「美騎爾の導き」(その5)
動きが止まった伊織にナオミが迫る。既にその表情が読み取れる距離であったが、不思議と彼女から殺気は感じられなかった。
「伊織さん、これで終わりにしよう…」
ナオミは心から願っていた。これ程までに覆しがたい力量差、装備の性能差、任務とは言え伊織がこれ以上苦しむところは見たくない。何より自分にとって日常の象徴を壊さないための奇妙な愛情だった。
「ゴメンね。これだけは、敗けるわけには…」
伊織は声にこそでなかったが、今この時のナオミの動作が優しさであることがわかる。先ほどの打撃の猛攻でさえ、防御の無い胴や顔面を一切狙っていないというところはその証左だ。
「八重さんみたいに、ちゃんと戦い方を知ってるんだね…」
その異常なまでの強さは確かに優しさだった。ナオミは、おそらく七分くらいの実力しか出していない。状況は圧倒的に不利であるが、この戦いをどうにかして勝たなければならない。一瞬でいい、ほんの一瞬だけ彼女より強くあれば、その瞬間に決着をつける。
「何か、弱点はないのかな」
伊織は八重との特訓が脳裏に過ぎった。今から一週間ほど前、八重と特訓していた合間に妙な問答をされたことがある。
「伊織はあの蝶を素手で捕まえられる?」
八重は時山亭の庭先に迷い込んだ一羽の蝶を指して尋ねた。むろん、反射神経のいい伊織はそんなこと造作もないと思ったが、これが不思議と掴めない。明らかに自分のほうが素早く動いているのに、蝶はゆっくりと伊織の手をすり抜ける。
「だめ!全然できない!」
ムキになった伊織がついに匙を投げた。その様子を見て八重は答える。
「ちゃんと見てないからよ。蝶を…」
八重の言わんとすることは、伊織はさっぱりわからなかった。
「視力検査じゃ毎回満点だよ?」
伊織の相変わらず「おいおい」な回答に脱力する八重だったが、やはり伊織には蝶が見えていないと八重は思った。
「気づいてないから、と言った方が正しいわね。例えば蝶は後ろに飛ばないし、途中で飛ぶ速度が変わったりしない。そういうことに気付けば簡単」
そう言って八重がすっと手を伸ばすと、掌の中にその蝶が吸い込まれるように入った。そして伊織は、その動作が八重の居合や抜き打ちの極意が隠されていると判った。相手の動きがわかるのなら、相手より早く動く必要はない。寧ろ、いっこうにゆっくりであっても構わない。なるほど、これが八重の「後の先」というものか。
「観察するっていうこと?」
「そう。真剣勝負じゃ相手は悠長にしてないから、一瞬でその機会を捉えるの」
そういう意味では、自然の風景を見ること、あの庭園を眺めることだって特訓になると教わった。この教訓のおかげで随分と観察眼を養うこともできるようになったと思う。
「観察する。相手の動きを、体の作りを…」
目の前に立つナオミを見る。すごく足が長い、引き締まっててスタイルがいい。色が白くて顔立ちが整っている。美人とハンサムが同居してる顔立ち…違う、そういうことじゃない。これでは八重から赤点、追試を受けてしまう。
観察して気になったのは、あの装備だ。あれだけ脆弱な作りでは、防御を役割としていないはずだ。だとすれば何だろう。気になったのは、手足の間接を防御している装具に付いている米粒くらいの小さな電飾のようなものが点灯している。
「たぶん、あの部分が運動の補助をしているんだ。原理は、全くわからないけど!」
なぜなら、あの電飾はナオミが攻撃しているときは点滅していた。装備する人間の動作と連動しているのとすれば、あながちこの推測は外れていないはずだ。
「当てられるかな? いや、当てる…!」
間接や肩を狙った一撃。これは真剣勝負の基本、この一撃は確実に戦闘継続不能に陥れる。幸運にもその装備の位置と、この攻撃の方向は一致していた。ならば、やれる。
伊織は立ち上がり、すかさずナオミとの間合いを取る。その時に見えたナオミの表情は「そうこなくっちゃ」という微笑みだった。後退する伊織を逃すものかと追撃する。
その時、ガチッという打撃音と共に火花が爆ぜた。
