第4話「時が来りて」
「時が来りて」(その1)
朝からアーニャは眠たい目を擦りながら、ぐつぐつと沸いている鍋を見る。どうも近頃、ナオミからの朝食の注文がうるさい。といってもそれは、手間の掛かるものばかり、というわけではない。寧ろ逆で、手間が掛からなすぎる。
ゆで卵は毎日。そしてメインに鶏肉の油の少ないところと、白身の魚に貝と海老。それを日替わりで皿に山盛りになったやつを、もしゃもしゃと平らげる。味付けといったら、せいぜい塩と胡椒。
余りに料理と呼ぶには単純すぎる。まったく料理上手の自分として、これでは腕の振るいようが全くないというものだ。
陸軍学校も春休みなのだから、思いでの故郷の料理とともに休暇をということにはならないようだ。彼女の、だいたいの好みなら知っているけど「今はいいよ」の一点張りだ。このメニューは決まって体を造るとき。ゆえにアーニャはそんなことを考えていた。早くに起きてトレーニングを終えたとおぼしきナオミは、食事を待ちながらソファでごろりとリラックスしている。
「何かの大会前?でも、そんなの一言も言ってなかったと思うけど」
普段は、寄宿舎生活なのでたまに顔を合わせるくらいだが、今はアリサ・スカーレットの自邸に一時帰省ということで生活を共にしている。それゆえ大体のことは、話に聞いているはずなのだが。
「しかし、この体がこんなので出来てるなんてね」
シャワーでトレーニングの汗を流したばかりの、その引き締まった肉体の美しさに目を奪われる。女子の柔らかな脂肪をうっすら残し、その筋肉の隆起を際立たせている。そして近頃、もともと短い髪をさらに短くし、中性的な顔立ちを際立たせている。まるで大理石で出来た美少年の彫刻。そのままじっとしていれば、本当に美術品のようにさえ見える。それでいて、ちょっと手を触れてみたくなるような、そういう雰囲気がある。
これが、大合衆国陸軍士官候補生の制服に身を包んで颯爽と歩くのだ。同級生も他校の女学生も、見ているだけで
「あんまり見てると、お代を貰うよ」
「その代金、毎朝のリクエスト料で帳消しにしておくわね」
「これは参ったね。何年間、ゆで卵食べつづけることになるんだろう」
こういう具合で漫才が展開されていく。いつだって仲が良い二人だが、朝から仲が良いのだ。ナオミは山盛りになったリクエストの品をもしゃもしゃと食べる。一方でアーニャは濃く淹れたコーヒーにトースト、目玉焼きというシンプルなものだった。
「それ、よく飽きないね」
「朝は余計な事考えない方だから。ところで最近、忙しいみたいだけど何してるの?」
「気になる?」
「いつものトレーニングには見えないけど」
一応、こんなアーニャも心配になる。例えば、スポーツの大会とは入り込み方が違う。スコアを競うための、娯楽的な大会に臨むような雰囲気ではない。なにか今まで、見たことのない表情を垣間見る。
「任務扱いだから、詳しくは言えないけどね。実技試験ってところかな」
「実技試験?」
「そう、大使館の守衛から今寄港してる艦の水兵まで。ちょっと腕試ししてるのさ。今日はちょっと、人数が多すぎたかな」
この数日、四~五人に分けて各の実技試験とやらをやっていたらしい。
いやはや、競技好きの大合衆国の国民性は
ナオミの実家であるオハラ家と言えば、祖父のユージン・オハラの代に大合衆国陸軍の軍隊格闘術を確立した家柄で知られている。この流儀は特に徒手空拳に重きを置いており、拳闘はもちろん組打ちでも無類の強さを誇る。
この独特の格闘術は、大合衆国へ移民した西方諸国の人々が伝えた格闘術を統合洗練していくことで編み出されて行った。
己の肉体を最後の武器として、あらゆる環境において最大の威力を発揮することを念頭に、実用性だけではなく習得の容易さ、また指導の具体的事例などを統合していった。
祖父はこの武術の統合を推し進めるにあたり、扶桑之國の武術を目標にしたという。
扶桑之國特有の「武」という概念、例えばホルスター納まった拳銃のように。我々が体の一部にできるようにできれば、大合衆国の将兵にも扶桑之國の将兵のような精神が芽生えるのではないかと考えた。
将兵の格闘技術だけではなく、鍛練を通して自己の内面も鍛えていくメソッドを編み出そうと思い立った。扶桑之國が、三百年にわたり大平の世を保っていたのは、軍事階級の人間たちがこの「武」を重んじたことに他ならない。
