45 高校一年生 初夏-9
水槽を見つめる立花君。その横顔には、あの頃と同じような、マルっとしたクマさんみたいな温かな面影が、今でも宿っているように見える。
私は、与えられてばかりのように思う。誰かに何かを与えることが、できているのだろうか。
恩返し。
いつしか皆の前で宣言したような恩返しを、はたして私はできているのだろうか。言葉にするのは大切なことだと思う。でも、それだけでは足りない。
スッと岩場の洞穴に隠れていたカサゴが、動きだす。よろよろと、おぼつかないその泳ぎに視線が奪われる。潮の流れによろけながら、それでも何かを求めてその場を離れたのだ。
今の私にできること。少しずつでもそれを、行動に移していこう。失敗を恐れてはいけない。誰かに手を引いてもらうことに、慣れっ子になってはいけない。
メグや、みよっちや、立花君のように、何かを与えられる人に、少しでも近づきたい。
そう、自分に言い聞かせた。
室外へ抜けると、太陽は大きく西へ傾いていた。この日最後のイルカショーが、もうすぐ始まるようだ。
ショーステージの観客席に並んで座り、ショーが始まるのを待った。
開始までは、まだ多少時間があるようなので、私達以外のお客さんはさほど座ってはいない。空席も目立っている。
喉が渇いたので、私はジュースを買いに行くことにして、立花君は席に座って待ってもらうことにした。
二人分のジュースを買い、私は立花君の元に戻る。観客席に一人座って、ステージをぼんやりと眺める立花君の後ろ姿が目に映る。
私は音を立てないように、そっと彼の
以前と比べると、ややガッチリとしたその後ろ姿に、イタズラをすることにした。
そっと手を伸ばして肩をトントンとたたいてみる。彼はそれに気づいた瞬間、ピクッと反応した。ゆっくりとした動作で、後ろを振り返ろうとしてくる。
私は人差し指を伸ばして、彼が振り向くのを阻止した。指先に、ほっぺの感触が伝わってくる。想像していたふっくら感とは、少し違っていた。
肩が小刻みに揺れている。どうやら、クスクスと笑いをこらえているようだ。
彼は一度正面に向き直り、一呼吸置くと、そのまま反対側から私の方を振り返ろうとしてくる。
私は反対の指先で、ほっぺをそっと突き刺した。
はたから見たら、何をやっているのか不可思議な光景だったと思う。私は彼の両頬を、両手人差し指で突っついている。
私もクスクスと肩を揺らしながら、必死に笑いをこらえていた。
使い古された、三年ぶりに開いた台本通りの演技が、見事に決まる。
彼の本棚にも、私と同じ台本が大切に保管されていたのだ。
決して甘いだけでははない、どちらかというと苦味の強いその台本を、彼は大切に仕舞ってくれていたのだ。
時とともに薄れゆく、記憶という名の本棚に、しっかりと保管してくれていたのだ。
そう思うと、嬉しさが込み上げてくる。
両頬から指先を離し、彼の肩に両手を置いたまま、じっとこの感情をかみしめる。
しばらく動かずにいる私を、彼は何も言わずにやさしく待ち続けてくれていた。
肩を借りるように両手をついたまま立ち上がると、
「ありがとう」
と言ってジュースを受け取った彼に対し、私は、
「私の方こそ、ありがとう」
そう答えて彼の隣の席に座ると、あのポスター用紙に対する感謝の気持ちを、包み隠さず伝えた。
そうしているうちに、自然と私の瞳から、涙がこぼれ落ちていた。
そんな私を見て、彼はそっと優しくつぶやいた。
「やっぱり君の下の名前は、本当に君を、正確に表しているね」
第四章 了
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