んでいたのだが、ここにきて追加の課題も有り得るのかとドキドキしながら学長室に向かうことにした。


 すると学長室の前に、見覚えのある人影があった。


 「あれ?八重さん、どうしたの」

 「そういう伊織こそどうしたのよ」


 はて、成績も素行も優秀な彼女が一体何用かと伊織は首を傾げる。間違いなく、教官や学長に呼び出されるなどとは無縁の筈だ。一方で八重は。自分と伊織に対する新たな任務が学長こと時山少将からあるものと想像していたが、ナオミ・オハラも同伴ということでその線はないと判った。そうなると、一体何だろうか。


 学長室の扉に「談話中」と札が掛けてあるのを、三人はじっと見つめている。残念だが室内の話し声は耳をそばだてても聞き取れない。


 「一体、何だろうね」


 ひそひそとナオミは伊織の耳元で尋ねた。その様子に何だかその様子に「あら?」というものを八重は感じた。明らかに、耳元へ手をやる仕種のそれが「あら?」と思わざるを得ない距離感と速度だった。

 

 「何だろうね。ナオミさん」


 また八重は「あら?」というものを感じた。伊織はいつも、この美しい留学生を「オハラさん」と呼んでいたはずだ。二人の距離が急に縮まっている。奇しくも戦いで向き合うこととなった二人とはいえ、それがきっかけというには異なる雰囲気がある。


 「二人とも、もう少し静かに」


 なんとなく、八重は咳ばらいをして二人を制した。二人は不思議そうに八重を見た。


 「仕合の顛末を考えれば、何もない訳はないはず」


 そして八重は気を取り直し、先の決闘について「再戦」ということも十分にあるだろうと考えた。ならば、あのエマ・ジョーンズ伍長にもう一度会えるのではないか。彼女との約束を思い出すと、言葉より先に頬に唇の柔らかい感触が蘇る。ああ、昼間から何を空想しているのかと気恥ずかしくなって一人赤くなる。


 そんな八重をさらに不思議そうに伊織とナオミは眺める。


 「八重さん、どうかしたの?」

 「な、な、なんでもないの…二人は何か思い当たる節はある?」


 八重は慌てて話題を二人に振った。


 「ええと…やっぱり、赤点の一個連隊かな?」


 伊織の懸念事項に、八重はぷっと噴き出してしまった。その「赤点の一個連隊」という単語の持つ破壊力であった。


 「一個連隊?こっちのクラスでは、一個師団って噂されてるけど?」


 八重が在籍する近衛士官候補生のクラスでは、どうも一般士官候補でとんでもない数の赤点を採った生徒が居ると話題になっていた。その噂の中身は尾鰭がついて「全科目合わせても百点にならない」とか「零点を下回った点数がある」など散々なものだった。


 「あっ、八重さん酷い!そっちの思い当たる節は!?」

 「特にないわよ」

 「ほら、道場の賃料払ってないとか」


 鬼園部は道場を学科以外でも用いる常連ということで、ここで寝起きしているという噂が最近広まった。しかも、家賃を払うからと本人が懇願して住まいにする認可を取り付けたという噂が近頃は流れている。この噂を本気にして同期生から家族が帝都見物にくるから一泊させてくれだとか、教官までも「そうしてやれ」と助言することもあるほどだ。


 「ちょっと!?やっぱりあの噂流したの伊織だったの!」

 

 自分が原因とは言え、にわかに大きくなった八重の声に思わず伊織もあたふたしてしまう。


 「声が大きいよ八重さん。冗談のつもりで言ったのよ」


 「冗談じゃないわよ」


 


 「ふふっ、随分な噂じゃない」


 思わずナオミも笑ってしまった。確かに、彼女の熱心な稽古ぶりは知っている。それを、こんな風にからかえる伊織と八重の間柄には少しばかり妬けてしまう。


 「ほら、ナオミさんもウケてるから良いじゃない」

 「ところで貴女、前までオハラさんを名前で呼んでいなかったと思うけど」

 

 流石は八重、幼なじみの小さな変化を見逃さなかった。

 

 「ああ、これはなんというか」


 伊織も、この心境の変化はうまく言えなかった。互いの唇が重なった時、何かが弾けたような気がしたのだが、どうもまだまだ純真な彼女にとってその状況はうまく説明できなかった。しかし、ナオミがとんでもないことを言い出した。そう、彼女はこういう状況では必ずこういうところがある。


 「まあ伊織さんとは、もうだから」 

 「ちょっとナオミさん!?」


 その言葉は、彼女の繰り出す拳打よりも早く正確に八重に届いた。そして余りにもその威力は強い。そして、突然肩を抱き寄せられた伊織も焦った。唐突過ぎる。


 「えっ!」


 八重は目を点にしたが、


 近頃、一般の女学校ではがしばしあると雑誌で読んだ。まさか、幼なじみが潮流ムーブメントに乗っていたとは。対戦相手と同室、なるほどこういう展開にもなるのかと一人納得したが、出た言葉は一言だった。


