「溶ける魚(Soluble Fish)」その2

 海藤は学長室に向かう途中何となく廊下を眺めた。


 健康的な白色で統一された景色に、火災報知機の赤色がアクセントとして映えるなと思った。そこに整然とならぶ水飲み場の銀色の蛇口が、さらに画面を引き締めている。配置と配色の妙と言うべきか、設計者に何らかの意志が感じられた。


 「こういうのは、小津調っていうんだっけ?」


 所々に赤を配色する物静かな映画が得意な監督がいたなと思い出しつつ、そのカメラアングルも再現するように腰を落としてみると妙なことが起きた。


 急に、感応式の蛇口が勢いよく放水を始めたのだ。この方式の水道は水流メンテナンスのため、短時間一斉放水することがあるが、どうもそれとは様子が違う。


 一つだけ突然動作した上に、感応のランプは赤のまま。誤認識というわけでもなさそうに見える。第一に、蛇口からの水流が排水溝に向かわずまるで玩具のスライムのように、その場に留まり続けているのはありえない。

 

 「どうやらこれは、学長への報告対象ってところかな…?」


 海藤が周囲に生徒がいないことを注視しながら、光の男マン・レイの能力を解放しようとした瞬間に、何かが左ほおのあたりを霞めていった。反射的に能力解放を止めたが、それが攻撃と判ったのは、遅れてどくどくと血潮が肌を伝うので気付いた。


 「水圧で物体の切断…そういうこともできるってわけか…」


 ここで海藤は相手が披露した能力にお返しと言わんばかりに、ナノ・マシンによる急速治療を見せてやると、どうやら能力に慄いたのか撤退を選択した。それも、現れた蛇口を一つぶっ壊して、大噴水の置き土産付きときたものだ。

 

 「うわっ、冷たっ!」


 この場合は水難というのが正しいのか判らないが、とんだ災難には違いないだろう。普通の間借人と同じく、水道関係でトラブルを起こすものかと海藤は思ったが、今は水道会社や学校の設備管理室に問い合わせている場合ではない。傷を治して血痕も消したが、全身ずぶ濡れだ。水道は、破損のアラームが管理室に届いているだろう。そっちは、そっちに任せておくことにした。


 このやり取りに紛れて、標的は排水溝を流れていったようだが、この仕打ちを水に流そうなんて寒いことは言うつもりはない。こちらも一時撤退、まさか学長室にまでおびき寄せる訳にはいかない。


 海藤が完全個室の更衣室で着替えていると、再び斯波から連絡が入った。おそらく、さっきの水道破損をトリガーに向こうの監視体制も標的の行動を捕捉したものと思える。


 「海藤君、斯波だ。監視チームが間借人LODGERの行動を確認した。兆候を確認したら速やかに…」

 「ええ、斯波学長。今さっき、その兆候と遭遇しました」


 普段の海藤とは様子が違うと思いつつ、斯波は間借人LODGERの接触者に関する情報を共有した。


 該当者は普通科二年の田中顕助たなかけんすけ、これまで学校生活で特段トラブルもなく生活しており、日本本土に暮らす両親や兄弟も健在で、こちらも同様に特筆すべき事項は無かった。要約すれば極めて普通の生徒ということでり、この「扶桑」にやってきてから海藤との接触も一切確認されていなかった。


 「どうやら、間借人LODGERが、君を認識しているようだ」

 「はい、そのような意図を接触して感じました」

 「対象と言語による意思疎通は可能か?」

 「会話はしていませんが、がありました」


 海藤の端末からさっきの様子を録画した動画が斯波に共有されると、これにはなるほどと思う。人間相手に、ためらいなく攻撃に踏み切っている。


 「確実に間借人LODGERに意識を乗っ取られているな… 今、現地即応班を送る」

 「同意見です。こっちでは、マーカーを展開したので追跡します。逃走先は… 屋内プールのようです」


 海藤はさっきの置き土産に挫けず、ナノ・マシンを探知機として展開しており追跡の真っ最中であった。彼の脳内には、校内の配管図が映し出されており標的の移動する様子がはっきりと確認できた。


 流石の応用力に斯波は感心する。木を隠すなら森の中、水を隠すなら当然の選択だ。この時期、周辺は生徒の立ち入りを禁止している上に定期保守以外のアクセスはない。この生徒も通学する時間帯に、人的被害を回避するならまさにうってつけの場所だ。


 「監視チームから現地即応班に共有させる。バックアップはこちらに任せろ。くれぐれも頼む…」

 「ありがとうございます。きっと、大丈夫です。」

 

 さて、三月だなんて室内の温水プールでも泳ぐには早すぎるような季節だが一つやってみる他はない。


 海藤はナノ・マシンを例の光学迷彩として展開し姿を消した。前にお偉方の前で説明した様に表面温度調節による熱感知遮断、さらには電波吸収による完全ステルス化だ。肉眼や映像は勿論、センサーでも容易に捕捉されることはない。


 「こんな調子だと…河上君のことは、言ってられないな」


 彼の姿は無論、活躍も誰にも知られることは無い。どうやら新しい学校生活は、遅刻と午後の授業をフケることから始まるという華々しいものになった。

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