第14話 輪廻

 崩れかけた廃屋の中で、空猫はうとうとしている。その横で清風猫がつぶやいた。

「お師匠さんには、大きな呪術を行使してもらっている。だが、その成就を待っているだけというわけにもいくまい。空殿は空殿で、死の影を祓う痛みを経験しなければならないだろう。

 これは荒療治だ。記憶の影を取り除くことで、心に光を行き渡らせる。向かい合う人生によっては、辛く苦しい事実が待っているかもしれない。少なくとも私は前世を知って絶望した。家族を傷つけ、大店の多くの人を路頭に迷わせていた。空殿の前世はどうだろうか。畜生に落ちているのならば、幸せなものではなかったのだろう」

 欠けた屋根から入る陽の光が、空猫の体に当たっている。陽の温もりが心地よい。鳥や虫の声が、眠りを誘う音楽のように聞こえた。

「眠れよ眠れ、眠りの中で、夢とこの世の境目で、己が姿と会ってこい」

 清風猫のゆるやかな声が重ねられる。夢の中で夢を見る。まどろみの中でまどろんでいく。前世、来世、前々世、来々世。空猫はいくつもの世界を通り抜け、この世の重なり合いを知る。全ての世界が溶けていく。自ら忘れた記憶へと到達する。


「食事に行かないかい?」

 仕事が終わったあと、居眠りで残した仕事を片づけていると声をかけられた。大部屋には空豆しかいない。電灯は一つを除き消していた。自分より三つ年上の先輩。真面目な人なのは知っている。

 早く帰って書きたかった。しかし、お腹も空いていた。帰宅し、料理を作り、それから食べる。その時間の長さを考えると、どこかで食事をとって帰ることが魅力的に思えた。空豆は、少し待ってくださいと言い、急いで仕事を片づけた。

 更衣室で制服から私服に着替え、玄関で合流した。行き先は、社内の人間がよく行く洋食屋だった。料理を注文して待つ時間に話しかけられた。

「最近、よく仕事中に居眠りをしているね。何か悩みでもあるのかい?」

 心配されていたのだ。そのことで申し訳ない気持ちになった。

「すみません」

「ううん、謝らなくていいんだよ」

 体調が悪いのか、家庭で問題があったのかと、あれこれと聞かれた。書いているせいだということは、恥ずかしくて言えなかった。

 食事が終わったあと、暗い街灯の下を歩き、バス停まで送ってもらった。また誘ってもよいかと聞かれたので、構いませんと答えた。三つ年上の先輩は、嬉しそうな顔をした。

 それからは、少しずつ誘われる頻度が増えた。映画を観た。海で遊んだ。夜景を見た。史跡を巡り、遊歩道を散策した。会うたびに彼の中で、自分への恋心が募っていくのが分かった。気持ちの水かさが増え、堤防の高さを超えたところで彼は結婚を申しこんできた。

 空豆の小さな池は乾いていた。わずかに湿っていたのは、彼が恋と愛という水を懸命にまいていたからだろう。

 妻になり、家に入れば、書く時間が取れるのではないか。女性の多くが、結婚して会社を辞める時代だった。年に何度も、寿退職で女たちが会社から去って行く職場だった。

 打算という蛇が舌を出した。結婚し、祝福され、退職した。最低限の家事をこなしながら、書くことに没頭した。書いた文章は世に出ることもなく、根雪のように積み重なっていった。可能な限り子作りを拒み、時間を奪われないようにした。そうして稼いだ時間で、求められない原稿を増やしていった。そして瞬く間に二十年という歳月が経過した。


「ねえ、空豆」

 自分を呼ぶ男の声が聞こえ、肩を優しく揺さぶられた。空豆は顔を上げて、ぼんやりとする。自分が猫になり、旅をする夢を見ていた。

「なんですか?」

 まだ頭がはっきりしない。ここはどこだろうと考える。手掛かりを探るために周りを見る。木造アパートの一室。自分は文机の上で顔を上げている。机の先には鏡のようになったガラス窓があった。窓の向こうからは電車の音が聞こえてくる。すでに夜になっていた。しわの寄った原稿用紙、先が丸くなった鉛筆。自分は書いている途中に眠ってしまったのだと気づく。

 男の人が自分を覗きこんでいた。四十代半ばの眼鏡をかけた男性。いたわるような眼差し。柔和な口元。自分より三歳年上の人。長らく連れ添ってきた伴侶である。空豆は、自分の肩に置かれた手の平に指を伸ばす。毛布がかけてあった。かなり長く眠っていたのだろう。どうして猫になる夢を見たのかと考える。

「ねえ、空豆。離婚しよう」

 唐突な申し出にも混乱はなかった。空豆は机の向こうの窓を見続ける。ガラスに自分の姿が映っていた。結婚してから二倍ほどの年齢になっている。手入れをしていない肌に髪。自らの美貌を省みないために、くたびれた姿になっている。まるで、おばあちゃんね。化粧をしていない顔を見て、そう思った。

