病み彼女危機一髪

SEN

本編

「も、もうやだぁ……しぬぅ……」


 深夜に家に帰ると、そう呟きながら私に包丁を向ける私の恋人が出迎えてくれた。


「ただいま」

「おそい、おそいよ。どこ行ってたの……?」

「遅くなってごめんね。ちょっと仕事が立て込んでて、残業してたの」

「うそ! そんなの嘘よ!」


 素直に謝ると彼女はヒステリックに叫んで私の言葉を嘘だと決めつけた。本当のことなんだけどなぁ。まぁ、こうなったみどりとまともに会話できないことは知ってるけど。


「私に内緒で別の恋人作ってるんでしょ! だからここ最近ずっと遅く帰ってくるのよ! 私知ってるんだから!」

「そんなわけないって」


 自分の妄想をまるで事実かのように語る彼女の言葉をやんわりと否定する。今の彼女は自分の妄想を真実だと思い込む。つまり、彼女にとって私は何年も同棲しているのに浮気した最低な女ということになっている。


 今の彼女の妄執は決して対話なんかじゃ解くことはできない。そういうことを、私は全部知っている。


「嘘つき! 言葉ではなんとでも言えるもん! そうやって私を騙すんでしょ! 私なんか捨てて私の知らない人と幸せになるつもりなんでしょ!」

「嘘じゃないよ」


 私、そういうのよくないな。錯乱してるとはいえ、大好きな翠が自分を卑下してるのを見るのは心が苦しくなる。そういうところが可愛いんだけどさ。


「やだ、やだよぉ。青葉あおばも私を捨てるの? 私を捨てて消えちゃうの? 私は青葉のこと大好きなのに、大好きだから青葉のためならなんでもできるのに。青葉になら私の全部をあげられる。こんなにも愛してるのに、なんで私を捨てるの……?」

「私も翠のこと愛してるよ」


 翠の全部かぁ……欲しいな。心も体も全部全部、私のものにしたい。私一人のためにこんなにも心を乱してくれる姿を見ると、翠の心はもう完全に私のものなのかな。嬉しいな。身体も最近は思い通りにできるようになったなぁ。じゃあ、全部をあげられるって言葉は本当なんだ。翠は自分の全部を私にくれてる。目の前の彼女を見てそれが確認できて、胸が高鳴った。


「捨てないで、消えないで、ずっと私のそばにいてよ!」

「私は翠のそばを離れるつもりはないよ」

「……だったら証明して」


 今の翠は私の言葉を信用しない。どんなに誠実な言葉をまっすぐ伝えても、どんなに甘い愛の言葉を囁いても、彼女は聞く耳を持たない。それほどまでに私を愛してくれる可愛い子だ。


 長い前髪の隙間から、光が消えた黒い瞳が私を捉える。深く闇に沈んだ目は決して私を逃そうとしない。


「私に殺されてよ。殺されてくれたら私も死ぬ。そしたら、ずっと一緒にいられるでしょ?」


 ゾクゾクと背筋が粟立つ。彼女の本気の殺意を本能が感じ取る。ここで逃げなければ死ぬ。生物としての本能が私に逃亡を促した。


「いいよ」


 私は迷わず彼女の願いを受け入れた。私が微笑みかけると、その言葉だけは信じてくれたようで、翠は安心したように笑った。あぁ、笑顔もやっぱり可愛いな。


「ありがとう」


 ずっと一緒にいられる。その願いが叶うと思った翠は、笑顔で私に向かって包丁を振り下ろした。そして私は、胸に向かってまっすぐ振り下ろされる包丁を腕で防いだ。


 鈍い痛みが熱と共に私の体を揺らす。着ていたコートを貫いて私の腕に突き刺さった包丁。その根本から血が滲んでいるのを見て、翠の目に光が戻り、彼女は勢いよく後ずさった。


