第三話 はじめの一本

 草壁を観察する日々が、始まった。

 

 ある日、放課後の教室。

「先生、掃除が終わりました」

「おお、今日は草壁の席の列が掃除当番か……どれどれ?」

 担任教師が掃除された教室の確認をする。

「こ、これは!」

 入室した途端、驚いた声をあげる。

「教室の空気がうまい! まるで奥多摩のような透き通った味だ! 肺が喜んでいる! それどころか、一切のウイルスが消え去っている! マスクいらずだ!」

 草壁は掃除がうますぎて、空気を清浄化してしまったようだ。

「ありがとうございます」

「ミシュランに応募しておくよ」

 すげえ。完璧だ。



 ある日、下校中の通学路。

「ねえ君、市役所ってどこにあるかわかる?」

 スーツを来た男が草壁に話しかけていた。草壁はにこやかに応対する。

「200メートルこのまま直進、50メートル斜め左方向、20m先右側にあります」

 草壁はグーグルマップ内蔵人間だったようだ。

 すげえ。完璧だ。



 ある日、放課後の教室。

「先生、掃除が終わりました」

「おお、今日は草壁の席の列が掃除当番か……こ、これは!」

 担任教師は、驚いた声をあげる。

「掃除がうますぎて、教室から指紋が消え失せている! 今ここに死体があったら即迷宮入りだ! 手がかりがなさすぎて、ホームズもワザップに頼るくらいの完全犯罪になるだろう!」

 すげえ。完璧だ。



 ある日、通学路にある公園。

 草壁は気分転換なのか、ベンチに座ってまったりしている。

 その近くに小さな鉄棒で逆上がりを練習してる子どもがいた。何度も回転を試みるも、下半身が持ち上がらず靴がズリズリ音を立てている。

「はぁ。なんでこんなことしなきゃいけないんだよ」

 文句を言っている少年に、草壁が近寄っていった。

「君、逆上がりは嫌い?」

「え、う、うん。だって大人になっても逆上がりって必要ないでしょ! なんのためにやってるんだよ!」

 少年は驚きながらもありがちな不満を答えた。

 草壁は少し考えた後、言った。

「教育において逆上がりができることそのものは重要じゃない」

「え、じゃあどうして?」

「体育とは、肉体だけではない。心まで育てるプログラム」

「どういうこと?」

「逆上がりは怖い。頭をぶつけるんじゃないか、落ちるんじゃないか、血が逆流するんじゃないか。そういう恐怖心との戦いでもある。人はじっとしていると悲観的になって、一歩を踏み出せなくなってしまう」

「えーっと……」

「だからまず勇気を持って行動することが重要、その一歩が逆上がりのように、人生を躊躇なく蹴り上げる。それを理解すれば問題ない」

 草壁は子供に対して逆上がりの壮大な意義を説いていた。

 すげえ。完璧だ。

 ……いや本当か? テキトーに言ってないか? 逆上がりが人生に繋がるとか聞いたことないぞ。

「……そうなんだ! じゃあ逆上がりそのものはできなくていいんだね!」

 子供は満足そうに帰っていった。解決になってるのかはよくわからない。


「ふぅ」

 草壁はさっきまで座っていたベンチに戻りため息をつく。謎の達成感に満ち溢れているのだろうか。完璧な日常だ。やはりそんなしょっちゅう変なことはしないよな。

 と、俺が諦めかけたその時。

 

 草壁は立ち上がって、きょろきょろと周囲を見回した。

 見たことある動きだ。不審な予備動作。

 まさかと思っていたら、人から見えない公園の茂み、即ちさっきからずっと俺が隠れて観察している方向へやって来た。


 ブレザーを脱ぐ。上のボタンを外し、右手を左脇につっこむ。そしてもぞもぞやっている。さすがに公園で半裸にはならないらしい。それでもやばい行動には変わりない。


「んっ……はぁ、ふぅ」

 艶かしい声のあと、脇から取り出された指先には、毛が一本つままれていた。

 腋毛を抜いたのだ。

 そしてそれは指先から離れ、ひらひらと舞って、俺の目の前に落ちた。

 まるで、桜の花びらのようだった。


「マジでなにがしたいんだお前」

 俺は我慢できずに、茂みを飛び出してつっこんだ。


「っっ!?」

 草壁は驚きの表情を浮かべ、そして腋を隠す滑稽なポーズを取る。校舎裏の再放送だ。


「……なぜあなたはいつも茂みから飛び出してくるのか」

 苦しそうにそんな文句だけ絞り出したようだが、俺は平然と答える。

「ポケモンみたいだろ」

「あなたの言動、まともではない」

「草壁の方がおかしいからな。言はまだしも動が特に」

「っそれは……」

 反論なし。しかし倒すのが目的ではない。俺は語りかける。


「腋毛は美しい。俺はそう言った。ただその理由は、自分でもわからないんだ」

 素直な思い、それをぶつける。


「言いふらしたり脅したりしない。俺は草壁の話を聞きたい。お前はなぜ、腋毛を生やしてるんだ?」

 俺の言葉に草壁は悩んだ様子で、そして観念したように口を開いた。


「……わかった。一つだけ話をする」

 よし、ついに草壁の思いを聞くことができるんだ。なんでもいい、聞かせてくれ。


「これはおよそ150年前のイギリスの話」


「待て、なんだその導入」


「ジョン・ラスキンという美術評論家がいた」

「おい草壁の話じゃないのかよ。毛色が全然違うだろ」

 毛だけにね。


「最後まで聞いて」

 草壁は息を吸って、一気に語り出した。


「テレビや美術館で、裸の人間の絵画を見ることがあると思う。

 あれはヌードと呼ばれ、現実の人間ではなく理想化された身体としての裸を描いている。

 だから陰毛は描写されない。

 西洋美術の大家で理想を見て育っていたジョン・ラスキンは、生身の女性も毛が生えていないと思いこんでいた。

 しかし彼が結婚しその初夜に妻の裸体を見ると、体には陰毛が生えていた。

 それを見てショックを受けた彼は勃起不全になり、離婚した」


 へぇー。


「つまり、そういうこと」


 なにが!??


「さようなら」

 草壁は言いたいことは言った感を出して去っていった。

 ぽかんとする俺だけが公園の茂みに残された。

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