36 高一初夏-10

 パン屋さんに入ると、焼きたてのパンの香りが店中に広がっていて、思わず深呼吸をしてしまう。


 とても美味しそうな匂いが、体全体に染み込んでくるようだ。

 隣を見ると、美代子も全く同じように、両手を左右に広げて、この香りを全身で受け止めていた。


「いらっしゃいませ。お好きなものをどうぞ」


 若い女性店員さんは、僕と美代子が全く同じ姿勢でいる様子を見て、スマイル以上の微笑みを浮かべている。


「よろしければ、あちらのカフェエリアでお召し上がり頂くこともできますので」


 そう言って、いくつかのテーブルが置かれた一画を、紹介してくれた。

 僕と美代子は、互いに顔を見合わせながら、全く同じ体勢のまま、赤くなった。


「ゆ、祐樹は何にする? 私も、どれにしようかなー」


 照れ隠しのようにそう言いながら、美代子は色とりどりの焼きたてのパンを選び始める。

「私、このメロンパンにしよ。オススメってなってるし。あ、こっちのチョココロネも捨てがたいなぁ。どうしよう、両方いっちゃおうかな?」


 どうやら、本当に機嫌がいいみたいで、安心した。


「え? この揚げパン、美味しそう。あ、ピザもあるよ、祐樹、ピザ食べる?」

 機嫌がいいのはいいんだけどね。


「朝ごはん、食べてきたんじゃないの?」

「あ、そういえば、そうだ。私、そんなにお腹すいてないかも」


 いやはや、美代子らしいといえばそうだけど、少しだけ呆れつつ、僕は少し遅めの朝食として、サンドイッチとクロワッサンを選んでトレーにのせる。

 美代子は寂しそうな顔をしながら、泣く泣く揚げパンやピザ達に別れを告げ、メロンパンだけに的を絞ったようだ。


 お会計と同時にコーヒーを2つ頼んで、お店のカフェエリアで食べていくことにする。


「「いただきまーす」」


 焼きたてのクロワッサンを頬張ると、表面のパリッとした感触と同時にバターの香りがフワっと口の中に広がってくる。中はモチッとしていて、弾力も申し分ない。

 いつもは学校で購買のやきそばパンとかばかり食べているので、久しぶりにこんなに美味しいパンを食べた気がする。


 ふと、向かいの席に座った美代子を目にすると、両ひじをテーブルの上にのせて頬杖ほおづえをついて、僕のことを見ていた。とても穏やかで、慈愛じあいに満ちたその表情は、姉というよりは母親のような印象をうける。


「……なに?」


 僕は思わず、いぶかしげにそう尋ねる。


「べつに何でもないよ。美味しそうに食べるなーって思っただけ。さあ、私もメロンパンたーべよ」

 そう言ってメロンパンにかぶりつくと、満面の笑みを浮かべている。


 何だろう、昔はとてもわかりやすかった美代子が、今はまったくわからない。

 たしかに、わかりやすいのは小学生の頃の美代子だから、高校生になった今となっては、昔と変わらずわかりやすい訳もないけど。

 当たり前だけど、僕も美代子もそれなりに色々な経験をして、考え方も、行動も、少しずつ変わってきているということだろうか。


 二人ともパンを食べ終え、コーヒーを飲んでいると、店内が少しずつにぎやかになってきた。入店時間が早かったので、そのときは僕たち以外にお客さんはいなかったけれど、お昼時に近付いたこともあって、カフェエリアも空席が少なくなってきている。


 先程から美代子は、お店の窓越しに、幾度か外を確認している様子だ。

「あ、来た来た」

 と言って、美代子は椅子から腰を上げる。

「祐樹、ちょっと待ってて」


 僕の座っている席からは、外の様子が見えなかったので、何が来たのかわからなかったけど、美代子はお店の外に駆け出して行ってしまった。


 椅子に座ったまま後ろを振り返って、窓越しに外を眺めると、美代子が駅前で誰かと話をしている姿が見えた。


 僕の中に、少しだけ不安な気持ちが湧き上がってくる。


 今日は、美代子のご機嫌をとるために、僕が生贄いけにえとなって、美代子のさ晴らしに付き合ってあげさえすればいいと思っていたからだ。


 美代子以外の人と会うという考えは、全く想定していなかった。


 誰と話をしているのだろう。ちょうど美代子の影になって、その人物を確認することが出来ない。

 遠目に美代子の後ろ姿を見ていると、こちらを振り返って僕を手招きするような仕草をしてみせた。


 話が済んだら美代子がここに戻ってきて、「ゴメンね、お待たせ。ちょうど知り合いが見えたからさ、挨拶だけしてきた」という展開を期待していたのだが、そうではないらしい。


 僕はコーヒーカップをグイッとあおると、二人分のトレーをサッとひとまとめにして、返却口へ持って行く。


「ごちそうさまです」

 店員さんにそっと小さな声でそう伝えると、

「ありがとうございましたー!」

 と、若い女性店員さんの大きな声が帰ってきた。


 僕は、その声がする方へ思わず顔を向けると、そこには満面の笑みを浮かべた店員さんがたたずんでいる。


 その笑顔に向かって心の中で軽くうなずくと、少しの勇気をもらいつつ、パン屋さんを後にした。




第三章 了

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