「胸いっぱいの愛を」(その4)

 伊織と戦ったその晩、アリサの自邸でナオミはいつもより長めに眠った。そして翌日はまるで何事もなかった様子で休日を迎えていた。


 毎朝の走り込みやトレーニングも欠かさずやってのけ、まるで何も変わった様子はない。一つだけ変わったとすれば、朝食の内容が体を造るためのものではなく、故郷で親しんだ料理になっていたこと。焼いた腸詰めをパンに挟んで、青唐辛子と刻んだ酢漬け胡瓜と玉ねぎをかけて食べるあれ。ナオミはこれを随分と好むが、これを朝から頼むことは今までなかった。


 この変化に、アーニャはナオミに「何かあったな」と察した。おそらく、余り良いことではない。人間、故郷を強烈に思い返すのは何かつらいことがあったときだ。故郷というのは、そういう役割もある。心の故郷とは誰にとっても最後に帰る場所、そういう場所なのだ。


 「ナオミ、当てようか?」

 「何を?」


 さて、アーニャときたら性格の悪いところがある。ナオミが何にへこんでいるか、言い当てないと気が済まない。ナオミはいつものように澄ました顔をしていても、この私の目からは逃れられないと言わんばかりの表情をしていた。例の料理をたらふく平らげてナオミはコーヒーを飲んでいたが、妙に活き活きとしているアーニャの様子から仕方ない聞いてやるかと思った。


 「でしょ?」


 アーニャの悪意に満ちた笑み、的中されたナオミはもう何も返せなかった。そう、ナオミは伊織に負けたというよりフラれたといったほうが正しい。あれだけ全力を尽くし、圧倒的に技量で上回っていたのに、自分をまるで見ていなかったなんて、戦いに敗れた以上の敗北。まさにこれは一種の失恋だった。最後の接吻でさえ、伊織の心を動かす為には


 「その通りだよアーニャ、まったく」 


 ナオミが子供のようにムスッとした。


 こんな表情を見せるのも、随分と久しぶりだった。よっぽどの相手にフラれたなとアーニャは察した。さて、相手は一体どんな美男子なのだろうか。どのへんまで関係は進んでいたのか、何だか生々しいものが急に思い起こされて、却って彼女のほうも複雑な心境になった。


 昨日、ナオミに乞われて添い寝したときに何度か寝言でつぶやいた「伊織」というのが、その相手なのだろうというのはアーニャも分かっていた。古風な相手から察するに、まさか年上の男性士官や将校かとも想像してしまう。


 「でも、アンタをそでにするなんて随分じゃないの。まぁ、気を落とさないことね」

 「ああ、まったく大しただよ。でも、今はアーニャがいるから大丈夫」


 ナオミがフフっと笑うと、アーニャも微笑みを返した。こういうところだ。こういうところがナオミは絶対にずるいのだ。そして、アーニャの胸元にナオミは体を預けた。


 「ちょっと!朝からよしなさいよ!」


 昨晩の続きをしようというなら、余りに早すぎるしアリサ・スカーレットにこの場を見られたら大変なことになる。不幸中の幸い、アリサは先日の立会人を務めた疲労と、本国への報告処理で珍しく寝坊していた。


 「何もしないよ。ありがとう…アーニャ」


 ナオミはいつもと変わらない憎まれ口を叩いてくれたアーニャに、日常への帰還を実感していたのだ。ただし、その確かめかたはやはりナオミの絶対にずるいところが出ているので、どうも傍から見て「あらあら」なものになってしまっていた。


 「そういえば、時間間に合う?海軍の人に会うんでしょ?」

 「ああそうだね。そろそろ出かけるよ」


 ナオミは、本来ならば伊織と戦うはずだった大合衆国海軍のシーラ・ウィルソン上等兵と落ち合う約束を昨晩していた。戦いの顛末など、聞いておきたいとのことだった。 


 「昨日の今日で大変申し訳ありません。オハラ士官候補生」


 ナオミはシーラと大使館の面会室で久々に対面した。かつてここで、あのBIKINIを装備したのは随分と昔のように思える。そして、シーラもまた、母艦のレイクランドで起きた火災事故という戦いに挑み見事に帰還を果たしていた。


