「美騎爾の導き」(その7)
ナオミの背後を捉え最後の一撃を放った伊織だったが、遂に力尽きて再び倒れ込む。
「正真正銘、これで終わり…」
そう思った瞬間に、全身の力が抜けていった。そして伊織の視界に広がったのは、足元の玉砂利ではなく希子の胸元だった。勝負が決した瞬間に、彼女は伊織に駆け寄っていたのだ。
「月岡君、よくやった…君は、本当によくやった…!」
希子は伊織の目を優しくその掌で覆う。攻撃を受けたナオミの姿を見せまいとする気遣いだというのは、伊織にもわかった。希子の体温が伝わったとき何か心を大きく揺さぶられた。自分がナオミにしたことについて、感情が堰を切ったように溢れてきた。
「時山少将、私は…」
伊織の声は震えており、泣き出しそうであった。あれ以外の決着はない、そう決めいてた。しかし、もう日常には戻れない。自分はナオミと二度と顔を合わせることができない。
「月岡君、判っている。いいんだ。もういいんだ」
掌を払いのけ、ナオミのほうに体を向けようとする伊織をぎゅっと抱きしめる。これ以上の光景を見せてはならない。せめて、それだけでも自分ができる最後の務めであった。同じく、棒立ちとなるナオミにも立会人のアリサが駆け寄って行くのを希子は見た。
そのナオミは、これから視界から消え行くであろうこの庭園の景色をぼうっと眺めていた。
「この景色も消える…もうじき…」
敗北の経験は初めてではない。幾たびも敗れて、自分はここまで強くなった。それゆえに、打撃や関節技の痛みはもとより、絞め落とされるときの感覚だって経験がある。
斬られるというのは、当然だが初めてだ。
だが、これほどまでに痛みの感覚がないものなのだろうか。伊織の使った刀の切れ味のおかげか、それとも何らかの脳内麻薬によってその痛みが軽減されているのか。
今はどちらでも構わない。伊織に敗れたのは、この戦いの中で自分よりも成長していったからだ。だたそれだけのことで、不思議と恨みはない。あれほど一生懸命になった彼女が自分を打ち負かすのは、自然なことだ。
恨みはないが、やはり後悔が一つ二つある。
それは、あの伊織ともう一度どこかで、もっと平穏な形で
するとナオミに自分へ近づく足音が聞こえた。
ミス・スカーレットこと、立会人を務めていたアリサ・スカーレットだ。彼女はナオミを無言のままそっと抱きしめた。このアリサも、そして同居人のアーニャもまたナオミにとっての日常であった。ようやく戦いは終わって日常に帰ってきた。だが、もうその日常に自分の居場所は無いのだ。なにもかも終わったのだから。競技ではなく、戦いに敗れるとは、こういうことなのだ。
「ナオミ… よく戦いました」
それ以上、彼女は言葉がなかった。しかし、ナオミは十分に理解していた。自分は軍人としての務めを果たしたまで、どうか後悔しないでほしい。そして願わくばアーニャとともに帰国したときは、自分の一族に戦いの顛末を話してやってほしい。
しかし、どうしてもナオミには気になることがあった。
アリサの声が遠くなる気配もなければ、見ているその景色すら鮮明なままだ。よく考えれば伊織の一刀を受けたというのに、背をつたう血潮の温もりすらない。やはり感覚がなくなったのか。違う、それなら先に足元から力が抜けていく筈だ。
「まだ…まだ、戦える…」
闘志を再びたぎらせるナオミの一言に、アリサはぎょっとした。
「ナオミ、冗談は止して。もうその体では無理よ」
アリサの表情は一転して曇った。これ以上、ナオミが戦うことなど不可能だ。それは、立会人の目からも明らかだった。
「ミス・スカーレット、やれます。私の五体に技がある限り、装備を失ったことにはなりません。動ける限り、戦います」
アリサはナオミが正気を失ったのかと思った。そして、首を横に降りながら静かに言うのだった。
「ナオミ、あなたの装備はもう何も残っていないわ」
アリサの顔には完全な諦めと、もう一つの感情が読み取れる。そしてナオミは、なぜミス・スカーレットはそんな表情をしているのか不思議だった。
「何も?」
「そう、何も」
ナオミが用いた BIKINI<兵員の戦闘(Battle)における強度(Intencity)の維持(keep)及び行動の独立性(Independence)確保と正常化(Normalize)を目的とする接触面(Interface)>は、基本となる装備であっても堅牢な作りをしている。
各間接プロテクタに用いられた新素材の強度は言うに及ばず、それらと連動するハブの役割を果たす上下の基本装備は軽量かつ防弾防刃に優れた軟質素材を用いている。これは布のように着用していることを実感させないほど自然で、装備する者を不要なストレスから解放している。とはいえ、
