「閉じられた眼(Les yeux clos)」その4
大昔の映画監督が「大事なことはめんどくさい」と言ったように、作品制作はどんな時も心身共にすり減らしてしまう。絵画、映像、彫像、いずれの形式であっても完成に至るまでの道程は険しい峰を行くようなものであるが、今日ばかりは随分と違っている。
「だからこそ、頑張らなきゃいけないともいうけど…ちょっと今日は違うなぁ」
まるで疲れたところがない。それどころか、むしろ何かが充足した感覚がある。今しがた完成した統合文化祭向けの映像作品も、
「そういえば、男の子と一緒に制作したのは初めてかも…」
時山も年相応に男子と交流はあるが、
アレは海藤のように自分の作品に純粋に関心を持ったり「すごい」とか反応したりしない。人の作品で金儲けしようとか、見方がわからないとか、どうにもこうにも一言多いし、何より一緒に居てちょっとした仕草に思いやりというものがない。
要するに、てんでなってない雑な奴だ。
そんなアイツと真逆ともいうべき海藤の性格、一緒に過ごした時間を振り返ると、今までにない色彩が目に浮かんでくる。男子なのにコーヒー飲んでる姿が何故かかわいい。細身なのに、ひょいっと荷物を担いでくれるところが頼もしい。幾らでも、彼の仕草が浮かんでくる。
初めて会ったときに見た光、それに加えて、初めて見る色彩。
アナログやデジタルを問わず、静止画像にも動画にも残せない色彩が、彼と一緒にすごした場面にちりばめられている。例えば世界が一気にモノクロームになっても、失われないようなそんな色彩だった。そう、画家として既に高い能力を持っている時山でさえ、調色できない色彩、表現として完成させることのできない感情があった。
「見えているのに。見えない…不思議な色…」
時山が眠りにつこうとしたとき、ふとその色彩にノイズが走った。
「えっ…!?何…?」
影の主は、既に能力を介さずとも自分の眼ではっきりと判った。
映画でしかみたことがない、強化装甲の防護服とフェイスガードで身を固めたその姿、恐怖を感じるよりも先に意識が飛んでそれきりとなった。遠のく意識の中で時山は力なく海藤の名を呟いていた。
「今のは…時山さん…?」
自室のベッドで大の字になりながら考えを巡らせていた海藤は、彼女の声が聞こえるようでは随分と思い詰めていると思っていたが、どうやらそれは呼んだ主が違うだけで空耳ではなかった。
「彼女じゃなくてごめんなさい。それと、一日に二度も申し訳ないわね」
忽然と姿を現わしたルシール・オックスブラッド、いつも冷静な雰囲気を漂わす彼女が目に見えて焦っているのを海藤は初めて見た。
「彼女が…時山爾子が拉致されたわ」
海藤は衝撃的な一言に絶句した。血の気が引いていくのと、妙な不快感とも不安ともいえないものが、胸のあたりをギュッと締め付ける。
「他の
「今のところ、残りの接触者たちは本土に滞在中とさっき確認したわ」
「ということは、まさか…」
「そう、相手は
「まさか、そんなことが…」
「物事は何事も表裏、向き合ったまま交わりはしない」
この時、海藤でもルシールでもない第三者の声が二人の端末から交互に聞こえてきた。これには、流石の二人も表情を見合わせて固まる他は無かった。
「つまりこういうこと、
即座にルシールは通話者の発信元を逆探知するが、電話番号もIPアドレスも全く違う地域の赤の他人のものだった。一つは放棄された南極の旧観測基地、もう一つは米国が既に使用を停止した通信衛星だった。無論だが、この領域から通信可能な人類は存在しない。
「ルシール・オックスブラッド! 人が話す間に行儀の悪いことはお止めなさい! 貴女と同じ能力を持った
「こっちは忙しいの。貴女の取引と、その条件は何かしら?」
「取引だとか、条件なんて殺風景な言葉は要らないわ。丁重さと、思いやりと、趣味の良さを示すこと。そうでなければ…互いに滅びる道を選ぶでしょう」
完全に手玉に取られている。
一つだけわかっていることは、この口数の減らない
「先ずはお二人を通して、
目的が斯波であるとすれば、彼が最も信頼する二人を窓口にしたことは戦略として正しい。直接、この能力で面会したところであの男は微塵も驚くはずもない。
相手に圧倒的無力感を与えてからの交渉、自らを一切明かさずに人間を動かす。
こんな芸当を十八番とする連中、例えばドン・ペリニヨンを3℃まで冷やさずに飲むとか、ビートルズを耳栓無しで聞くことを禁忌にしているあの国の組織だろうと二人は考えていた。
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