第7話「胸いっぱいの愛を」

「胸いっぱいの愛を」(その1)

 戦いを終えた伊織はその場で軍医の簡易な診察を受けると、立会人の希子と共に控室へ戻った。そして、彼女を迎えたのは園部八重の敬礼であった。


 「八重さん…」

 「お帰りなさい、伊織」


 これに改めて伊織は自分が戦場から帰還したと実感する。だが、八重の眼差しには普段の彼女の優しい気配があった。自分の願掛けは叶ったのだ。そう、またいつもの日々に帰れるようにという願いは通じたのだ。


 「園部君、すまないが装備を外すのを手伝ってやってくれ」

 「時山少将、了解致しました」

 

 これは二人の雰囲気を察しての一言だった。今日はこれから二人が陸軍本営への報告もある。戦いが終わっても忙しないことが分かっている故、戦いで離れていた二人には少しでも言葉を交わす時間を作ってやりたいという母心だった。


 八重と伊織が二人きりになると、八重は手慣れた手つきで手甲や籠手、脚絆を外し帷子の紐を解いていく。


 「伊織、ちょっとじっとしててね」

 「うん。へとへとで、もう動けないから…」

 「こんな時に、真面目になさいな…」


 そんな冗談を言う伊織だったが、その柔肌にはっきりと痣が浮かんでいる。待っている間に聞かされたが、あのナオミ・オハラが代理の相手とあっては楽な戦いにはならないと考えていた。打撃のみならず投げ技、彼女の徒手格闘のスキルは八重ですら敵わない。


 「ほとんどの打撃を防御の厚いところに… この器用さ、本当の天才ね」


 甲冑を装備した相手と組み合った時は、投げ技のみならず関節技も有効であるのでもちろん使っただろう。


 柔術や小具足術で攻める箇所を探って見ても、筋を痛めているところはおろか骨折やヒビの形跡はない。これは伊織がうまく抜け出したのが三割、残りは彼女の技量で配慮した見立てる方が正しい。

 必要以上に傷つけずに勝とうとするとは、なんという余裕か。そして、代理で真剣勝負をしろと言われても動じない胆力。さすが音に聞こえたオハラ一族の子女だと八重は納得する。


 しかし、自分以上にこの伊織を愛おしく思っている人間がいることに、少しばかり嫉妬してしまう。傷の有無を確かめる八重のひやりとした手が、伊織のほてった体に触れるたびに「ひん!」などと変な声を出すので、なんだかおもしろかった。


 「伊織、よく頑張ったわね」

 「えへへ、ありがと…」

 「この打ち身と痣だけど、特製の湿布でよくなるから心配しないで」

 「特製の湿布?」

 「そう、園部家秘伝のを持ってきてるから」


 八重はその秘伝の湿布薬とやらが入った壺を取り出した。蓋を開けると、なんだか甘ったるいような、薄荷ともニッキともつかないような芳香が部屋の中に漂い始めた。薬さじで救うと茶色くねばねばした半透明の薬液が見えた。


 「そ、それって、湿布なの…?」

 「本当は丸薬にして熱燗で飲むんだけど、貼っても効くのよ」


 そういいながら八重はせっせと甚だ不気味な薬液を掬ってぺたぺたと布に塗っている。戦いの前でさえ昼食を平然と平らげるように、どんなときでも何でも食べる伊織だが、これを飲める自信はなかった。

 八重が湿布のほうを選択してくれたことに感謝する。そして、いざ貼ってみると何だかぴりぴり、ぱちぱちするようでムズムズする。何だか湿布に電気療法や按摩をされている心地になる。


 「なんか変な感じ…」

 「我慢なさい。翌朝には痛みも痣もスッキリするから」


 湿布の効能は八重も幼少からよく知るところなので、伊織の反応が可愛らしかったが急に表情を変えた。


 「八重さん…」

 「どうしたの? どこか痛む…?」

 「こんな時にいうのも何だけど、オハラさん…凄く、強かった」

 「今まであんなところ、見たことなかった。凄いなぁ」


 伊織の言葉は、まるで観劇の感想を述べるように感動に満ちていた。


 やはり、彼女の中に闘争という言葉は無いのだ。これは彼女が単純明快な性格だということではなく、武術の才能が「和合と融和の道」として開花させつつあるのだと八重は思った。


 それは「武」が果たすべき本来の役割だ。脅しや侵略の道具ではなく、己を正しくあるために戒め、道に外れるものが現れたときに力が発揮される。まさにその王道を伊織は歩きはじめている。


 この精神は、彼女が憧れる希子様こと時山少将が目指している軍隊の精神に通じるものがある。伊織は自分の幼なじみだが、自分と竹刀を交えるうちにこんな風に成長していたことは、嬉しい驚きだった。


 いつも明るくて、よくも悪くも神経が図太くて、まったく可愛らしい伊織をいつものように眺めるだけでは、きっと気がつかなかっただろう。


 「私の相手も、そう簡単には行かない相手だったわね…」

 「八重さんでも簡単じゃない相手かぁ…」


 まったく恐ろしい相手だった。自分は不殺のつもりであったが、あのエマ・ジョーンズ伍長の攻撃には一切の躊躇がなかった。動きの速いことはまるで豹のようで、それこそ言語の通じない野獣を相手に言葉で説得するようなものだった。


 「ええ、そんな相手だった…でもね。また会おうって、約束したの」

 「約束?」

 「不思議ね。命のやり取りをした相手とそんな約束するの」 


 あの美しい赤毛と碧眼、そして柔らかい唇の感触が思い出された。そして、危うく伊織に詳細を話そうとしたところで八重は頭を横に振って雑念を払った。伊織はその様子を不思議そうに見ていた。


 「もう一度会えたらいいね。何かこう、争うとかじゃなくて、もっと気軽に」


 伊織の言わんとすることはわかる。だが、その気軽にという一言がいかにも伊織らしくて良いと八重は思う。やはり、時山少将と並べるのはまだまだ早すぎたかもしれない。


 「伊織はどうなの?オハラさん、ルームメイトじゃない?」

 「ああ、それなんだけど、やっぱりちょっと気まずいというか」


 はて、勝負の結果では互いに負傷はなかったと聞いているが、やはり知り合いに刃を向けた後ろめたさがあるのだろうか。


 「伊織、私と貴女の仲じゃない。話したほうが楽になるわよ?」

 「いやぁ、それはもっと気まずいというか…」

 「一体どうしたのよ?」


 伊織は困った。八重に「ナオミ・オハラに接吻されました」などと言ったら、衝撃のあまり気絶してしまうかもしれない。だが、伊織は伊織で、八重もまた似た「贈り物」を八重が受け取っていることを知らなかった。こんな二人の押し問答は、清河大佐が控室へ様子を伺いにくるまで続いていた。


 そんな二人の様子を見て「ああ、いつも通りに戻ったな」と安堵するのであった。

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