「扶桑八領」(その3)

 回答は明日の正午、あまりに短くてそれでいて限りなく長い時間に思われた。八重と伊織は互いに宿舎の自室で考えを巡らせている。


 「これは、一対一のではなく一対一の」 


 思考は止めどもなく巡るが、こんな言葉だけが頭の真ん中あたりに居座る。東の大陸、北方の帝国と二つの戦争があった。二人とも当然ながらその頃は、この陸軍ないしは軍隊という組織がおぼろげでしかなく、銃後の暮らしを生きたというだけであった。やがて扶桑之國陸軍学校を志す時分、鬼園部と言われる八重は自分の剣で一族の名誉復興を背負うようになり、伊織は稚拙ながらも自らの憧れでもってその門をくぐった。


 未だどこか遠くであったはずの戦争という存在が、陸軍学校の卒業を待たずして現実に変わった。

 

 自分達は、扶桑之國の陸軍学校に通う士官候補生だ。将来この国家の防人として活躍することを、自分の意思で決めたはずだ。この道を行くのだと。しかし、その役目が唐突に訪れた。砲声も進軍ラッパも、まだ野外演習でしか聞いたことがないというのに。


 自分たちが道とした目的地が、突如目の前に現れたような感覚。これは自分たちが歩む道の終わりとなるのか、始まりとなるのか。とても明日の正午までに答は出そうにない。そんな風にぐるぐると考えを巡らすうちに、先に消灯の時間がやって来た。春休みということで宿舎に居る生徒も疎らで、いつも以上に夜の静けさが深く感じられる。どうにも考えがまとまらないせいか、落ち着かない。


 この静けさすら、何だかうるさいように八重は思っていた。


 近衛士官候補生用の一人部屋も、今は独房のような息苦しさがある。気を紛らわすために、剣術の古文書の写しなどに目を通しても、いつものように発見という先人の声が聞こえやしない。


 自分が求めている答えを、祖父から贈られた大小の護り刀も何時ものように返すことはない。今、自分に必要なのはどちらでもない。


 落ち着かないのも伊織とて同じだった。ルームメイトの留学生、ナオミ・オハラは居候先に一時帰省中。一人では持て余す広さのこの部屋が、余計に広く感じる。彼女がいたとて、相談はできないのだが察しの良い彼女は自然に振る舞ってくれる。その振る舞いのおかげで、これまで困りごとがあっても自然と気持ちが落ち着いた。ナオミのそういうところが伊織は好きだった。彼女がここにいてほしいと思う。でも今本当に、それもまた、なんだか気持ちがむずむずして仕方がない。


 互いにそんなことを考えたのが同時だったのか分からないが、静か過ぎる廊下で二人は鉢合わせした。


 付き合いの長さと、今日の出来事からお互いに何に困っているかは分かった。こんな暗がりでも、表情がはっきり見えるようだ。困っていることを話す前に、これをどこで話すかが最初の二人の問題だ。この静けさでは、小声でも響くだろうと思い八重は手信号で「道場」を示した。伊織はなるほどこの話題を話すには良いだろうと思い「了解」と同じく手信号で返した。


 道場はさらに静かだったが、余計な気配が一つもなかった。あるのは八重と伊織の影と、内側にしまってある例の事について。まったく静かだった。


 「この噂、本当だったんだ。八重さんは何時でも道場に出入りできるって」


 静かな道場の中に、伊織の冗談が響いた。文字通り、それは虚しく響くように思われた。だが、この幼なじみに気を揉ませたくない気持ちから何か一言言わずに居られなかった。


 「最近はと尾鰭がついているらしいけど、伊織知ってる?」


 八重はフフと笑って、その冗談に返す。


 「八重さんは、やっぱり受けるよね」


 聞くのも愚かと伊織は思ったが、どうしても八重の本音を聞きたかった。


 やはりというなら、自分も一緒に逃げてやろうと思った。でも、それがないということも、長い付き合いから知っている。きっと、剣士の名誉がなんて言うんだろうなと伊織は思っていた。


 「もちろん。として」


 八重は自分の答えを笑う。ここにきて剣士の名誉とは虚勢もいいところだ。鬼園部と言われる自分だ。仕合ならどんな形式でもやって見せる。だが、これは命のやり取りで留まらない。自分の背後にあるのはこの扶桑之國ふそうのくにの威信だ。


 これが戦争。そういうものが戦争なのだ。


 それ以上に、もっと大きなものを失うことを八重は恐れている。自分と引き分けているという勝手な理由で選抜された伊織を、この幼なじみをどうやって護ればいい。既に対戦相手が知れているなら先に始末する。それができないなら仕合当日、差し違えても両名まとめて片付ける。これが、明日の正午に八重が出す答えだった。


 絶対に伊織だけは傷付けさせない。そして、人を斬るなんてことはさせない。自分だけでたくさんだ。


 「伊織はどうするの…?」

 「私も、受けようと思う」


 このあっけなさすぎる答えを聞いた八重は唖然とした。何故、私は降りると言わない、言ってくれないのだ。八重が待っていた一言がなかったことに、伊織への気遣いが怒りに変わった。

 

 「これは戦争よ?憧れの希子様に言われて嬉しいかもしれないけど… あの人は時山元帥の娘、心苦しいとか言っていても、将兵が死傷して感傷に浸るなんてことはないの!それだけの覚悟で生きるのが軍人… 貴女にそれがあるの…伊織!?」


 八重の怒声が道場に響き渡った。あまりの大声に伊織はあたふたしたが、彼女の答えは少しもぶれていなかった。


 「わかってる。だから本気…だって…」

 「何よ…」

 「でも、私がこれを投げ出したら。誰かがこの代わりになるんでしょ?だから、私でいいの…いや、私じゃなきゃダメ」


 八重は驚いた。伊織は知っていたのだ。いや、自分より理解していた。この仕合が戦争であること、自分が将来の軍人であること。そう、今ここで投げ出せば誰かがこの荷を背負わされる。|彼女は理解している。


 「それに八重さんとなら、きっとやれると思う。私は八重さんが一番強いって、昔から知ってるもの。今度だって、きっと勝てるって思う。だから」


 伊織がそう言い終えるが早いか、八重は彼女の小さな体を力いっぱいに抱きしめていた。この体には、既に軍人としての覚悟があった。八重はこの仕合を、道の終わりと考えた。だが伊織は違っていた。ここから軍人として、既に自分よりならば、自分もついていかなければならない。一番強い自分にできることは、これから先に現れる困難をこの幼なじみと打ち倒すことだ。そして、前に進むのだ。


 「伊織、必ず勝とう。必ず」

 

 八重の声がすこし涙声であったが、伊織にはよくわかった。ずっと心配してくれていたのだ。昔から、八重はこういう娘だと知っている。こんなに優しいのに、鬼みたいに強い彼女とずっと一緒に居たいと、引き分けるほどの鍛練を重ねてきた。八重と向き合うのは、この扶桑之國で自分だけでありたいと、ずっと思っていた。


 「ありがとう。八重さん」


 伊織も静かに八重の細い体を抱く。互いの体温が伝わって来る心音が耳元で聞こえるように感じる。ここに心を取り出せといえば、できるのではないかというほどに二人の距離は近かった。そしてこの静かな道場には、乙女二人の影と覚悟があるばかりだった。


 二人の戦いは、今ここから始まる。 

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