第15話 大垣
ゆっくりと目を開くと、二匹の猫が俳句を詠んでいた。一匹が詠むと、もう一匹が批評する。互いに繰り返しながら、ああでもない、こうでもないと言い合っている。
「ふふ」
思わず笑みが漏れた。魚屋猫のお杉と清風猫は、声に気づいて振り向いた。
「暗い影が完全に晴れたな」
清風猫が厳かに言った。
「よかった、よかった。ほっとしたよ」
魚屋猫のお杉が相好を崩した。
「空ちゃん、顔色がいいよ」
コガネムシが、頭の上で羽根をぶーんと鳴らした。
「あの、どれぐらい寝ていたのですか?」
二匹の猫が、顔を見合わせた。三日三晩と、声を揃えて言った。そんなに寝ていたのかと、空猫は驚いた。
「早く大垣に行かないと」
「その前に空ちゃん、ご飯を食べなさい。あんた、このまま走りだしたら、空腹で倒れてしまうよ」
コガネムシに、頭をぺんぺんと叩かれた。
水を飲み、食事を取り、体の状態を確かめた。ずっと寝ていたはずなのに、全身に力がみなぎっている。師匠の呪術のおかげだろうか。夢の中で前世を見たからだろうか。おそらく二つが手を取りあって、影を消してくれたのだろう。
「行きましょう」
空猫は立ち上がる。三匹の猫と一匹のコガネムシは廃屋を出た。そして化け猫たちは道路を駆けて、バス停の前に立った。
バスを待っていると、清風猫が笑顔で言った。
「私は、ここでお別れだ」
「最後まで一緒に行かないんですか?」
空猫が尋ねると、清風猫は首を横に振った。
「私は、かなりの高齢だからね。君たちの、矢のような旅に付き合う体力はないよ。それにね、私には君たちがまぶしすぎる。化け猫の中には、古いことを明瞭に思い出している者もいてね。私は君たちの再会の場に立ち会って、嫉妬を覚えるのが怖いんだよ」
清風猫は、優しい声で言った。前世の記憶があるのだろう。そして、素直に喜びをともにできない過去を持っているのだ。今なら空猫にも分かる。化け猫は、猫が人のように考えるのではない。人が猫の姿に落ちたのだ。化け猫たちは、前世の因果でこの姿になっている。清風猫が宿を営み、他の猫たちの世話をしているのは、前世の罪を少しでも清算するためなのかもしれない。
「分かりました。ありがとうございます」
「旅の無事を祈っているよ」
本当にうらやましそうに清風猫は言った。
バスが来た。素早く乗って、座席の下に隠れる。バスの次は電車だ。乗換駅に来たところで、空猫の頭からコガネムシが飛び立った。
「どうしたんですか、姐さん?」
「何となくね、仕事をしないといけない気がするんだよ」
「どんな仕事ですか?」
「あんたたちの蘆薈庵に、化け猫たちがいるだろう。虫たちの連絡網を使って連絡して、大垣に集合するようにと伝えないといけない気がしてね。何か大きな力を感じるんだよ。私は、その流れに身を任せるとするよ」
コガネムシは上空へと飛び立った。
終電の時間になった。空猫とお杉は、駅の近くの茂みに隠れて翌朝を待つ。
空猫とお杉は旅を続ける。師匠を追うために、ふたたび電車に乗る。敦賀に至る。日本海側の旅程が終わる。そこから南東に向け、大垣を目指した。
大垣駅に到着した。電車を降りたところで、コガネムシが飛んで来て、空猫の頭に止まった。
「姐さん!」
「空ちゃん、いいかい、よくお聞き。虫の知らせは東京の蘆薈庵に届いたよ。そして、あんたの仲間たちはみんな『奥の細道むすびの地』へと向かったよ。お師匠さんが来る予定の場所だからね。
今確かめてきたが、終着点には大量の猫がいるよ。みんな、特急列車とか長距離トラックとかを駆使して移動してきたんだろうね。ついてきな、先導してあげるよ」
コガネムシは羽を動かして舞い上がる。あとを追って空猫とお杉は駆けだした。
二匹の猫は、大垣市が整備した『ミニ奥の細道』をひた走る。ところどころに石碑があり、俳句が書いてある。化け猫たちの集合場所は、この道の終端にある橋だ。