 「破廉恥!」


 余りの大声に、通り掛かった生徒や教官も驚いた。流石の大声に、伊織とナオミは八重を制するのに必死になってしまった。


 「三人とも、少し静かにしたまえ」


 そんなどうしようもない光景に、颯爽と希子が現れた。若干、お怒りのご様子が額に浮かぶ青筋から分かる。それでも凛とした雰囲気は健在、完全に三人のやり取り漫才か寄席芸人のそれにしか見えなくなってしまう。そろって三人は慌てて敬礼をして「申し訳ありません!」と声を揃えたが、どうにも決まりが悪かった。


 「わかればよろしい。入室してくれ」


 二人のやり取りは希子も随分と見慣れたもので、普段なら笑いを堪えることができるがどうもナオミまでそちらの素質があると思わなかった。それは来訪者のアリサ・スカーレットも同じであった。


 三人への用向きは、来週から東華民国から短期留学生を迎えるというものだった。


 現在、政情の混乱や外交上の不都合から交渉が難航したため、大合衆国に仲介を依頼した。


 アリサ・スカーレットも繁忙であったが、交渉は私の戦場とばかりに快諾して協力を取り付けてくれた。そして、手続き上の問題はすべて解決したことと、船のほうも一隻都合できたと、彼女は希子へ報告に上がっていたのだ。少し余裕もあったので、あの美しい女性将官にもう一度会ってみようと思ったところもあるのだが。


 「ところで、この留学生はちょっと訳ありでな」

 「訳ありですか?」


 八重が希子の表情が変わったため、思わず尋ねた。やはり、再び剣を執る時が来たのだろうかと考える。ナオミは「おそらくは亡命か」と想像していた。実際、本国に居た頃はそうした名目で西方諸国の子女を受け入れるところ見ている。そして、伊織は「確か、こないだの外語で大陸語は三十点を採っていたから挨拶は大丈夫。きっと大丈夫」と自分に言い聞かせていた。


 「園部君、聞いて驚くな。張雪梅が来る」

 「張雪梅ですか…!?」


 八重はその名前を聞いて、落雷を受けたような衝撃を受けた


 驚くなというほうが難しい、張雪梅とは弱冠十九歳にして伝説となった大陸の剣士、その剣名は既に扶桑之國を含めた極東地域から東南諸国まで轟いている。王室最後の剣術教授方として活躍していた彼女は、秋頃に陸軍の剣術教官として着任することもあり、その前に扶桑之國の陸軍学校への留学を希望したという。


 その彼女の案内役として、そして何より率先して交流してほしいという狙いがあった。


 「故に君達を呼んで話をしようと思った。貴重な機会だ。ぜひ交流を深めて、大いに学んでほしい」

 「時山学長、是非に及ばずです」


 八重の声は弾み、表情がにわかに明るくなった。


 もし試合をする機会などがあれば、自分の剣がどれだけ通じるだろうと想像してしまう。間違いなく一つも及ばない。いや、本当に及ばないだろうか。不思議な気持ちが込み上げて来る。しばらく感じなかったような感情が。


 伊織はその様子を見ていると、急に不安になった。


 また真剣を交えることになったらという危惧もあった。そして何より、その表情と声色から八重が自分から遠いところに行ってしまった気がするのだ。それでも、八重が嬉しいならそれでいいかと何とか気持ちを抑えた。


 「張梅雪…確か妹の香月っていうのは、こっち側だったような」


 話を聞いていて悪い話ではないが、ナオミとしては彼女の妹である張香月の方に関心があった。こちら大合衆国の移民者コミュニティでその名前と拳法について聞いたことがある。あの時聞いた話では、もう一人妹が居たはずだが。名前は何だったろうかと考えていた。


 「ところで月岡君、これは別件なのだが…」

 「は、はい!!」


 急な指名に、思わず伊織は姿勢を正した。流石に時山少将、憧れの希子様からの別件があるとは何時までもうじうじと考え事をしては居られない。


 「これを機会に大陸語の現物に触れて、しっかり勉強しておいて欲しい。


 伊織は憧れの希子様からの何とも言えない心遣いに、うれしいような恥ずかしいような気持ちでいっぱいになった。


 そして「月岡伊織、頑張ります」と、なんとも言えない感情で敬礼をした。といっても、こんな一言を加えたのは希子の気遣いだった。喜怒哀楽が表に出やすい故、八重が張雪梅の名前を聞いて何かしゅんとしていたのを見逃していなかった。

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