第3話「扶桑八領」

「扶桑八領」(その1)

 「回答は4月中、桜は咲くか散るか」 

 「交渉継続か否か!軍部は決断せよ、今こそ扶桑之國ふそうのくにの防人が起つときである」

 「嗚呼、時山元帥が草葉の陰で泣いておられる」

 

 どの新聞も、大合衆国との交渉に関する勝手な意見ばかりであった。政府と外務省が交渉中、軍部は静観という状態が続くうち、新聞各社の煽りも酷くなってきた。大戦の勝利により獲得した権益の返還については、無論だが国民からの関心は非常に高い。その水面下で、泰西王国からの要求への対応も進んでいるが、表沙汰にすることはできない。各国の代表者同士の決闘、それが公になれば選抜者にかかる重圧はスポーツの国際大会などの比ではない。個人が戦争を背負うことになるのだ。


 さて、そんな勝手な見出しで飾られた新聞紙で包まれた甘味処「穂のか」の銘菓「蒸かし」を小脇に抱えて、全力疾走する陸軍学校の生徒があった。


 あと一週間で、二年生となる月岡伊織つきおかいおりだ。


 その急ぎぶり、ただ事ではなかった。人力車を追い越して、荷馬車の馬が振り返るような速度で駆けている。理由は簡単だった。憧れの希子様こと、時山大佐が急遽来校していると知ったからだ。穂のかに併設された喫茶室には、午前と午後の休憩時には色々な業種の人間が集っては様々な話題が飛び交う。


 「どうやら、時山のお姫様が正午くらいから陸軍学校に出入りしているらしい」

 「まだ居ますかねえ。写真の一枚でも撮りたいところですよ。最近、例の交渉の話ばっかりで華が無いですから」


 こんな風に、事情通な記者とカメラマンが話しているのを伊織は聞いた。話を聞くや、頬張ろうとしていた蒸かしを包んでもらい一目散に駆け出したのだ。菓子を忘れないところが、この伊織の性格の一つだ。

 

 「呑気にお茶してる場合じゃない!」


 無事に進級が決まり、短い春休みを迎えた矢先にこれほどうれしいことはない。さいわい春休み中、一時的に実家に帰る生徒も多い。うまくすれば希子様と直接お話できるかもと、妄想を膨らませていた。唯一の懸念事項は、生徒の成績表などを参照されやしないかということだ。そう、という具合の成績を見られるのは、裸を見られるより恥ずかしい。


 「来賓室に人の気配はしないけど、どこにいらっしゃるのかな?」


 とりあえず伊織は、陸軍学校に到着するや否やあちこちを探して回った。校内を見学中だろうか、学長室で談話中だろうかと考えを巡らしていると希子につながる人物を廊下で見かけた。小柄でおかっぱ頭、切れ長の目の小柄な将校。間違いない、希子様のご学友だった清河爾子だ。違う、正しくは中佐だ。前に出した本の内容が問題で降格されたのだった。


 雑誌や新聞に時折一緒にいるショットが掲載されることがあるので、伊織はこの不思議な雰囲気のする将校をよく覚えていた。そして、この将校と希子様がご一緒されているときは、重大事項に対応されるときや相談ごとのあるときだと記事で読んだ。そんな清河中佐が来校しているなら、希子様もまだ居るにちがいないと思った。なにせ、急遽の来校というならよほどの大事があると見える。


 「そこの生徒、所属と氏名を。休みだというのに、一体何をうろうろしている。補習授業か」


 伊織が考えていたら爾子が先に話しかけた。


 「はい!扶桑之國陸軍学校、一年生の月岡伊織であります。目的は希子様… もとい時山大佐御来校と伺い、一言ご挨拶したいと思い、穂のかより全力疾走で参上致しました」


 伊織は敬礼して、余りに正直な返答をした。通常の将校相手なら説教ものである。しかし、爾子は将校ぶった振る舞いを「無意味」と嫌うので、こうした話し方を特に気にする様子はない。何より、伊織の仕種は元気いっぱいの小動物がせわしなく動くそれに似ており、妙に可愛らしかった。それゆえ、そんな気持ちには尚更ならなかった。


 「ははは。元気があってよろしい。今、穂のかからと言ったか?」

 「はい、つい今し方着いたばかりです」


 爾子は伊織の元気と正直さを笑ったが、その時間に驚いた。学校の制服と革靴で走ってこの記録なら、競技用の制服で走れば間違いなく東扶桑の陸上記録を塗り変えるだろう。なるほど、これが月岡伊織か。と、自分が行っていた情報収集の裏が早速取れたので、次の段階が少し省けたと思った。