「あ、あぁ……! あ、青葉、うでが、ち、ちが、あかい、あぁだめ、やだ、し、あおばしんじゃう」


 自分でやったのにもかかわらず、翠は冷静さを失って私の命を心配している。そんな彼女があまりにも愛おしくて、腕の痛みなんて忘れてしまった。


「ごめんね、翠。つい腕で防いじゃった。次はちゃんと刺されるから。ほら、この包丁抜いてさ、私を殺してよ」

「えぁ、や、やだ……」

「なんで? 翠が言ったんだよ? 私を殺して自分も死ぬって」

「ち、ちが……」

「私、嬉しかったんだよ。一緒に死んでくれるって、そんなにも私を愛してくれてるんだって。ここで一緒に死ねたら幸せだろうなって。それとも嘘だったの?」


 包丁が刺さった腕を彼女に差し出す。ぽたりぽたりと腕から流れる血が床に落ちて、赤い斑点を描いた。


「ご、ごめんなさい……やだ、やっぱり死んじゃやだよ……青葉に死んでほしくないよ……」

「……そっか、翠がそう言うならやめるよ」


 宝石のように綺麗な涙が翠の可愛い顔を飾り立てる。一緒に死ねなかったことは残念だったけど、こんなにも可愛い恋人と共に生きられることは嬉しかった。


「翠」

「な、なに」


 名前を呼んで泣いている彼女の顔を上げさせて、私を視界に入れた瞬間に勢いよく腕から包丁を引き抜いた。血の雫は血の滝となって床に落ちて、赤い湖を創造した。試しにコートの袖を捲ってみると、綺麗な一直線の傷口から血が溢れ出していた。


「あ、ああ! や、だめ! 死んじゃう!」


 へたり込んで泣いていた翠は勢いよく立ち上がって私の傷口を押さえた。それでも血が止まることなんてなくて、私の血が彼女の彫刻のように綺麗な白い手を赤く染めた。私の手で純粋な彼女を穢すという光景に興奮して口角が歪む。


「あ、あぁだめ、はやく病院に」

「みどり」


 私のために取り乱してくれる愛しい恋人の名前を呼ぶ。すると彼女は素直に私の顔を見てくれて、頬を伝う透明な雫がよく見えた。


「舐めて」

「……へ?」


 状況が理解できていない彼女は困惑の瞳を私に向けた。それはご馳走を目の前に待てと言われたも同義で、イラついた私は血が溢れる腕を彼女の口に無理やり押し当てた。


「舐めて、腕を綺麗にするの。翠がやったんだから、後処理は翠がしないと」


 翠にもちゃんと理解できるように優しく説明すると、彼女は素直になって私の傷口を舐め始めた。


 彼女の小さな舌が私の傷口を這う。滑らかで生温かい感触が心地良い。懸命に私の血を舐めとる彼女は愛おしくて、無情にも溢れ出てくる血の処理が追いつかずに溺れそうになる姿はいじらしかった。


 指示していないのに、翠は私の血を全部飲んでくれている。飲みきれなかった血が零れて口元を汚すさまはなんとも幼気で、私のために尽くす健気な姿にときめいた。


 渇き。涙を流しながら私の血を飲む彼女を見て、喉の奥がカラカラに渇き始めた。欲しい、潤いを求める欲望が湧いてきて、我慢できずに彼女の唇に喰らい付いた。


 私の勢いに耐えられなかった翠は床に倒れ、それに追い縋って、彼女に覆い被さる。喉の渇きを潤すため、オアシスを求めて彼女の口内を蹂躙する。私の血と翠の血と涙が混ざり合った奇跡の味。どんな上物のワインよりも深みがあり、どんな高級チョコよりも濃厚で甘い、私たちの愛の結晶の味。


 それは私の底のない渇きすら満たしてみせた。渇きが治った私はゆっくりと唇を離して、彼女を跨ったまま見下ろした。


「愛してるよ」


 渇きは治った。でも、完全に満たされたわけじゃない。愛の器を満たすため、私は彼女に真摯な愛を囁く。


「わたしも大好きだよ」


 すると、翠は迷いなく応えてくれた。それを合図に私たちは口づけを交わす。


 ぐちゃぐちゃになって翠以外には見せられなくなった両腕の傷跡。その数だけ私たちは愛し合った。満たされて、また渇いて、また満たす。何度も何度も繰り返して、永遠を約束する。


 命を失う境界線上。そこには真実の愛がある。だから、それを知っている私たちはこの世界で一番幸せだ。

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