赤い欄干の橋が見えてきた。欄干の途中には擬宝珠がついている。当時の橋のイメージを再現したものだろう。
近づくと、橋の上に数百の猫がいて騒いでいた。猫たちは、自分たちが詠んだ俳句を、にゃーにゃーと叫びあっていた。
橋の上の一匹が気づき、顔を向けた。猫じゃらしを目の前で振られたように、猫たちは一斉に顔を向ける。空猫が到着して、少し遅れて魚屋猫のお杉がたどり着いた。
「はあ、はあ、空よ。もう少し年配を労ってくれ」
「何をおっしゃいます。お杉殿は、まだまだお若いです」
やって来た二匹の猫を、遠方から集まっていた蘆薈庵の化け猫たちが、わっと騒いで取り囲む。空猫は橋の上を見渡す。蘆薈庵にいた猫の数より遥かに多い。数倍の猫が集まっている。これはどうしたことかと顔見知りに聞く。
「電車に乗り、バスに乗り、トラックに乗り、さまざまな方法でみんなここに来たんだよ。まあ、猫の民族大移動だね。それを見た各地の化け猫たちが、いったい何があったんだと思って追ってきた。道すがら、かくかくしかじかと説明したら、そりゃあ面白い、記録に残そう、自分の創作に役立てようと、どんどん数が膨れ上がったんだよ」
それがこの状態なのか。
「これはまるで、猫の量り売りですねえ」
「橋が落ちてしまわないか心配だよ」
「人だかりもできていますね」
「物珍しいんだろうなあ。猫がこんなに集まるなんて」
きっとニュースになる――。テレビデビューだ――。全国放送で有名猫だ――。化け猫の数匹が興奮して叫ぶ。そうかと思えば、擬宝珠の上に乗り、ポーズを取る猫もいる。また欄干の上で日向ぼっこをする猫もいた。
橋の上は騒々しい。爪で床板をカリカリとかいて、自分が考えた俳句を刻もうとしている猫もいる。朗々と歌っている猫もいる。てんでばらばら、他人の言葉を聞かない猫たちが、わいわいがやがやと騒いでいる。
「お祭りは、いつはじまるんだ?」
「宴会がおこなわれると聞いているぞ」
「十メートルの魚がやって来て、刺身が振る舞われるんじゃなかったのか?」
途中で参加した猫たちの中には、伝言ゲームで違う話になっている者もいた。
やれやれどうなることやら。空猫は辺りを見渡す。その頭の上でコガネムシも周囲を探る。師匠はどこから来るのだろう。いつ着くのかは分からないが、そろそろ到着しそうだという予感があった。
「あっ、化け猫の言葉を話しながら、やって来る人間がいるぞ!」
一匹の猫が、道の向こうを前足で指しながら言った。
ラフな格好で、リュックサックを背負い、にゃーにゃーと鳴きながらやって来る四十代半ばの男性がいた。
耳がぴょこんと立っていた。ひげがぴんと伸びていた。歩く姿の輪郭をはみ出して、尻尾がゆらゆらと動いていた。来世の姿がのぞいている。師匠は、うつし世に、夢を重ねて生きている。
師匠が、にゃーと鳴くと足下が土になった。さらに、にゃーと鳴くと、江戸の街道の景色が現れた。今と昔を一つにして、確かな世界と、幻の世界を同時に味わっている。幾重にも重なった世界を身にまといながら、師匠は橋の前までやって来た。
空猫は師匠を見上げる。師匠は空猫に笑みを向ける。
「よくなったのかい?」
優しい声が、春の日差しの下で響いた。
「はい。お師匠さんは、書けるようになりましたか?」
空猫は、祈るように声をかける。
「ああ、書けるようになったよ」
師匠が、嬉しそうに相好を崩した。
「どんな俳句なんですか?」
空猫は、目に涙を浮かべて尋ねる。
「それはね――」
師匠は空猫に、まだ誰も聞いたことがない俳句を伝えた。そして空猫は、昨日よりも少しだけ、世界の見え方が楽しいものに変わった。
了
ねこのほそ道 雲居 残月 @kumoi
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