ならば、これは単なる効率化ではなく新たな武術の「創造」だと、祖父ユージンによる大合衆国に混在している武術統合が始まったのだた。
ナオミはそんな背景を持つ家に産まれた。
祖父を筆頭に父であるユージン・オハラ・ジュニア。そして、祖父の再来とまで言われたハンクとエルヴィンの兄弟、この二人大合衆国の精鋭である海兵隊に所属し、指導教育にあたるだけではなく、優秀な白兵戦術の名人として数多の大会で栄冠を勝ち取っている。ここ数年、大会上位入賞者も世代交代があったが、それはこの祖父と父が退役したというだけのことだった。
さて、彼女がこの道に目覚めることも才能を発揮するのも自然なことであった。
婦女子の社会進出の急先鋒たる大合衆国では、女子の格闘技もスポーツとして立派に隆盛しており、ナオミはまずその世界でめきめきと頭角を現した。この成績優秀さも手伝って、大合衆国の陸軍学校にも合格。その後も、学科を含めて優秀な成績ということでこの扶桑之國留学を勝ち取った。
腕に覚えありの連中ならば、やはりこの一族の誰かに挑戦してみたいものであった。そして、件の扶桑之國代表との試合に向けた人選を行う試験管には適役と判断された。
「今朝だけでどれだけ相手したのよ」
「残りの候補二十人。面倒だから一辺に相手したよ。これ以上、春休みだってのに早起きはしたくないからね」
アーニャは飲んでいたコーヒーをぶっと噴いた。その人数は、まとめてと言ってもまとめすぎではないか。それも、多少疲れたで済む人数ではない。
「やっぱりオハラの一族は恐ろしいわね…」
「やめてよその言い方。これでも兄さんたち、父さんには全く及ばないよ」
いつだったか、その兄二人の写真をアーニャは見たことがある。それで言えることが一つある。ナオミの肉体美が大理石なら、あの二人は間違いなく鋼鉄だ。
白黒の写真であるのに、その筋肉の隆起と
その兄二人よりも、父親や祖父が強いとは最早想像ができない。一体どんな姿をしているのだろう。腕や脚などは丸太のように太くて、背中には山脈のような筋肉の隆起があるのだろうか。第一、人間の形をしているのだろうかさえあやしくなってくる。
「でも、一人銃剣の上手い水兵が居てさ」
「もしかして、負けたの?」
少し、ナオミの声のトーンが落ちた。やはり、どんな達人や名人でも後れを取ることはあるのだろうか。
「いや、ちょっと飽きたから勝ちを譲ったよ」
「嘘でしょ…」
今度はコーヒーマグをひっくり返しそうになった。飽きたとはまた随分な言い方だ。二十人を手玉に取っておいて飽きた。それはないだろう。
「というより、ナオミが出れば済む話じゃないの?」
「ミス・スカーレットが、危険だと反対したみたいでね。これが本国に知れたら父さんも兄さんも心配になって泳いででも駆けつけるよ」
「間違いなく大使館に突撃してくるわね…」
このオハラ家の紅一点であるナオミは、父や兄から溺愛されていた。殊に祖父からの寵愛はものすごく、孫娘への扱いはまるで違っていた。かつて、猛獣を鍛えるように取り扱った息子や孫に比べれば、それこそ姫君に使える老従者の如きであった。
それもそのはずで、オハラ家の男子は早くに伴侶を失うジンクスのようなものがある。故に、祖父や父は亡き妻の姿を、兄二人は母の影を投影していた。何よりナオミの性格やしぐさが、とてもよく似ているのだった。これは、いかに屈強な男であっても堪えるものである。これを武道や格闘術の鍛練で克服できたものはこの世界にはいないだろう。
留学が決まった時などは、ナオミの無事の帰国を祈って三人そろって滝のような涙を流して見送ったものだ。
「でも、こういう試合って、軍人の名誉ってやつじゃないの?」
「そうだなあ。勲章ならこれから貰う機会もあるからね」
それもそうかと、アーニャは思った。実際そうだろう。きっとボードゲームができるくらいの金メダルとか勲章を、ナオミならもらえるだろう。そして、このさっぱりした性格が何ともナオミらしくて良いと思った。
「それにさ。試合でうっかり名誉のナントカなんてことになったら、アーニャに会えなくなるからね」
これをナオミはまったくの芝居がかる様子もなく、ごくごく自然に微笑んで言うのだった。これだ。このナオミの
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