「胸いっぱいの愛を」(その3)

 否応なしにその可憐な容姿は目立った。


 後ろに結った艶のある赤毛、グリーンの瞳はガラス細工を思わせる。そんな彼女が恩賜公園の長椅子にただ腰掛けているだけで、何かの物語や一種の絵画のようだった。そんなエマ・ジョーンズを見かけた婦人や女学生は「あら」と思い、年頃の男子学生などは「お前、声を掛けてみろ」などとコソコソ騒ぐ。


 エマはもう一度、山崎千代子に接触することにした。


 目的は借り受けた差料を返すことだけではない。最後に聞いておきたいことがあったのだ。懐中時計を見ると、使いの者が迎えに来るという刻限まであと少し。すると、エマの視界に影が差した。どうやら、約束の人物がやって来たなとエマは顔をあげる。


 「お初にお目にかかります。エマ・ジョーンズ伍長、お迎えに上がりました」


 目の前に立つその男は、流暢な泰西語でエマに話しかけた。


 銀の六ツ釦の黒色の上下、目印のそれと一致している。声の具合から歳のころは五十くらいだが、貧弱な印象はない。それはその体つきとその鍛練の証拠、こめかみに面擦れがあることで判る。そして彼の白手袋の上からでも、掌の分厚さが伝わる。紛れもない剣客のそれだ。


 「もしや貴方が?」

 「はい、先日ご連絡差し上げました使用人の杉村です」

 「失礼いたしました。よろしくお願いいたします」


 エマは一礼し、この杉村とともに千代子の邸宅へ向かった。


 しかし、ずいぶん無用心なだと思った。先ほど分析した身体的特徴に加えて気配もなく現れた身のこなし、高度な戦闘技術を身につけている。その割にはこうやって背を向けるとは、少し不用心ではないかと思う。この手にしている刀が、自分に向けられたらと警戒する様子もない。


 「伍長、心配には及びません。間合いが半歩ばかり、遠いですから」


 杉村は振り返ってニコと答えた。しかし、エマはこちらの心身の動きを読まれてしまったことに驚く。そして、少し調子に乗りすぎたと反省する。


 「この気配、あの人と似ている」


 そう、あの人とは園部八重だ。


 彼女と対峙したときと体験した数々の技に通じるところがある。やはり、女傑と呼ばれる人間の傍に仕える人間だ。見に周りの始末だけではなく、そういった方向でも不始末は残さない技量を持っている。もし、自分が敗北したことを知らせに行くのだと悟ったら、ここで討ち果たされるだろうかとエマは考えた。


 「あら、お嬢さん。しばらくだったわね」


 目通りした千代子は、例の居間にちょこんと座っていた。彼女の穏やかな表情と、周囲の刀掛で眠る名刀たちが相変わらず異様な雰囲気を醸している。そして千代子は、一段と美しくなったエマを見てなるほどと悟った。


 「お久しぶりです」


 エマは、三つ指をついて礼をした。そして、千代子に刀袋に入った例の朱鞘を差し出した。その意味を千代子は十分に理解していた。


 「貴方…勝負はどうだったかしら」


 エマは千代子のいう「貴方」とは、自分のことではないと気づく。それはかつての持ち主、北扶桑まで戦いつづけたという例の剣士である。そして、エマは再び平伏して戦いの顛末を話した。

 

 「園部八重という剣士が、海内無双…鬼園部と呼ばれる理由を身をもって知りました」


 同席していた杉村は「鬼園部」という単語に反応した。右手には、すでに棒手裏剣が握られている。このままエマの死角を狙えば、間違いなく仕留められる。しかし、千代子はそれを視線で諌めた。やはり園部八重が担ぎ出されていたのかと、落胆とも安堵とも付かない気持ちになった。この扶桑之國に園部八重に敵う剣士などあるものか。たとえ、千代子が愛したこと過去の世界に居るとしても、それは時代を数百年遡らねばなるまい。


 「敗北した身で恐縮ですが、一つお伺いしたいことがございます」

 「何かしら」


 なんとも子供らしいところがあると、千代子は思った。敗北を恥というなら、あの人や長々と生きながらえる自分は何だと言うのか。


 「何故、この差料をお選びになったのでしょうか」

 「あら、前にも言ったわよ。この剣で勝てと、そのために選んだの」

 「しかし私は戦いの中で、この差料からは貴女とは違う声を聞いたように感じたのです」

 

 エマはあの戦いを通して、この差料に込められたものを薄々感じ取っていた。それは決して今の政治体制への反感や復讐など単純なものではない。そう、男女の間に漂うがした。その香りを放つ花のようなものを見出だしたのだ。それはエマが生まれ育ったあの界隈で、一夜の花として散るはずのもの。


