第3話 村田家


 「お義母さん、窓、閉めますね」

 雨が降ってきたのを見た妙子は、義母・則子に声をかけた。

 「そうね、そうして頂戴」

 則子から、同意の返答が返って来た。妙子は1階の窓、縁側のガラス戸等をすべて、閉め終わると、2階のガラス窓を閉めるべく、階段を2階へと上がった。

 妙子は、2階廊下の窓をすべて閉め、回転式の鍵を閉めた。古い家屋なので、こうした構造は女学校時代の校舎と同じであった。

 2階には、妙子と幸長の部屋がある。

 「入るわよ」

 それだけ言うと、妙子は無遠慮に、障子を開けた。

 「よ」

 幸長は、振り返った。妻・妙子が部屋に入ってくるのをすでに予測していたようだった。木製の階段や床に鳴る足音が、これまで、耳慣れていた母・則子のそれとは何となく違うので、妙子が来るのがわかっていたのかもしれない。

 2人の部屋は、通りに面して、窓があり、その窓に面して、低い机があり、幸長は、机に向かって、胡坐をかいて座っていた。

 部屋の中には、大きな本棚があり、何かしら難しげな書籍が並んでいる。妙子はかつて、現在の夫・幸長から、書籍を借りたことがあった。おそらく、これらの集団の中の一員だったものであろう。

 妙子はまだ、女学生であった時、こうした書を読むことによって、―彼女自身の自己満足であったに過ぎないかもしれないものの―何かしら、成長したように感じ、少しく、うれしかったものであった。

 古い<段階>から新しい<段階>へと、自身が進歩したように感じたのである。そして、それは彼女自身にとって、やはり、自己満足にすぎないとしても、その度ごとの

 <新たな出発>

として、感じられるものがあった。

 今、妙子は、学生時代の

 <新たな出発>

を支援してくれた書籍等の住まいでもある場所に足を踏み入れていた。

 妙子は、本棚の書籍たちを見つつ思った。

 「君達は、私を新しい陣営に導いてくれたんだね」

  結果として、これらの書籍は、幸長と妙子の結婚という、大規模な

<新しい出発>

を導いてくれたのであった。同時に、村田家は妙子にとっての、

<新しい出発>

の場所となったのであり、同時に、村田家そのものが、

 <村田妙子>-旧姓、藤倉-

を迎え入れたことによって、

 <新しい出発>

となったと言えた。

 書棚の書籍たちが、書棚を眺める妙子に対し、

 「村田家の新しい出発のためにようこそ」

と言ってくれているようにも思えた。

 無論、書籍達は何も言わない。しかし、その中の文字の羅列は、行間から、確かに妙子に語り掛けてきていたのである。そうした働きかけをなすことを通して、書籍達は、女学生時代の妙子の心に、幸長と生活を共にするよう、働きかけて来ていたともいえた。

 「どうした?」

 夫の幸長が話しかけてきた。妻の妙子が、自身の世界に耽溺し、何も言わないままなので、沈黙に耐え切れず、声をかけてきたようであった。

 「あ、うん」

 妙子も夫の部屋に入ったまま、自身の世界に耽溺したままであったことに気づいた。夫の声によって、彼女自身の世界をから、引き出されたのである。

 妙子は窓の外に目をやった。先程の雨はすでに本降りになっていた。ガラス窓はもちろん、幸長自身の手で閉められていた。時刻はすでに夕方であり、外は暗くなっていた。   

 先程まで点いていた部屋の電灯が消えた。電力不足による昨今では何ら珍しくない停電であろう。窓の外に見えていた各家家でも電灯が消えたようである。いよいよ、暗さが増した。

 幸長が部屋の片隅に置いてあったろうそくを取り出した。そのろうそくに、妙子がマッチで火をつけ、明かりをともした。

 <マッチ>

という持ち運び自由で、かつ、極めて簡単な点火用具は、昨今、欠かせない生活用具であった。妙子は、

 <村田家>

の主婦として、こうしたいつ起こるか分からない停電のため、マッチを半ば、常々、持ち歩いていた。

 ろうそくの明かりがともったことによって、室内がほんのり、明るくなった。壁には、それぞれ、妙子と幸長の影が映った。

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