 「いや、いいよ。それにこっちこそ、面目次第も無い。代理で出ていったのに負けて帰ってくるなんて」

 「不適切な質問かもしれませんが、相手は人間でしたか?例えば、虎とか熊の見間違いとか」


 率直な質問だった。


 あのナオミ・オハラに、ましてやオハラ一族に敗北を知らしめる人間がいるのか。少なくとも、記憶している限りでは拳闘や組み打ちの公式大会では無敗だった。もしそんな奴がいるとしたら、本当に人間の形をしているのだろうか。扶桑之國には、随分多くの妖怪や怪奇の伝承がある。その類を相手にしたのではないか。それほどに、この敗戦はシーラは信じられなかった。


 「虎か熊どころか、小鹿かうさぎみたいな相手だよ」


 シーラの一言にナオミは思わず笑ってしまった。ちゃんと人間が相手であったし、まさか自分のルームメイトが相手になっただなんて。だが確かに、いびきが虎や熊が吠えるようにようにひどいときはあるのだけれど。


 でも、その小鹿かうさぎみたいな相手に自分は敗れた。そして、今も伊織の戦う姿を思い出す。あの一生懸命さは、一つ一つのどうさがキラキラと輝くようであった。


 今まで経験した対戦で、あんな光景をみたのは初めてだった。


 例えば父や二人の兄、彼らに見えるものは圧倒的強さと技の完成から発する「無」とか「白」というヴィジョン。他の対戦相手に見えるものは、勝利に拘泥して自分の技量や身体の声を無視したような、キャンバスの絵の具をぐちゃぐちゃにしたようなヴィジョンだった。


 誰一人、戦いの中で輝きを発するということはなかった。


 あれほどに伊織を輝かせる「向こう側」に立っている人間は誰なのか。そして、例えば自分が戦っているとき、そんな輝きがあるのかをずっと考えている。強いということに、疑いもなく育った環境の中で、自分自身は本当に成長しているのだろうか。伊織のように磨き上げるべきものを、ひょっとしたらどこかで見落としたのではないか。


 そんな風にナオミは夕べから考えていた。

 

 「どうかなされましたか?」


 シーラの一言にナオミは我に帰った。どうも少し考えに入り込みすぎていたようだ。


 「ああ、ごめん。ところで、火災事故の方は? そっちはそっちで大変だったとか」

 「犠牲者や二次災害が出なかったのは、本当に搭乗員全員の活躍で起こした奇跡でした」


 戦艦レイクランドの火災事故で、シーラは消火活動だけではなく、同僚や上官を二次災害から救助するなど八面六臂の大活躍を見せた。実践であれば、指揮官が全滅するような場面でも冷静に陣頭指揮を取り、疲労で手薄になる作業を効率的に対処した。これによってシーラは搭乗員一同からの尊敬を集めただけではなく、軍曹への昇進が決定した。誰も異論がなかった。さらには、大合衆国海軍から名誉勲章の授与が決まったという。


 「おめでとう、シーラ・ウィルソン軍曹」

  

 ナオミはシーラの海軍根性と、その大勝利に敬礼した。なんと素晴らしいことか、ここにも人を救うべく戦った勇者が居るではないか。そしてナオミは大敗を喫したこの自分が得たものは何かと、改めて考えるのだった。敗北にもし一つだけ優れた点があるとすれば、それは十分に考える機会を与えるということだ。


 敗北は歩みを止めるが、道を広げ時には別の道が拓ける。


 伊織と戦って、ナオミは戦士の誕生に立ち会った。そして、その戦いぶりから、彼女をもっと深く愛するようになった。こんなことは、生涯で幾度とない経験だろう。彼女とともに過ごせる時間は限られている。長くはないが、自分にとっては十分過ぎる。お互いの息遣いが聞こえるまでに、心も肉体も接近したあの瞬間、心に決めたことが一つある。

 

 伊織が見つめる先に居る人が、自分に変わるまで強くなろうということだ。


 いつか自分にも、伊織に見た輝きが訪れるように。その時、伊織が自分を見つめてくれるかもしれない。あの優しい顔をした彼女が。

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