第2話 耽溺
やがて、雨が降り出した。雨が屋根をたたく音が聞こえ、静江は縁側のガラス戸を閉めた。
季節はまだ、残暑が残る頃なので、晴れていれば、室内の電気は必要ない。しかし、雨天ともなれば、室内は暗い。静江は居間の電灯に手を伸ばし、ひもを引いた。しかし、電灯は点かない。停電だった。よくあることである。
静江はマッチで、ろうそくに火をつけた。3本のろうそくのうち、2本を亡き夫・峰雄の仏壇に供え、1本を今のちゃぶ台の上に置いた。
居間は明るくなったものの、やはり、何となく、暗い。静江は、さらに、1本のろうそくに火をつけようかと思ってはみたものの、やめた。
物不足が
<表>
つまり、生活上の常識と化している昨今、ろうそくも無駄遣いできない。使い切ってしまったら、いつ、新たなそれが入手できるのだろう。物不足という
<表>
は、室内の
<闇>
を十分には照らしてくれない。これが、停電と言う物理的<闇>によって描かれる昭和35年の戦勝国・日本の
<表>
の姿であった。
今日は、静江1人である。年頃になった雄一は、徴兵検査を受け、一応は、陸軍に入隊させられており、彼に部屋もまた、主を失っていた。
1人の静江は、暗いような明るいような居間の中で、ちゃぶ台のそばに座り、そのうち、自身の人生について、もの思いにふけっていた。
仏壇の中の夫・峯雄は、日本のろうそくに照らし出されて、ぼんやりと目立っていた。そのボンヤリとした姿が、なにかしら、幻に様にも思える。
思えば、夫・峰雄との結婚生活そのものが、それこそ、
<幻>
のようなものであった。
峰雄の戦死を海軍からの郵便で受け取って以来、静江は、妙子と雄一を育てなければならないという
<表>
あるいは、<現実>を生きてきた。
それは、勤労奉仕による工場勤務と自宅の往復であり、妙子や雄一との家庭での生活の日々であった。それが静江にとっての
<表>
であった。しかし、それも、
<闇>
によって、支えらえてきたことは言うまでもなかった。
妙子が結婚するとき、まともな結婚式もできなかった。娘の新しい出発だというのに、ごちそうもだぜなかった。食料は、たとえ、慶事にあたっても、贅沢できないというのが
<表>
であり、<闇物資>によっても不可能な相談だったのである。そして、それこそが昨今の
<常識>
であった。
静江は、
<大東亜共栄圏>
に青春をかけた、というより、かけざるを得なかった世代である。そのことで、妙子と世代間の認識の差を感じ、母娘間戦争さえ起こりそうになった。
しかし、その妙子も先日、-地理的には身近な場所とはいえ-いなくなった。雄一もいなくなった家の中にて、1人でいる静江としては、何もすべきことがなくなっていた。
なすべき
<表>
が、いわば消滅したといっても良いかもしれない。
そんな静江にとって、妙子の新たな
<出発>
は何を意味するだろう。
妙子に子供が生まれたら、おばあちゃんとして、世話をすることだろうか。
娘に子供が生まれたら、きっと、うれしいだろう。しかし、そこにも、少なくとも、物資に関しては
<闇>
に支えられなければ、成立し得ない
<表>
があることは容易に予測できた。
家族、親族の成員が増えれば、その分、1人当たりの食料は減少するのである。
「本当なら喜ばしいことのはずなのに」
静江の心中に重くのしかかるものがあった。1人でいることから、かえって、あれこれ、考えてしまうものがあるのかもしれない。
「妙子は、幸長さんとの記念写真の時には笑顔だったね」
その時は、静江も笑顔だった。しかし、今、思えば、娘の新たな出発を祝いたいという気持ちとともに、娘を悲しませたくないがための作り笑顔だったかもしれない。そして、静江がなしうるのは、それしかなかったのである。
「妙子は、あの時、どう思っていたかしら」
改めて、物思いにふける静江であった。静江が、このような物思いにふけるのは、これまでの人生の中で苦労し、かつ、半ば若くないので、どうしても、これまでの
<表>
つまりは、現実の生活の枠組みの中でしか、考えられず、新たな
<出発>
の可能性も薄いからかもしれなかった。
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