【短編】危機一髪の人生

冬野ゆな

第1話 危機一髪の人生

 男の目の前に女神が現れたとき、これは転機だと思った。

 男は山の中で泉に転落し、溺れかけたところを女性に助けてもらえたのだ。

 その女性は自分を泉の女神だと名乗った。自らを落っことしてしまった男に対し、女神は例の謎掛けをした。「あなたが落としたのはなんですか?」だ。

 男はそれに対して「退屈な人生を持て余していた自分です」と答えた。

「わかりました。正直者のあなたには、退屈な人生を変える何かをあげましょう」

 なんてことだ、と男は思った。


 男は子供のころから退屈を持て余していた。

 退屈な時間、退屈な日常、退屈な人生……。

 小学生の頃から大人になるまでごく普通のありふれた人生を送ってきた男は、いつだって妄想の中に逃げ込んだ。町の中に怪獣が現れてめちゃくちゃにしたり、闇の力を隠し持った特別な存在だと思い込んだり、教室の中に突如現れたゲリラ集団にひとり頭の良さで立ち向かう妄想をした。しかし現実にはそんなものはなく、政治家が汚職だの芸能人の結婚だのいうニュースを見るばかり。

 そんななかでの突然の揺り返しのように思えた。

 これは、慎重に選ぶべきだ。


 転生してハーレムかな、いや隣の部屋に突然可愛い女の子が現れるとか……。いやいや、それだけじゃつまらない。これまでの退屈な人生を一変させるような冒険も必要だ。女の子のピンチに颯爽と現れて、悪漢どもをばたばたと倒していって惚れられるような、そんな冒険が。

「それじゃあ、何度も絶体絶命を救って感謝したり惚れられるような、そんな人生にすることも? もちろんそれを可能にするだけの力を得ることも?」

「可能です。それでよろしいですか?」

 これはいよいよ期待が持ててきた。

「はい!」

「では、目を閉じて……、なにか音が聞こえたらもう目を開けていいですよ」

 男は静かに何か音が聞こえてくるのを待った。


 次第にどこかからごうごうと音が聞こえてきた。

 ――えっ? な、なんだ?

 どこかに飛ばされたのだろうか。ぱっと目を開けると、目の前に開いた真っ黒な空間が、何もかも吹き飛ばそうとしているところだった。

 ――な、なんだこりゃあ!?

 ものすごい力だ。下手すると吹っ飛ばされそうになる。

 困惑していると、後ろから声が聞こえた。

「きみ! 誰だか知らないが、その扉を閉めるんだ!」

「えっ? えっ?」

 とにかくこの扉を閉めればいいのか。石のような扉だったが、一気に力をこめると閉められた。ここはどこなんだ。凄まじい衝撃がやむと、あたりは静寂に包まれた。後ろを振り向くと、騎士か勇者のような恰好をした男と、ローブをかぶった女が立ち上がるところだった。

「いや、助かったよ、勇気ある人。もう少しで封印がうまくいかないところだった」

「ありがとうございます。あなたはいったい……?」

 勇者の感謝と女のにこやかな笑顔に、思わず満面の笑みを浮かべてしまった。なんだかわからないが、ここは賢者然として対応しておくべきか。満足げに頷くと、何か言おうとして不意に二人の顔がぼやけたのに気付いた。

「あ、あれっ……?」

「待ってください、せめてお名前を……!」

 伸ばされた手を取ろうとして、目の前が真っ暗になっていった。


 ――いったい何が起きたんだ!

 そうしているうちに、また音が聞こえてきた。現実に戻ってきたかのように、車の音がする。これで終わってしまったのか。

「逃げろーっ!」

 いったいなんだろうと見ると、猪がものすごい勢いで走ってくるところだった。

「うわあああっ」

 思わず手を出すと、ちょうど猪の鼻に当たったらしい。べちゃっという鼻水なのか鼻血なのかわからないものが手についた。突然のことで心臓が高鳴っている。怯んだ猪はそのままひっくり返って、ばたばたと足を動かしていた。

「いまだっ!」

 猟友会や警察と書かれた服を着た人々が、一斉に猪を取り囲んでいく。どうやら猪が市街地に出たようだった。

「きみっ、危ないところだったな」

 猟友会の老人に肩を叩かれ、離れるように誘導される。

「怪我はなかったか?」

「あ……、だ、大丈夫です」

 拳からはぬるりとした嫌な感触がしている。早く拭き取りたい。

「ところできみは……あれ?」

 老人の声が遠ざかっていく。老人は男を見つけられないようでキョロキョロとしていた。

 ――え? ま、またなのか?

 声と一緒に意識が遠ざかっていく。目の前が真っ暗になり、音が聞こえなくなっていく。


 ――ま、待ってくれ。まさか……。


 それは、現実か非現実的かに限らなかった。

 あるときはクマと遭遇した遭難者の前に。

 あるときは世界を滅ぼそうとする魔術師の後ろに。

 あるときはいまにも墜落しそうな飛行機の中に。

 あるときは宇宙モンスターに襲われそうな宇宙飛行士の前に。

 男はそんな絶体絶命の場面に現れては、危機一髪を救っていくのを続けていた。だれもどうしたらいいか教えてくれないこともあったし、自分に武器を向けられたこともあった。息つく暇さえない。救ったら、すぐ次の場所に転送され続けていく。


 ――もしかして、ずっとこのままなのか?

 ――絶体絶命を救い続けるような?

 ――そ、それって……もし食い止められなかったら……。


 男はわずかばかりの自由な時間に、どうしたらいいのか考えた。またどこかで泉に落ちるしかない。でも、そんな暇は与えられなかった。

「だ、だれか……助けてくれ!」

 男はこうして、危機一髪ばかりの人生を送ることになったのだった。

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