「もう一度彼女が行くところ」(その3)
扶桑之國駐在武官、泰西王国陸軍ナンシー・フェルジ大佐は件の敗戦から帰国、まもなくして婚約者の老公爵との婚礼を執り行った。
しかしその婚礼から一週間も経たないうちに、
まさに、美しい花を奪い去る如き暴風の到来だった。
美貌で通る名家の息女たちはいうに及ばず、気になった乙女が目の前を通りすぎたら手を付けるような有様。近頃、泰西王国を訪れている某王族の姫君は、既にナンシーから
また、婚礼の色直しの最中に着替えを手伝う乙女の唇を吸っていたとさえ伝わる。
こういう貴人の不貞は大衆の注目と興味をそそるものであり、部数を伸ばすための格好の材料である。ゆえに今日の朝刊にも載っていたし、明日の夕刊にも載るだろう。
「これでよし」
当の本人は怒りも恥もなく、一仕事終えた表情をしていた。この醜聞だが、創作が八割で事実が二割といったところだ。
もはや、あの老公爵との結婚などは彼女にとって問題ではない。
件の決闘の提案した挙げ句の敗戦、これによる国王からの信用失墜で、今や見る影もなく憔悴しきっている。結婚初夜の誘いはおろかナンシーの美貌が隣にあって接吻さえ求めず、虚ろな表情で「国王陛下、私は左様なつもりでは」と繰り返すのみ。
一体どれほどのお叱りを受けたことやら、これだから
一応、両名ともこの国の保守派では重鎮に数えられる老人たちであるので、この精神衰弱ぶりを表に出してはならない。
表向きは永遠を誓った亭主であり、名門出身のお大臣様は娘の悪癖ぶりに憔悴しているように見せておかなければならない。
断じて、政治的な失敗などは存在しない。そうしておかなければならない。
ここまで警戒するには、理由がある。何せ鼻の効く記者以上に恐れるものが、どうもこの首都ライドンに出没していることをナンシーは掴んでいたのだ。
彼女は扶桑之國からの帰国の途中にあって、船上はもちろん寄港先でも諜報部との情報交換を欠かさなかった。理由はもちろん、東方連邦の火種こと例の画学生だ。
あの人物が結成した政党「祖国」が少数ながら議席を獲得した。
政権奪取こそは果たせなかったものの、間違いなく第一歩を踏み出したのは間違いない。これで絵を収めるべき額縁程度は揃えたことになる。あとは下書きに絵の具を載せていけばよい。その議席獲得だが、かなり疑わしいところがあるというところだった。
保守党の議員たちで、体調不良によって出馬を見送った例が散見された。これによって空白となった議席に、彼らの政党に所属する議員が収まった。ただの偶然と見るには、余りに楽観的である。何せ選挙後、一般人に戻った彼らの姿が目撃されていないのだ。
運が良くて、どこぞへ幽閉というところだろう。いずれも地方の選挙区ということもあり、あまり報道でも注目されていないが、報道機関の一部も協力して隠蔽しているものと考えられた。加えて、これらの情報を提供した諜報員が首都を流れるアデル河で遺体で見つかった。遺体の損傷具合から、堂々と首都で処理されたものと断定できる。
殺害された諜報員たちの戦闘技術に関しては、陸海軍いずれの兵よりも洗練された独特の格闘技術、現場に有るものを武器に転用し証拠を残さない。携行する火器や道具も、隠密活動用に設計された特注品で、性能はこの国の兵器にしては上出来な代物だ。
このような泰西王国の諜報員を察知して対応するとは、腕利きの始末屋が動いている。加えて、余程の情報網を既に構築していることは間違いない。そしてその網の目は、こちらまで伸びて来ている。
情報を掴まれることや、次の選挙に向けて同様の手口で始末されては困るのだ。もっともこれは情愛から来る行動ではない。ようやく手に入れた、権威ある操り人形を、
逃げ帰ってきたのではない。次に迫る戦いのためにナンシー・フェルジは戻ってきたのだ。
この戦いだけは西方諸国を戦禍から救うため。そして何より女王陛下が望まれる世界の実現のために、断固として勝たねばならない。ただ一つ、惜しむらくはあの右腕にしてもっとも愛するべきエマ・ジョーンズを扶桑之國へ残してきたことだ。
そのエマ・ジョーンズは、扶桑之國で清河爾子の預かりとなっていた。
帰国後、先の決闘の敗北の責任で謀殺されかねないと危惧したことと、ナンシー・フェルジや泰西王国のその筋との仲介役として扶桑之國で働くべく彼女があれこれを段取りした。戦いぶり以上に、あのナンシーを支え続けた若い才能として、失うには惜しい人材だと爾子は思っていた。扶桑之國の旧政府時代に幾つも訓話を残す御小姓のそれに通じるものがある。
故にあの戦いの後、諸々の対応の中で爾子は思わずこんなことを言ってしまったほどだ。
「失礼ながら、罪に問われるべきはフェルジ大佐の父上やお仲間達でしょう。ジョーンズ伍長は一兵卒として任務を遂行したのみ…懲罰の対象になるなら私が身柄を預かります。」
爾子のこの率直な一言にナンシーは共感しエマを託した。そして奇想天外ながらに、現実見透かすような爾子の性格にエマは何か新しいものを感じていた。
そんな成り行きからか、エマは爾子と同居しているうちに肌を重ねる間柄となっていた。
爾子は案外そういうところがあり、恩義を題目に毎夜の如くエマの奉仕を求めた。これを彼女が断れるはずが無かった。エマに跨がられる時は彼女にとって愉悦の時間、赤毛の乙女が夜ごとに息を弾ませる。そして、爾子はその快楽に身を委ねている。なるほど、エマの背景を考えればこうした技の熟達ぶりは簡単に予想できた。
何のことはない、按摩を連日のようにやってもらっている。
「いやぁ、毎夜毎夜に申し訳ない…」
爾子は今日もあちこちに送った書状への返信だとか、研究のための書き物だとかで、どこもカチコチに凝っていた。エマがまたがっている彼女の背中などは、まるで小さな岩石のようであった。
「いえ、こんなこと。何でもありません」
しかし、体をもんでやっていると幾つか不思議なことがある。歳のころは、確かあの時山希子や自分の上官、ナンシー・フェルジと同じだったと聞くが、何かこう豊かなところがない。簡単に言えば、胸も臀部も肉付きが乏しく、背丈なども遥かに二人より低い。体格だけを見ていると、何だかエマは妙な親近感が沸いて来る。
「それは随分と失礼な見立てだなジョーンズ伍長」
「失礼しました」
「まだ、伸びしろがあると思ってくれ」
この返しだ。この、考えているようなことを見透かすようなところだとエマは爾子の後ろ頭を眺めながら微笑する。
「本当に如才がないというか、理解と行動が早い」
背中を揉まれながら爾子はエマを讃えていた。目下、美騎爾の研究についてはエマが装備していた「
「この労働の返礼は、園部君との再戦でどうかな」
ふとした一言に、エマの手が止まった。今、任務以上に心を奪われているのはそのことだった。
「いえ、清河大佐。その約束は、既にあの時…」
爾子はその一言に「ああ、そういうことか」と察したようだった。
「なるほど。それでは園部君が申し込んで来たとき、私が取り次ごう」
「ありがとうございます」
「そういう人がいることは、良いことだよ」
「大佐にとって、それは時山閣下でしょうか?」
「希子とは旧友だよ。そんな関係と知れたら、君の上官から私の暗殺指令が下るよ」
また見透かされた。しかし、まったくその通りだとエマは思って、クスクスと笑ってしまった。
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