伊織の一刀は見事にナオミの左腕の
「すごい威力。でも、今度は…!」
伊織も負けじと、次は右足の装備を狙ったが今回は表面を撫でるだけで刃が回らなかった。あまりに体勢が不安定過ぎた。これを警戒したナオミが間合いから離れる。また互いににらみ合いとなる。
「これが無かったら、左手も右足も無かったね」
ナオミは思わず背筋が凍った。さすがは大合衆国の科学力、このガラス繊維を練り込んだ新素材の強度によっては守られた。
「間接狙いの一撃とは、伊織さんもずいぶん躊躇いがなくなったなぁ」
ひょっとして、私のことが嫌いなのかと思った。しかし、これは女学生の喧嘩ではなく戦争だ。そんな理由があるわけもない。やると決めたら、それくらいのことはするだろう。さすがにこれは自惚れだとナオミは自戒した。
「でも、これは開発部隊に要連絡だな」
先ほどの一撃で削がれた左腕のそれはともかく、当たっただけで動作が渋くなるとは思わなかった。というよりも、あの何の変哲もない刀があれほどの強度を持っているとは思わなかった。あれだけの打撃でありながら、刃こぼれも曲がりも刀身には見えない。
「対戦相手は苦戦しているけど、まだ死に体になっていないわね」
立会人のアリサはナオミが優勢とみているが、まだまだ相手がへばっていないことに警戒していた。さすがに刀が相手では、不測の事態もありえる。一方で希子も伊織がまだ戦意を失っていないことを見極めていた。
「月岡君は、逆境にあってこそ強くなる」
これは特訓を見守っていた時にも思ったが、伊織はそういうタイプの強さを持っている。幼なじみの間柄とは言え、あの鬼園部こと園部八重にずっと引き分けてきたのはそのためだ。そう、彼女は壁が大きければ大きいほど、それを乗り越えようとしていく強さがあるのだ。どんなに不格好でも、その壁を乗り越えて行く。
左腕に十分な一撃、右足に打撃としては十分な一撃。
次の機会を狙うには、やはり伊織はその身を打撃の嵐に晒すことになった。容赦なく降り注ぐ打撃の雨、時折来る関節技という突風。まさに技の大嵐、息をつく暇なんて無い。だが、嵐には無風状態となる目がある。その中心を狙う。伊織は八重に教わった「観察」をもっと深める。
「さっきのまぐれじゃなくて…きっとあるはず。反撃の…決着の一瞬が…!」
その時こそ勝機。
間違いなくこちらの最大風速をは向こうを上回るはず。今はこの美騎爾の防御力に託して受けの一手しかない。絶対に間接を取られたり、寝技に持ち込ませない。特にナオミの組み打ちは、どこをどう掴まれたかわからない程に熟達している。先ほども、両腕を取られて刀を封じられた、器用に片足まで動きを止められた。そこで体勢を崩されれば、寝技で絞め落とされるのは容易に予想できた。
「扶桑之國の組み打ちは、甲冑同士の格闘を前提としたっていうのは本当だね」
ナオミが得意とする組み打ちを回避する伊織の体捌きから、その好例を突きつけられたようでつい嬉しくなる。帰国した折には、ここで学んだことを父や二人の兄に見せてやろうと思った。ならばと伊織の足を取って体勢を崩しても、すぐに立ち上がって正眼に伊織は構える。ここで負けてはならない。それだけの意地で立ち上がっていた。
「随分と、粘るね…」
「ええ、オハラさんも…」
二人は息を荒くしながら言葉を交わすと、一体どうやって決着するかという気持ちは同じだったが、ナオミはこれだけ素晴らしい伊織との一戦をもっと続けたいと思っている。互いの呼吸が整い、静寂が訪れようとした刹那だった。
晴天でありながら雷鳴がとどろいた。これには立会人も驚き、ナオミも一瞬だけ動きを止めた。
「今だ!」
まさに電光石火、音よりも早く伊織が下段から仕掛けた。狙うべきは箇所は全て観察した。この一瞬を逃すまいと、彼女の所作は最小にして最速の太刀筋を見出す。すべての所作が、行書や草書のようにつながっていく。
故に、この太刀筋は龍が昇天するかのように荒々しく、閃光の如き速さだった。もうこの刀勢を止める方法はなかった。伊織はナオミの間合いに完全に入っており、互いに逃げる余地はなかった。ナオミの四肢に取り付けられたBIKINIの接触面を悉く破壊していく。
