第二部「接触」

第1話「もう一度彼女が行くところ」

「もう一度彼女が行くところ」(その1)

 桜が終わり、若葉の香る季節が近づいている。


 木々の緑は日増しに色濃くなり、その爽やかな色彩は吹く風にまで反映されているような爽やかな気候だった。その爽やかな光景とは裏腹に、月岡伊織の表情は一足先に梅雨空のようだった。


 ほんの少し前、彼女はあの権益奪還を巡る決闘で、大合衆国側の代表代理として参戦したルームメイトのナオミ・オハラに勝利した。扶桑之國側からの恩賞として陸軍学校の卒業単位免除、卒業後は近衛少尉。十代の乙女が持つには、大金どころではすまない額の褒賞金が与えられた。友人との戦いに苦慮こそしたものの、その終わりは余りに鮮やかに決着させた。


 大変な初陣だったが、ここに彼女の表情を曇らせる要素はない。


 問題は恩賞にある。階級や金額の問題ではない。確かに卒業までの単位は免除されているが、


 

 これを「卒業まで試験は受けなくてもいいと思ったが最後、今回の試験で赤点の一個連隊の編成が完了した。それも、ほとんどの科目で最低記録更新という状態。敗北に不思議の敗北はない。救いがあるとすれば、零点がないのと進級試験で受けたナオミの指導の甲斐あって、外国語全般はまともな点数となった。


 「伊織さん、そんなにがっかりしないで。試験だから」


 頭を抱えてうめく伊織の肩を、ナオミが優しく叩く。そんなナオミに喚きながら伊織は縋り付く。普段は元気の権化とか、天気の良い日曜日みたいな彼女が、ここまで落胆しているのをナオミは見たことがない。無理もない、普通の学科より補習授業のほうが授業時間が長いことも、今さっき数えて分かった。


 当然だが、こうなれば土日の自由時間など無い。いかに計算しても、余暇と呼べる時間は食事と就寝だけだ。囚人のほうがよほど自由があるかもしれない。


 「ナオミさん、私どうしたらいいの」

 

 伊織はあの戦いから、彼女を名前で呼ぶようになった。二人には変わらぬ友情があったうえ、戦いという本音でぶつかりあう機会であったためか、その絆はいっそう深いものになっていた。


 あの、最後の贈り物がそうさせたといえばそうかもしれない。伊織は単純だが純情なので、時折思い出しては赤くなってしまう。


 「どうしたらって、もう覚悟を決めて補習の掃討戦にかからないと…」

 「こればっかりは、やっぱりどうしようもないかぁ」


 嘆息する伊織を宥めながら、ナオミはその可愛らしい姿に微笑する。そして、彼女が広げているたちを見て、ふと気づいたことがある。


 「ねえ、この『これ以上の採点は君の尊厳を傷つけるため行わない』って書いてあるけど…」

 「あっ、それね。意外と教官も優しいんだなって…」

 「たぶん、これ実際のところ零点なんじゃないかな?」


 その物理の成績は三点、その下に教官からの評価が美しい文字で書いてある。中身は目も当てられないもので、弾道計算だとか着弾時間の計算は文字通り的外れ。問題文を読んでいないとか、そういう次元の話ではない。ということは、野外の砲撃演習で伊織は全部勘で標的を撃破していたことになる。


 「嘘でしょ、ナオミさん!?」


 伊織は、まるで口から魂が飛び出しそうな顔をしていた。ナオミも余りに気の毒になって肩をさするどころか、抱きしめて「ああ、よしよし」と頭を撫でてしまった。気の毒だ。余りに気の毒すぎる。そして、この伊織は本当にあの時自分と戦った戦士なのかと、どうしても可笑しくなってしまいナオミは笑い出した。


 「ちょっと、笑わないでよ。ひどい!」


 今度は伊織がぽかすかとナオミを小突こうとするが、ナオミはそれをひょいひょいと躱すのだった。そして、すっと伊織の手をとって間合いに入る。俄に伊織とナオミの顔が並ぶ。そしてナオミは言った。


 「ごめん。もう一回、あの時みたいにしたげるから、許して?」

 「は、破廉恥!」

 

 この一言に、このナオミにはこういうズルイところがあると伊織も分かってきた。


 一方で伊織の旧友、園部八重に至っては試験など、何の問題もなく終えていた。


 順位で久々に上位五名から落ちたが、それでも十位以内に踏み止まった。これは、同じ近衛士官候補生たちの間で「おや?」と言われる程度の問題だった。近衛の担当教官は何事かあったかと察したようで「こういうときもある」と言葉少なく語った。そして八重は、彼女の住家ともいうべき陸軍学校の道場で剣の鍛練に打ち込んでいる。


 こちらのほうがよほど問題になっていた。いよいよ、彼女に匹敵するような対戦相手を探すのに難儀している。


 また、陸軍学校で指導を受ける方も受ける方で、余りに進化した太刀筋からは学びを得る以前に、却って混乱させてしまうばかりだ。警視庁や王室警護官の指導にあっても強さが段違いになっている。もはや、自分たちが振るう竹刀や木刀が八重を避けていると思うほどに、身のこなしが違う。そして彼女の一太刀は、どこまで逃げてもピタリと張り付いて来る。


 連中は当然、古流派の研究もやっている故、技術は極めて高いが、そんな連中さえ今までに経験したことのない剣を八重は使うようになっていた。


 八重はあのエマ・ジョーンズ伍長との生死を賭けた一戦を経験したことで、その剣筋や体捌きがさらに洗練され無駄がなくなっていった。多種多様な古流派の動きや型が、どのようにしてその完成に至ったのかを実戦を通じて、心身に落とし込んだと言っていいだろう。中には、形骸化した動きや指導伝承のために加えられた不純物が段々と消えていく。


 そんな高純度の技術を相手に、そんな不純物を含む剣がどの程度通用するだろうか、言うまでもないだろう。


 八重はこれまで、剣に於いては「優れた継承者」という受け身の存在であったが、いよいよ開祖と呼ばれる剣士として新たな創造に挑む領域に踏み込もうとしている。だが、この道を歩むことはこれまで以上の困難と強敵に出会う必要がある。


 探求という道は孤独では前進しないのだ。自分のすべてを発揮しても尚、そこに弱点を見出だすような相手がいなければならない。その相手を見つけた時、立ち会った時こそ、八重の流派が黎明を迎える。その先にあるのはあの美しい戦士、エマ・ジョーンズだった。


 「もう一度会うとしたら、泰西王国に渡らないとね…」


 今頃彼女は、上官と共に帰国しているはずだ。追いかければ、見送りくらいは出来たのだろうか。


 思えば、言葉を交わしたのは戦いが終わった数分に満たないような時間だった。それでいて、これほどまでに心を奪われているのは所謂一目惚れのように思える。自分が彼女を求めているのは剣の道を拓くためか、それとも萌芽を見せている彼女への恋慕なのだろうか。この待つことのもどかしさを、八重は如何にして断ち切るかを思案する。


 どうしても、この気持ちは断ち切ることができない。今のところ扶桑之國で彼女の剣が勝てないものはこれだけだった。 

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