 「その、お目当ての時山大佐なら今は道場で視察をしておられる。もうじき戻るよ」


 伊織の雰囲気が、一瞬ぶわっと更に明るくなった。一体、どれほど自分の旧友に憧れているのかと爾子は思った。


 「ちょうどいい。この後、月岡君にも声を掛けるつもりでいた。一緒に来てほしい」


 伊織は驚いた。自分に声を掛けるつもりだった。一体誰が、清河中佐が?まさか、希子様が?頭の中はそれでいっぱいになった。ついて行った来賓室で、希子が戻るのを待っていたがどうにも気持ちが落ち着かない。


 「まさか、成績表に落胆したとか進級の取り消しってことはないよね?」


 自問自答する伊織に、爾子がどうやら戻ってきたようだと声を掛ける。伊織は慌てて居ずまいを直して着席して待つ。待ちに待った瞬間が、ついにやってくる。入室した影に、伊織の胸は高鳴った。綺麗な黒髪、スラッとした長身、近衛の白い制服と帽子。ああ、ついに希子様がこんなに近くに!


 でも、様子がおかしい。白い制服に階級章が付いていない。ついているのは、陸軍学校一年生の徽章だ。

 

 「あら、伊織じゃない。どうしたの?補習?」


 伊織は声を聞いて脱力して椅子から転げそうになった。先に入室したのは、幼なじみの園部八重だった。興奮しすぎて見間違えた。そして、清河中佐と似たようなことを言わないでほしい。私の顔には「落第生」とでも書いてあるのだろうか。


 「八重さんこそ、どうして。そっちこそ補習?」

 「ちょっと、一緒にしないでよ。頼まれたから、道場で演武をしてきたのよ」


 八重はけっこう真面目な性分で、補習とは無縁の自分が一緒にされるとは少々心外であったようだ。


 「頼まれた?今度はどこの家元?それとも殿たち?」

 「ちょっと、破廉恥なこと言わないで!時山大佐の所望で演武を披露したのよ」


 八重の一言は、伊織にとってショックであった。自分より先に、しかも幼なじみが一対一で希子様に対面しているなんて。できたことはないが、恋人を取られるより悔しい気分になった。人前でも構うものかと伊織は言い返した。


 「どっちが破廉恥よ!希子様と一対一で居るほうが破廉恥!」

 「ちょっと、一体何を一人で興奮してるのよ!?」


 さて、このやり取りを傍観する洞察力の鋭い清河中佐こと爾子は「すごい、こいつらどっちも馬鹿だ」という感動と、笑いを堪えるのでいっぱいいっぱいだった。そして、とこれから話すべき内容について、少し確信が持ててきた。


 「希子様の美貌を独占するのは扶桑之國で重罪よ重罪!」


 伊織が八重にまくしたてていると、清風のような凛とした気配が部屋に漂ってきた。


 「私がどうかしたのか」


 二人は思わず固まった。ついに現れた。声の主は、憧れの希子様こと時山希子だ。元老であった父譲りの将たる風格。それ以上に感じるのは黒髪の美しさ、黒曜石のような黒い瞳。引き締まった長身。そして、年齢を経る事に増す色香だった。いや、もうそんなことは考えない。憧れの希子様を前にした伊織の思考は止まっていた。そして、話し掛けてくださったという気持ちで頭からつま先まで満たされていた。


 「まあ、園部君も月岡君もはそのへんにして掛けたまえ。時山大佐のほうから、今回の話について説明していただく」

 「はい。非礼をお許しください。大変失礼しました。時山大佐、清河中佐」


 八重はぱっと一礼して非礼を詫びたが、どうも伊織にその様子がなかったので不思議に思い肘で小突いた。しかし、それでも動作の気配がない。一体どうしたのだろうか。伊織は図太いところがあるが、素直故にこうしたときはすぐに自分の非は認める。希子も爾子もおかしいなと思い、爾子が近寄って伊織の肩を叩いて着席するよう促した。だが、その言葉が届かないようなので怪訝に思ったら、あることに気づいた。 


 「時山大佐、月岡君は気絶しております!」


 この純真な乙女は、長年憧れた存在と直接対面して、ついに思考どころか身体も機能を一時停止してしまっていたのだ。そして、その様子の可笑しさに、普段人前で歯を見せて笑うことのない希子も笑ってしまった。ここで、一番気まずい思いをしているのは八重だった。


 ここに来て、さっきまで図太さは一体どこに行ったというのだ!

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