32 高一初夏-6

 ほんのりブラウン掛かったその髪色は、変わらず綺麗な色をしていた。癖はもうほとんど無く、肩口まで伸ばしたそのストレートヘアを、片側だけ耳に掛けている。


 髪の長さも、ヘアスタイルも、中学時代とほとんど変わっていなかったけれど、より一層大人びた印象になっていた。


 何にも増して、とても綺麗になっていた。


「……えっと、お、折り畳みの傘ならあるけど……」


 彼女は、そう言いながら手提げの中から、折り畳み傘を取り出す。


 僕は、何が何だか訳がわからない。きつねにつままれるというのは、こういうことを言うのだろう。

 遠目からのシルエットでは、美代子と見分けがつかなかったとはいえ、手元ばかりを気にしていたのが運の尽きだ。


「いや、これは、その……」


 とにかく、言い訳を必死に考えてみたのだが、全く思い浮かばない。そうこうしているうちに、心臓がドキドキし始めた。


「……えっと、私とで良ければ、傘……、入っていく?」


「!?」


 今、何て言った? とても信じられない言葉が、彼女の口から飛び出した。僕の聞き間違いでなければ、確かに傘に入っていく? と聞かれた気がする。


 とにかく、今、僕の目の前に彼女がいる。それだけでも信じられないというのに、一緒に傘を差して帰るなんて、全く想像ができない。


「いや、そんな……、そんなわけには……」


 消え入りそうな声で、そう答えるのが精一杯だった。

「でも、たった今、お願いされちゃったし、私、お礼もできていなかったから」

 そう言って、笑顔を見せてくれる。


「お礼……?」


 お礼って何だろう。お礼をされるような記憶が、全く思い浮かばない。


「僕、お礼をされるようなこと、何かしたかな?」

「え……?」

 彼女は、口元に指先を軽く当てながら、微笑んでいる。

「雨が強くならないうちに、行きましょ」


 彼女は、傘を広げながら駅の外へ向かって歩き始める。僕はしばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていたが、彼女がこちらを振り返ったので、その後を追いかけるように、歩き出す。


 ふと、別の視線も感じたので、そちらを振り向くと、駅員さんが右手をジャンケンのチョキの形にして、その手をじっと見つめている。

 僕と目が合うと、サッとその手を背中にかくして、音の出ない口笛を吹き始めた。

 僕は、何だろうと思い、一瞬立ち止まったが、再び歩いて彼女の後を追うことにした。




「なんか、久しぶりね」

「そ、そう……だね」


 僕は、彼女の傘を持っていた。雨に濡れないように、傘をおもいっきり彼女側に傾けている。僕の家とは帰る方角が違ったので、先に彼女を送っていくことにした。


「何となく、雰囲気変わった気がするけど、気のせいかな?」

「そ、そうかな。多分、運動部に入って少し細くなったからかな? つい最近も、中学の時の友達に、痩せたって言われたばかりだから、そのせいだと思う」


 すぐ隣を歩く彼女から、とても甘い香りがする。僕と彼女の間には、10センチ程の空間が開いていた。これ以上距離を縮めるのは、色々と限界だった。


「うーん、言われてみると、そうかもね。何部に入ったの?」

「テニス部。といっても、めちゃくちゃ下手だけど」

「始めたばかりなら、仕方ないよ。上手になれるといいね」

「そ、そうだね、うん、頑張ってみる」


 正直、そんなに頑張る自信は無いのだが、彼女に言われてしまった以上、頑張ってみようかな。頑張れるかな……。


「それと、ありがとう。私、ずっとお礼が言えてなくて、今頃になっちゃったけど」

「お礼? さっきも思ったけど、僕、お礼を言われるような覚えが全く無いんだけど……」


「え、本当に? ……それは、お人好し過ぎるなあ」


 彼女からお礼を言われるような記憶が、本当に無い。どちらかというと、お礼を言う側のような気もする。僕が勝手に盛り上がっているだけだから、おそらくお礼を言っても、何についてのお礼と聞かれたら、答えに困ってしまうのだけど。


「傘、入れてもらっちゃってるし、お礼を言うのは、僕の方だと思うから。本当に助かった、ありがとう」

「じゃあ、おあいこだね」

「そうだね」


 そう言って、お互いに笑顔を向けあう。夢のような時間が過ぎている。これは本当に現実なのだろうか。


 先ほどまでパラパラと傘を叩いていた雨音は、次第に小さくなり、空もほんのりと明るみを取り戻しつつある。


 こんな、夢のような時間がいつまでも続いて欲しい気持ちと、もう充分過ぎる幸せに耐えられそうもない気持ちが、僕の中でせめぎ合っていた。


 小雨から霧雨に変わり、もう傘をさす必要もなさそうだ。これなら濡れずに帰れる。


 僕は彼女に、

「雨、上がったから、もう傘無しでも帰れるし、ここでいいよ」

 彼女に傘を返そうとすると、

「もう少しで家だから、せっかくだし。それに、肩、すごい濡れちゃってる」

 そう言って、僕の左肩を覗き込んできた。

 たしかに、おもいっきり傘を彼女側に傾けていたせいで、びしょびしょになっている。


 とりあえず、傘はもう必要なさそうなので畳むことにして、そのまま彼女の家まで一緒に帰ることにした。

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