「あなたがここにいてほしい」(その5)

 甘味処の「穂のか」といえば、その名前を知らないものは、この扶桑之國の帝都に一人もいないだろう。なにせ、旧政府発足以前からの老舗、新政府が創立されて以降も商いを続けている。


 「政府宰相いくたび変われど、穂のかの甘味とわに変わらず」


 このように市民は元より、新旧政府の重鎮、王室や親族の公卿にも愛好するものが多く、台風の影響で南扶桑のサトウキビが採れなくなった折は砂糖の流通に制限がかかった時などは「扶桑之國の行く末はこの店にかかっている」と真剣に議論されたこともあると噂がある。


 八重が特に好むのは「蒸しふかし」と言われる、蒸した生地で小豆を砂糖で煮たあんを挟んだものだ。余談だが、通はこの生地だけのものを注文して食べる。そんな「蒸しふかし」が、彼女の前に山とある。


 「うん。やっぱり扶桑第一の呼び名に違わない…」

 「おっ、出ました。海内無双かいだいむそう、鬼園部のお墨付き」

 「ちょっと、ここでその呼び方は…」


 「鬼園部」という呼び名に周囲からの視線が一挙に集まって、どよめきが起きる。園部家の剣士とあれば、無理もなかった。八重とて陸軍学校のみならず、扶桑之國でも間違いなく上位三人に数えられる剣士であることは知られている。


 他に警視庁の藤田、王室警護官の渡邉があげられるが、いずれも二十歳を超えている。この春、ようやく十七歳という八重の年齢を考えると、これからの成長によって「筆頭」となることは確実視されている。


 この「海内無双」という仰々しい称号は、彼女が十五歳の折に陸軍学校の入学試験で、その余りの剣の腕に試験官一同が放った一言であった。戦地の経験もある試験官に三本勝負で、相手の竹刀に触れるまでもなく一本も取らせなかった。いずれが試験官であるか見紛う程の力量差は、今も語り草になっている。

 

 「第一、そこまで強いと思ってないよ。もっと稽古がしたいかな」  

 「呆れた!出稽古に行って稽古をなんて、八重さんだけよ」


 八重は少なくとも、こう言われるまでに教えを授けてくれた自分の祖父や父、そして彼らと交流していた剣士たちには、到底及ばないと感じている。噂には尾ひれや背ひれがつくもので、彼女の伝説は数々ある。そして、幼い頃から彼女を知る伊織にとっては、それが可笑しくて可笑しくて仕方がない。


 この出稽古は有名で、彼女が教わるというよりは出先の相手が教わることのほうが多い。


 こんな逸話がある。王室警護官の道場に赴いた折、たまたま公卿の一人に道場に入るところを見られ、乙女一人で王室の『護り刀』たちに学ぼうと足を運ぶのは、まことに感心であると言葉を賜ったが、それを聞いていた警護官達は稽古の「現場」を見られずに助かったと安堵した。警護官達に竹刀などは、八重の面籠手に届くどころか宙に飛ばされてしまう有様で、木刀の型であっても打ち込みの威力で手が痺れて腫れ上がる始末だったのだ。彼女の体格に頼らない理合いと太刀筋の粘りが成せる技であった。


 「だって、三つの頃から木刀振ってたじゃない?」

 「木刀じゃない、竹刀だ」

 

 八重は否定したが、伊織は大して違いがあるようには思えなかった。


 なるほど、それなら「お稽古ごと」で竹刀や木刀を執る女学生などは「五、六人まとめて掛かってきなさい」と稽古をつけることもできる。時には十人くらいを相手にしているというのだが、これが一番楽で何と立ち合いの中で居眠りができるほどだという。確かに、これだけ剣に時間を費やして、さらには近衛師団の士官候補生に選ばれるほどの学業の成績、いつ寝ているのか疑問だったがこれは納得だ。非常に信じがたいことではあるが。


 「そういえば、道場破りはまだやってるの?」

 「それも違う、道場破り破りだ」


 これは、例えば高名な古流の道場などで道場破りがあると、さすがに負けるわけにはいかない。こうなると、後日再訪を願い「恐縮ですが家元、師範の都合が悪く代理ですが」と彼女が代わりに対応するものである。


 たまに、一日で何度かこれをやることがあるので、まさかの道場破りと再会することもある。結果としては、相手が負け星を増やして帰ることになる。まったく、これほど強いと相手がいなくなって、そのうち東の大陸や西方諸国にでも渡ってしまうのではないかと思ってしまう。親友としてはそれが外交問題にでもならないか不安であった。

 

 「あっ、そういえば八重さんが、海軍の道場に行ったところ見たこと無いかも」

 「そうだね。一度も、行ったことないかな」

 

 この一言に、何やら八重の反応が変わった。はて、伊織は不思議に思った。警視庁の道場に出入りしていないのは、長い付き合いから知っている。ゆえに言及はしなかった。しかし海軍は特に、躊躇うような理由がないように思っていたので、少し不思議だ。


 「海軍さんには、八重さんの眼鏡に叶う相手がいないの?」


 確かに、海軍は剣術よりも、柔術の方が盛んであるけども、帝の御前試合でもいい剣士が出場している。しかし、何やら先程から八重がもじもじしているのが気になった。八重はやはり先程と違った声の調子で理由を言った。

 

 「海軍は、ちょっと… その… と、殿方が多過ぎて」

 「ふふっ、嘘でしょ。うふふ」


 意外だ。幼なじみだが意外過ぎる反応だった。ああ、確かに海軍の剣士は皆、それでいて、男子だけという解放感もあり道場は何とも言えない熱気のようなものがある。なるほど、鬼園部も美男子には勝てなんだ。これにはもう、伊織は笑いを堪えられなかった。あの鬼園部と言われる剣士が、年相応の恥じらいに敗れていたのだ。

 

 「わ、笑わないで」


 頬を赤らめ、視線をずらして本音を漏らした八重の姿に、伊織は「一本取ったり」と小さな勝利宣言を心の中でするのであった。

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