「不可視のライオン、馬、眠る女(Dormeuse cheval lion invisibles)」その4
時山爾子は、G.F.Oと協力関係にある製薬会社付属の医療研究センターの一室にいることが判った。
特別区でも、もう一つの太陽でてんやわんやの大騒ぎであるため、そこまではG.F.Oの現地即応班が用いる
万一に備え、時山に接触するまでの警護にと選抜した完全装備の五名が随行しているが、傍目にはまるで海藤がどこかに連行されるようにも見えた。
「現地では他の
「ありがとうございます。万が一の時は…よろしくお願いします」
そして医療研究センターには最下層の入口からスパイのように入っていった。見知らぬ場所とはいうものの、この景色は余りに未知であった。
「道に迷ったってことは、ないと思うんだけどな…」
センター内には廊下ではなく、糸杉の植えられた田舎道が伸びていた。傍らの畑では土を耕す農夫、落穂ひろいをする三人組が見える。
無論、天井ではなく空には太陽と三日月が並んでおり、紛れもなく現実ではないことを物語っている。だが、胸に押し寄せる「なつかしさ」は一体何かと考える。
そんな奇妙な田園の景色に雲が差した時、海藤の携帯端末からルシール・オックスブラッドの声が聞こえた。これは紛れもない現実だった。
「体温、心拍数上昇… どうやら何か見えたわね?」
「はい、どうやら幻影を使ってこちらの接近を阻んでいます」
「想定の範囲内よ。進路は監視班のほうから指示、端末に位置情報と画像を随時転送するわ」
「判りました。そして万が一の時は…」
「ええ、もし
ナンシー・フェルジの能力で作成した例の魔法の一枚に、このセンターの図面が立体映像として刻み込まれている。アナログはこういう時に強い。
海藤は躊躇うことなく、本来はただの廊下であろう田舎道を進んでいった。
突如として景色が変わり、点を焦がすような赤色巨星が現れたとおもえば、行く手を阻む中性子星やグレートウォールのような光景、幻影の変化は止まらずアメリカ独立戦争で南軍と北軍が吶喊の声と共に激突する戦場、遅れてステージに現れたジミ・ヘンドリックスを眺めるウッドストックの観衆たち、さながら幻影が織り成す
「現実世界に
幸いにも監視班からの連絡は途切れず、リアルタイムで共有される案内は時山が拘束されている一室を指し示している。
「よし、これで終わり…」
最後の生体認証がキーが解除され、眠り姫こと時山と対面するはずがここで海藤の足が止まった。その様子を監視班のほうでも確認した。
「どうしたのかしら?」
ルシールは海藤の携帯端末に意識を侵入させると、カメラを通して現地を確認した。だが幻影は無論の事、脅威となるものは確認できなかった。それなのに足を止めた理由があるとすれば、彼にしか見えていない脅威があるということだ。今この状況で、考えられるものは一つだ。
「
海藤がこちらからの音声呼び出しにも応じないところから、後者については相当の精度であることが伺える。記憶から作り出した幻影とすれば、納得できる。
「現地に向かうわ」
焦るルシールをナンシーが制止した。
「止しなさい。貴女も揃って、あすこで立ち尽くすことになるわよ?」
「なら、どうすれば…!?」
「一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ、只だ一燈を頼め。彼が
随分と詩的な物言いだと思ったが、今はその言葉を信じてみることにした。
「ここって…」
扉をあければ、海藤にとって忘れるはずもない景色が広がっていた。窓から見える隣家の太陽に照らされる芝生、そこで遊ぶ犬の名前はテイラーといった筈だ。
ここは紛れもなく自分が幼少期を過ごした部屋だ。デジタルカレンダーは二〇六九年八月十五日の木曜日と表示されている。
「間違いない。僕の記憶から生成された幻影だ…」
その精度、部屋のにおいから近所から聞こえる物音までまったく同じだった。完全に同じだというなら、これから起きることを考えると海藤は俄かに不安と緊張に駆られた。
「じゃあちょっと行ってくるよ」
「例の接続不具合、遠隔からのコンフィグ修正でどうにかならないの?」
「どうにも、現地のほうが早そうなんだよ。それに、アレは僕の所掌だから」
「週末も近いのに熱心ね」
「どんなことだって、自分の気持ち一つで変えられるよ」
「またそればっかり」
聞き覚えのある母とのやり取りに、そして父の口癖になっている彼のポリシー、懐かしさの前に海藤には焦りがあった。
「止めなくちゃ…!」
そこで突如として聞こえる雷鳴、晴天に轟いた雷鳴に驚いたのもまったく同じ。この日、
「父さん、待って!」
これが父との最後の記憶、幻影の中だと判っていても父を引き留めようと部屋のドアに手を掛けたが、その先に進むことは出来ない。
残酷なまでに鮮やかに甦った記憶は徐々に拡大していく、時間と共に色彩を失って眠っていた筈の光景、凄惨な事故現場とともに行方不明者という言葉、泣き崩れる母、安否確認に訪れる仕事の関係者や親戚、事故が収束するまでのあの景色が一気に押し寄せてくる。
記憶から来る幻影、トラウマの投射は強烈だった。眼を閉じていても見える不可避の光景に、ただ身を強張らせて耐えるしかなかったが、不思議なことが起きた。
その景色の中に一条の光が射し、そこには人影のようなものが見えたのだ。
「この光…そうか! この日の記憶なら…!?」
二〇六九年八月十七日、あの日に見た光を忘れるはずもない。全てが悲しみという色彩にあった中で自分を救ってくれた光であり、自分が進むべき道を示した光だ。
「どんなことでも、自分の気持ち一つで変えていけると父さんは言った。だから僕は、この光と、そう約束したんだ…!」
今、海藤の目の前には、ベッドで横になっている時山爾子の姿がある。彼女もまた、はっきりとした眼差しで回答を見ている。
「時山さん…」
「海藤君? どうしてここに…?」
「何て言えば良いかな、ちょっと近くをってところかな」
「光が見えて、もしかしてと思ったら…」
「ああ、ありがとう。その光を覚えていてくれて…」
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