 だがこの刀には散ることのない、その花の一片を見出だすことができる。


 散ることも萎れることもなく、数十年を経てその花はここにある。鍔に彫刻された梅の花は、その証のようにさえ見える。それは千代子とて同じことではないかと、エマは思っていた。そして、きわめて似た花が自分の内側に咲こうとしている。その花の姿には、何故かあの鬼園部が重なるのだ。


 「あらあら、貴女は随分と聡いのね」


 千代子はエマが漂わせる戦士の気配は、十分に伝わっている。しかし女傑とまで言われたこの自分に、昔の男への未練を語らせようとは大した肝っ玉だ。

 

 「そうね。何と言えばいいかしら。あの時、一緒に行けば良かった。それだけよ」

 

 千代子はエマがこの戦いに勝利したなら、その勝利をあの人への手向けにしようと思っていたのだ。


 旧政府が倒され、新政府による統治が始まって間もなくの頃だった。誰しもが、旧政府側で戦ったものを讃えることはしなかった。生き残った連中でさえ目を背けた。今ではあの男を「北扶桑まで戦い抜いた忠義の剣士」などと言うようだが、昔は「意地を張りつづけた剣術屋」とか「北の果てまで負け越した道化師」と言われていたのを千代子は知っている。


 それ故に、あの人に勝たせてやりたいと思っていた。この変わり果てた扶桑之國という国の剣士と戦わせて、勝たせてやろうと思ったのだ。


 彼が北へ向かうとき、どうして一緒に行かなかったと後悔しなかった日はない。もう、あの人が帰ってこないとは判っている。だが、どこかで彼の帰還を待ち望んでいる。それが叶わないと知りながら、生きながらえている。結局の所、自分もあの人を見捨てて生きながらえる一人であると、いつか気づいた。なら、その締めくくりをどうしようかと考えはじめた。


 そんなときに、エマがやって来た。まるで彼が遣わした使者ではないかと思った。そしてこれこそが、かつての仇敵を彼とともに打ち破る最後の機会だと思った。そうしたら、彼の所へ行こうと決めた。


 しかし、相手が八重だったというならそれが叶うべくもない。園部八重の剣を鍛え上げた旧政府の剣士の中には、あの男と轡を並べて戦場を生き抜いた連中がいる。そんな仲間たちは、戦場の彼とその剣を「鬼」と讃えた。鬼の形見ともいうべき、白の柄巻に銀の拵、そしてあの鮮やかな朱鞘が北扶桑まで戦った記憶がある。


 八重はこの刀を見て、一体何を思っただろうかと千代子は考える。

 

 「これで終わりにしましょう」


 千代子は懐紙を取り出すと、こよりをつくって鍔の穴に通して朱鞘に結び付けた。エマはその様子を見て、千代子の思うあの人という人物が今ここに帰ってきたように感じられた。そして、同席していた杉村が涙を堪えていた。前に千代子が語ったこの朱鞘を届けた「坊や」とは、彼のことではないか。年齢を考えれば、そうかもしれない。彼はあの刀の運命を、始まりから終わりまで見届けたのだ。


 「お嬢さん、貴女にはそんな人がいらして?」

 

 不意の質問に、エマは動揺した。待ち人、いないといえば嘘になる。だが、それがそういう感情であるのか、未だに自分で判別できないのでいるのだ。


 「いえ。まだ、おりません」


 エマはさらりと答えたが、その背景は千代子に伝わっている。 


 「あら、うふふ」

 「不躾なご質問をお許しください。ご協力、心から感謝いたします」

 「こちらこそ。今日はこれまでにしましょう」

 

 千代子は静かに微笑むと、杉村にエマを玄関まで送るように言った。杉村は不意を付かれたようで、涙に濡れる顔を急いでハンカチで拭いていた。エマは玄関まで送られると、その門に改めて一礼を捧げるのであった。


 帰路、エマは千代子とのやり取りを思い出しているうちに、不思議と八重の姿が心の中に映りはじめる。


 「いつか本当に、彼女は会いに来てくれるだろうか…?」

 

 忘れようと思っても忘れ難きその光景、八重に敗れこそしたが真剣勝負を経て自分の技はより洗練された。命のやり取りで必要な最小の動作、効率的な動作を身につけることに繋がった。


 「彼女は強い、そして…」


 それ以上に思い起こされることは彼女の温もりと柔らかな頬、手を伸ばせば届くような距離に彼女が居る。そんな風に思い出すたびエマは胸がきゅっとする。


 彼女を美しき戦士として成長させたのは、そんな感情であった。

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