すべてを理解したナオミは一気に真っ赤になった。
間接のプロテクタは既に全壊、そして残っていたBIKINIの上下が伊織の一撃で切り裂かれた。そう、自分が裸体を晒しているということに気づいたのだ。
ナオミは自らの肉体美を、余すことなく晒していた。
その引き締まって隆起する腹筋と背筋という堅牢な美。そして形の良い明るい色をした乳首が乗る乳房、腰のくびれに理想的な臀部のシルエットという柔和な美。この美の化身が、さきほどまで鬼神の如く死闘を繰り広げていたとはまったくもって信じられない。この庭園の見事さもあって、一種の芸術作品の完成を見るようでさえある。
「スカーレット女史!彼女に早く上着を!」
そんな希子の声が聞こえた。そして、その腕の中に「オハラさん、ごめんなさい」と目隠しをされながら涙声で連呼する伊織が居るではないか。その伊織は、今すぐにでもこちらに飛びついてきそうだった。
ナオミはアリサに手渡されたジャケットを羽織ると、この光景に大笑いしてしまった。真剣勝負、命のやり取りのあとだというのに、止めることができなかった。
控えで結果を待つ八重にも、エマにも、そして話し込んでいたナンシーと爾子にも聞こえた。
しかし、伊織と付き合いの長い八重は、何となく彼女が取った選択が判った。まったく、真剣勝負にあって何と言うことをやってのけるのかと。
その庭先では、希子が静止する伊織にナオミがそのまま近づいていった。
「伊織さん。泣かないで」
希子の目隠しを振り払った伊織は、自分がしたことを改めて後悔した。装備を全壊させれば勝利ということで、丸裸にしてしまったのだ。こんな非道な行為の後、いったいどうやってナオミと顔を合わせればいいのか判らなかった。
「オハラさん、ごめんなさい…」
涙声で頬を赤らめる伊織を見て、ナオミは確信した。
この娘は、まるっきり見ているものが違った。下手すれば自分の命を奪われていたであろうこの試合で共に生還する道を探していたのだ。 本当に一生懸命でかわいい娘。でも、少し生意気だと思ったときナオミの行動は一つしかなかった。この間合いなら、絶対に外さない。
「なら… こっちからお返し…!」
ナオミが、腕を振りかぶった。平手の狙いは伊織の頬だった。
「あっ?」
伊織が驚いた瞬間、当たったのは平手ではない。もっと柔らかく温かいもの、ナオミは伊織の唇を鮮やかに奪っていた。
「これで、私の勝ちだね?」
唇を離すと、額をこつんと当ててニッと笑って見せるた。その中性的な顔立ちに、吸い込まれるような青い瞳、暮れなずむ陽に照らされるナオミの顔はますます美しい。余りの情報量の多さに、伊織は頭の中で純情が沸騰した。
傍らで見ていた希子は、目の前で繰り広げられる乙女の尊い純情を前に頬を赤らめていた。
午前中のエマ・ジョーンズもその柔肌を露にしながら八重の両頬へ接吻していたが、二人の有り余る闘志も合間って、それは対決の一部に見えた。
だが、これは余りに純情かつ情熱的すぎる。純情のの熱が高すぎる。
これに思わず希子は「ああ」と嘆息してしまった。そしてアリサに至っては、両手で顔を覆い「ああ!神よ!」とつぶやくばかりであった。この妙齢の二人が見せた反応は、どういう意味であるかは判らない。
やはり伊織も最後の一撃のせいで、どういうことなのか判らなくなった。本当に自分は勝ったのだろうか。この美の化身に。
だが、これは伊織の勝利だ。それは疑うべくもない。
彼女の放った最後の一撃が倒したものは、ナオミどころではなくこの仕合の背景にある「戦争」という存在だった。伊織の妙な図太さでこれを実現させた。戦争という非日常の到来を、彼女は打ち破ったのだ。これは屁理屈や言葉遊びではない。
敵を生還させただけではなく、奇妙な導きによって友人同士が命のやり取りをするという悲劇を見事、喜劇に変えたのだから。
立会人の二人が、何よりナオミ本人ですら「斬られる」と覚悟をした中で、伊織の選んだ方法は、日常の彼女と変わりないやり方と考え方だった。ナオミから受けた攻撃など、彼女にとって何の恨みもない。今あるのは、彼女と日常へ帰還できることの喜びである。
「でも…明日から、どうやって向き合えばいいんだろ…?」
ただ一つ、親しい同性の柔肌を自らの手で衆目に晒すという、乙女にとっては堪えがたい行為をやってしまった後悔があるばかりだった。まったくもって、図太い神経をしている。それでもって扶桑之國建国以来、最小にして最も美しい戦いを彼女が大勝利で締めくくった。
そう、月岡伊織は勝利とともに帰還したのだ。美の化身からの唐突すぎる贈り物とともに。
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