「不可視のライオン、馬、眠る女(Dormeuse cheval lion invisibles)」その5

 その日の夕方は、誰もが空を眺めながら夕陽を見守っていた。


 帰り道に足を止めて、自宅の窓から、或いは学生寮の屋上から眺めてもそこにある太陽は一つだった。一日の終わりに日常の風景がやっと戻って来たというのに、人々はまだあの超常現象に心を奪われている。

 

 今日、海上学園都市「扶桑」の頭上に突如として現れた「もう一つの太陽」は登場と同じように突然姿を消したのだった。


 「一体、あれは何だったのだろうか」


 おまけに、あの現象を記録した映像データなどからも忽然と姿を消している。何一つの物証も理解も存在しないこの超常現象に人々は集団幻覚、一種のヒステリーとして一応納得することにした。


 無論これは、ルシール・オックスブラッドの電子情報操作による事後処理の一つであり、根本たる超常現象の消失については海藤こと「光の男マン・レイ」が放つ「光」が時山の覚醒につながり「閉じられた眼レズィユ・クロ」の自己防衛機能の暴走を停止させたのだが、誰もがその真実に到達することはない。


 この騒動の主犯ともいうべき幻影を無意識下で生み出した彼女も、まさか自分がかつて「奇跡」と認定されるような現象を再現させたとは想像もできないだろう。


 「皆して、どうしたのかな? 空ばかり眺めて…」


 海藤は時山とともに、企業専用の海上学園都市内連絡線路チューブで帰路についており、そんな景色を車窓から眺めていた。二人が並んで座っている他に、乗客はいなかった。こうしていると彼女の製作助手アシスタントとして歩き回ったのを思い出す。


 「何だろうね。宵の明星が輝く頃、誰かが去って行くとか?」

 「それ、明けの明星じゃなかった? よく知らないけど」

 

 海藤はそんな彼女の問いかけに答えたが、本当に元の言葉を忘れたのか、まだ気持が落ち着いていないのか、どうにも締まらない。


 斯波は彼女の能力凍結に関して命令を撤回し、監視レベルと処遇を海藤と同様とし保護対象とした。「閉じられた眼レズィユ・クロ」の能力暴走に対して、形はどうであれ「光の男マン・レイ」が制御可能であることを実証してみせた。


  「あの光を閃光手榴弾スタングレネードとして用いるとはな」


 過ぎたるは猶及ばざるが如し、どうやら「閉じられた眼レズィユ・クロ」は何でも見通し過ぎたかと斯波は思った。

 報告にある彼女のシンボルマークともいうべき「蝶車」を見ていると、炎の灯りに引き寄せられる蝶の群れを描いた速水御舟の作品が思い浮かんだ。


 どうやら彼は二人の関係性ではなく、光の男マン・レイの光が強固な幻影や精神攻撃に有効であり、脅威に該当しないという点から今回の対応について納得した様子だった。


 一方で、二人の関係性に並々ならぬ関心を寄せているナンシー・フェルジはこの決定に「うふふ」という様子だったと、後からルシール・オックスブラッドから聞いた。


 「言い遅れたけど、助けに来てくれてありがとう…」

 「ああ、それは…」

 「もしかしたら、海藤君だって危ないことになったのに」 

 「何て言うのかな、そういうのは自分の気持ち一つっていうのかな?」


 海藤は説明に困ったが時山の能力が自分の思考を見通しているのか、それ以上は仔細を聞こうとしなかった。実際、彼女もまた海藤が抱えている背景を見ようとしなかった。彼が危険に晒されるのは、絶対に見たくない光景だからだ。


 「そういえば、眠っている間に一つ思い出したことがあるの」

 「どんなこと?」

 「海藤君の光、前にも見たことがあるなって…」

 「それ、本物のマン・レイの作品ってことは、ないよね?」

 「違うよ。でも、見たのは美術館、父さんに連れられて行った時かな…」


 時山がこの「扶桑」に越してくる前に、父の里帰りで地元の美術館で見たという。 


 「まだ五つくらいだったんだけどね」 

 「そんなにはっきり覚えているなら、よっぽど素晴らしい作品なんだろうね」

 「うん、その絵を観てからだったなぁ、自分で絵を描こうって思ったの」 


 始まりの光、海藤にも思い当たる事だった。形はどうであれ、奇しくも二人は光にいざなわれ、自らの道を開いたということが判った。その光の導きともいうべきか、自然と引かれ合ったのかもしれない。


 「その絵のタイトル、覚えてる?」

 「うん、確か…真実と正義と美の化身、そういうタイトルだった」

 「真実と正義と美の化身…」


 マン・レイではない光の画家といえばモネかターナかとあれこれ考えていたが、どちらにもそんな名前の作品はない。しかし、彼女が見た光を自分でも観てみたいと強く思う。


 「夏休みにでも、一緒に観に行かない?」

 「うん。その絵、観てみたいな…」


 二人が寮の自室に戻ると、急にあることに気づいた。絵を観に行こうと約束した時、互いの掌が自然と重なっていたのだ。


 あの時はまったくの無意識だったが、今遅れてやって来た意識によって二人は真っ赤になってしまった。

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