第2話 母との面会
某年11月29日。
僕は老人ホームの母を訪ねた。約1ヵ月ぶりの母との面会だった。
他愛のない会話の中で、僕は母にサラリーマンではなく自分で生きていくことを伝えた。
母には驚かれて心配させることになるのではないかと不安だった。
「どうやって収入を得ていくつもりなの?」と。
だが結果はまったく違っていた。
母は満面の笑みを浮かべて万歳のポーズをすると次のように言ったのだ。
「あら、それは思い切った人生の方向転換ね。素晴らしいと思う。きっと亡くなったお父さんも涙を流して喜んでいるよ。やっぱりあなたは自分の力で生きていく意思と能力を持っているのね。」
僕は予想外の反応に驚いたが同時にホッとした。
父は1年前に心不全で亡くなった。87歳だった。
そして父と同じ年齢の母は老人ホームで暮らしている。壁に飾った写真の中の父がいつも微笑んでいる。
母は身体の自由が効かず小回りが出来ないし認知症を患っている。
何十年も前のことは覚えているのに、たった15分前のことが思い出せない。
それゆえ本当に会話を理解しているかどうかも疑わしい瞬間がある。
だが、僕は次のように受け止めている。
たしかにこの現実の世界における母は、認知症ゆえに僕がサラリーマンを辞めて自分で生きていくという意味を理解できていないかもしれない。
だけど母の魂は違う。理解しているのだ。息子が新しい人生を踏み出そうとしていることを。
彼が自力で未知なる世界への扉を開こうとしていることを。
母の魂は僕の決断を祝福してくれているのだ。
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夕方に帰宅すると1通のメールが届いていた。転職エージェントの担当者からだった。
それは某金融機関での最終面接への案内だった。
この数か月、僕はサラリーマン社会に復帰すべく就職活動をしていた。
そして多くの会社から年齢を理由に門前払いされた中で最後に残ったのがその金融機関だった。
正直なところ、一瞬だけ気持ちが揺らいだ。
前回までの面接の感触から推測すると、この最終面接を通過できる可能性はかなり高い。
ポジションも次長クラスなので相応の年収だ。これに受かればお金の不安からも解放される。
だけど、その誘惑を上回る別の気持ちが自分の心の中に存在していた。
それは「もうサラリーマンでいたくない」、「自由に生きたい」という想いだった。
だから審判の時がついに来たと感じた。
この最終面接への案内メールは自分の覚悟を問いただすために届いたのだ。
それも母への報告の直後に。「本当に良いのか?」と。
僕は深呼吸をすると転職エージェントの担当者に返信メールを打った。
「平素より大変お世話になっております。●●社の最終面接のご案内ありがとうございます。自分なりに色々と考えましたが本件は辞退することにしました。お手数おかけしますが宜しくお願い致します。」
メール送信の数分後に電話が鳴った。転職エージェントの担当者からだ。電話に出ると彼は慌てた口調で僕に翻意を促した。この最終段階で辞退するなど理解不能だったのだろう。
だけど僕の気持ちは変わらなかった。
意地を張っていたわけではない。
僕はもうサラリーマンとして雇用されることに関心が無くなっていたのだ。
担当者は無念そうに電話を切った。
これが、僕が本当にサラリーマンを辞めて自由に生きることを選んだ瞬間だった。
僕はもう少しで51歳になろうとしていた。
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