そして、振り上げられた刀は身を翻し、落雷の如き速度で閃光を放ち最後の獲物を狙う。
「これで終わり!」
「しまった!」
据え物を斬る如き鮮やかな切断の音の後、ナオミが咄嗟に突き上げた散弾銃は銃身と銃床を両断されていた。そして伊織の刀は再度、正眼に戻り切っ先がナオミを捕える。得物は両断され玉砂利の上にあり、自分の装備が既に機能を失っていることにも気づいた。
この瞬間、ナオミの頭を過ぎったのは敗北ではなく、この友人の闘志に対する心からの尊敬だった。
「全身全霊、なんという精神力!」
これは嘲笑ではない。ナオミは伊織の成長に感動している。仕合を始めた時と、まるで別人のような顔立ちになっている。何度打たれても立ち上がり、絶対にあきらめない、困難の中に希望を必ず見出だす。学科や訓練だって、あの進級試験だってそうだった。
でも、それはいつも自分が見てきた伊織だ。今ここで見せたその熱意は、私に対して向けられていない。このナオミ・オハラを、オハラ一族の人間を相手にして、その向こう側を見ている。
「伊織さんが見ているのは、自分ではない…?」
ふと、そんなことが頭を過ぎる。その気持ちがどんどん膨らんでいく。彼女を動かしているのは自分への戦意ではない、別の誰かへの熱意。その御仁は、間違いなく伊織にとって一番大事な人なのだろう。心がどれほど離れていようと、ずっとつながっている。それは師匠とか、そういう呼び方をする存在ではない。
「ははは、まいったね。これは」
内心、いつもの調子で考えるナオミだったが、どうしても女性特有の嫉妬が現れ始めた。ルームメイトとして時間を共にして、まさか命のやり取りまでして自分が眼中にないなどとは、愛されていないにも等しい。
「それって誰? もっとこっちを向いて欲しいんだけど」
こんなに素敵な伊織を独占している奴がいると考えると、なんだか許せない。そいつは、自分より強いのか。そんな筈はない。それだったら、自分がそいつより強いと分かれば、伊織は自分に振り向いてくれるだろうか。自分を見てくれるだろうか。ナオミは覚悟を決めた。
「ちょっと、妬けて来たかな」
起動しない装備などただの重荷でしかない。ナオミはてきぱきと四肢の保護具を外しBIKINIの基本装備だけになると、両断された散弾銃から銃剣を取り外して構えた。本気になるなら、これくらいの事をしないと相手に失礼だ。
「これでよし…」
「えっ…? オハラさん?」
伊織は戸惑った。彼女の保護具と得物は破壊した。たかだか銃剣程度では、刀と甲冑を装備した相手には絶対に勝利できない。それは、もうわかっている筈なのに。
「まさか…まだやるの?」
きっとこの気持ちは表情にも顕れているだろうと、伊織は思う。もし、これ以上継続するというならば相応の覚悟をしなければならない。自分の手が震えている。それは攻撃の痛みからではない、紛れも無い恐怖からだ。これから自分が行うべき攻撃は一つしかなかった。防具も無しに唯一残った銃剣と五体でもって勝負を続けるというなら「それ」以外に、この戦いを終える方法が見当たらない。
決着をつけるなら一撃で、それが一番苦痛を伴わないはずだ。
それは立会人にも伝わっていた。
希子は流石ユージン・オハラの孫だと、これしきのことで敗北は認めないかと尊敬した。そして、この戦いの結末が余りに残酷になることを悔やみはじめていた。一方でアリサは、今すぐにでも止めさせたい気持ちだった。ナオミが斬られるなら、こんな勝負投げだして構わない。今すぐにでも、隣席の希子に停戦を申入れるべきだ。ナオミの敗北であると宣言するべきだ。
「こっからが本番、いくよ伊織さん」
立会人の思惑を余所に、ナオミは戦闘継続を宣言した。それに伊織が頷くと、二人の中から互いの日常が消えるのが判った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます