「あなたがここにいてほしい」(その4)

 あの日のように晴天の雷鳴があった時、園部八重そのべやえは木刀を振るう手を止めた。


 その轟音は彼女一人がいる扶桑之國陸軍学校の道場に、一際大きく響いて聞こえた。この雷鳴はあの日を思い出させた。あの元老の最期の日を、扶桑之國の誰もがその日を忘れはしないだろう。きっと、国民の大半は英雄の最期として、悲劇の一場面として記憶するのだろう。


 しかし、八重の場合は少し違っていた。


 その最期を自然に、英雄のそれとして、そうした場面として理解するには躊躇いがあった。それは彼女個人の感情ではなく、彼女の一族とその出自に関わるところが大きい。園部家は、旧政府において警視庁に出仕し、剣術教授方を勤めた家柄だ。


 旧政府瓦解の後は公職追放によりその任を解かれた。


 こうした例は珍しくない。殊にこれを機に困窮し零落した名家もあるほどだ。加えて、旧政府側を支持した者や内戦に関わった者は、帝を擁する新政府が詔を利用し「賊徒」と扱われた。この人々が名誉回復したのは、ちょうど東の大陸と、北方の帝国の勝利による恩赦によってである。


 「あの元老の死はにとって、終わりか。始まりか」 

 

 八重のように考えるものもあれば、素直に「祝った」者すらあるという。それは身内から直接聞いただけに、確かだった。小さな傷口が痛むような不快さがあるのだった。少なくとも、周囲にそういう人物があったことの無念。そして、自分にもそうした感情が少しも無かったかという間に、妙な息苦しさがあるのだ。我々を「賊徒」としたのは、確かに時山希輔や彼以前に没した「かつての反動の闘士」たちだった。しかし、その恩赦を下したのも、栄達を重ねた彼ら「元老」たちによるものなのだ。


大戦という国難を、旧政府の関係者たちの汚名返上の場として利用した。実際に、関与した人物も知っている。そうとも考えられる。時間の経過がこの感情を解決するのか、あの元老が逝去することで解決するのか、まだ彼女にその回答は訪れていない。


 八重の心は大いにざわついていた。再び聞いた晴天の雷鳴が、そんな風に様々なことを思い出させていたからだ。彼女は深く息をつくと、再び目前の木刀に意識を戻し、再度正眼に構えて振り下ろすのだった。素振りの一つごとに、心の平静が戻って来る感覚があった。しばらくすると雷鳴の余韻が消えるように、心の波も穏やかになった。


 やがて、道場にあるものは彼女が木刀で空を切る音だけになった。その時、また彼女の心に波を立てる声があった。もっとも、


 「あっ、いたいた。八重さん、甘いものでも食べに行かない?」


 五つの頃からの幼なじみ月岡伊織つきおかいおりだ。そして、その提案は余りにも良いタイミングだった。彼女の一声が、小腹がすいているのに気付かせた。ようやく、この剣一筋の士官候補生が、休日の乙女に戻ったのである。


 しかし、幼少期からの付き合いだが伊織の豪胆さには笑ってしまう。あの雷の話題よりも先に「甘いもの」か。例えば、時代が旧政府成立以来の、群雄割拠の動乱の時代にあれば、一国一城の主になっていたかもしれない。だが、今はその豪胆な提案に賛成しようと八重は思うのだった。


 「いいね。行こうか。いつもの『穂のか』がいいな」


 「そうしようか。ところで八重さん、休みの日くらい道場から離れたら?」


 扶桑之國陸軍学校も、土日の休みは皆乙女に戻る。それなのに八重ときたら、道場で一人汗を流している。それをなんとなく、伊織は心配に思っていた。近頃、学舎や寄宿舎で八重を見かけても、何か考え事をしているように見えたからだ。


 「まさか、一番集中できるよ。それより久しぶりにどう、一本」


 そして、伊織の気持ちを察しているかのように八重は、彼女が誘って来たような調子でそんな冗談をいうのだった。


 「ちょっと勘弁してよ」


 伊織は手を合わせてゴメンナサイの仕種で、八重からの誘いは丁寧に断った。汗でよそ行きのすがたを台なしにしたくないし、何よりこの幼なじみの剣の腕は彼女が一番よく知っている。


 八重はちょっと着替えて来るからと自室に戻った。今度は伊織が一人、道場で待っている。そして伊織は「最後に八重さんと試合したのは、いつだったか」と考えていた。


 「また強くなってるんだろうなぁ」


 伊織は、この一人立つ道場の中に残った八重の気配のようなものから感じるのであった。彼女が居なくとも、どんな太刀筋であったかが辿れる。それほどに彼女と長い事、向きあって来たのだ。

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