「女の人ができたの?」

 自分よりもっと素敵な女性が現れたのかもしれない。私が彼だったら乗り換えるわね。微笑みとともに声を出した。

「違う。私は君を愛している。しかし、君は私を愛していない。二十年待ったが限界だ。私は君の世界の住人になれなかった。君は、この世界ではなく、別の世界に生きている。同じ場所にいながら、違う景色をながめている」

 泥で作った人形が、乾いて崩れるように、夫であった人の心が壊れていくのが分かった。言葉にしてしまったことで世界が大きく変わってしまったのだ。言葉は、人が見る景色を変える力を持っている。

 空豆の目に涙が浮かんだ。ガラス窓に映る自分の姿がぼやけていった。波の上に写った顔のように、涙で輪郭が揺らいでいる。実体と観念が曖昧になる。窓の中の自分に、獣のような耳が見えた。手には鋭い爪が生えていた。人でなし。自分の来世は動物なのだと思った。現世の因果でそうなるのだ。重なりあった視界の景色を見て、空豆はそう悟った。

「ごめんなさい」

 心の底から謝罪した。

「書くたびに、君はこの世界からいなくなる。机に向かっていないときも、その目は私を見ていない」

 書くことをやめて欲しかったのだろう。しかし優しい夫は、そのことを口にしなかった。自分は彼の愛情に二十年も甘えてきた。今、書くことをやめると言えば、この人はふたたび私との関係を修復しようするだろう。そうすることが、彼の望みなのだと分かった。人間であるならば歩み寄るべきなのだ。人であるならば――。

 空豆はゆっくりと首を横に振った。

「ごめんなさい。でも、どうしようもないの。山崩しと同じよ。砂で山を作り、棒を立てる。砂を削って、棒を倒したら負けになる。その棒が、私にとって書くことなの。私は書くために生きているの」

 それは、ありのままの本心だった。自身を歪めることはできなかった。その日空豆と伴侶は、二人で枯れるまで涙を流した。

 三ヶ月後、空豆は離婚した。何年か、働かずに済むお金を、あの人は渡してくれた。そのお金で部屋を借りて、仕事もせずに書き続けた。

 自分が獣であることを自覚した。尻には尻尾が生えていた。腕や足は、毛で覆われていた。目は闇夜で光っていた。耳はぴんと立っていた。口は醜悪に裂けていた。頬にはひげが生えていた。口からは、にゃあ、という鳴き声が漏れた。

 自分がいつ果てたのか覚えていない。どの人生かでコガネムシが言っていた。輪廻転生。あのコガネムシも、虫になる因果を持っていたのだろう。

 記憶が霞む。世界が溶ける。

 何年経ったのか分からない。猫の体、猫の脳。母猫から生まれ出て、お乳を飲んだ。獲物を捕り、少しずつ大きくなった。

 しばらく経ち、自分のように話すことのできる猫がいることに気づいた。そうした猫を、ふつうの猫と区別して、化け猫と呼んでいることも知った。成長して、いつしか化け猫同士の繋がりができた。そして、たまに情報を交換するようになった。

 町のブロック塀。陽が当たり、猫たちが少しずつ離れて日向ぼっこをする場所で、馴染みの化け猫に声をかけられた。

「近くのあばら屋にさあ、面白い人間がよく来るんだよ」

「人間ですか?」

「ああ、お師匠さんって呼ばれていてね、化け猫の言葉が分かるんだよ」

「へー、それは面白いですね」

「噂になっていてさあ、この辺りの化け猫たちは、たいてい顔を出しているんだよ。あんたもどうだい?」

「じゃあ、連れて行ってくださいよ」

「よし来た」

 空は、誘ってくれた化け猫と一緒に、猫の道を駆けた。

 あばら屋には、驚くほど多くの化け猫たちがいた。みんな言葉をしゃべり、何かを表現したがっているようだった。無数の猫たちは、部屋の壁沿いに座っている。その隅っこに、空もちょこんと座った。目立たないように控え目に、おそるおそる師匠と呼ばれる人間が来るのを待った。

 扉が開いた。歓声が上がる。四十代半ばの男性が入って来た。男はくたびれていた。憐れでかわいそうな人間に見えた。創作を業として持ち、そのせいで不幸を背負いこんだと思っている。彼は傷ついていた。彼の心は病んでいた。あばら屋にいる化け猫たちは、なぜか共感していた。この人は自分たちと同じなのだ。彼を慈しみ、助けてあげないといけないのだ。

 師匠は部屋の真ん中に来て、埃まみれの畳の上に座った。そしてボールペンを取り出して指揮棒のように振った。

「少し俳句って奴を教えよう。猫の脳の大きさには、ちょうどよいと思うからね。お前さんたちは化け猫のようだけど、他人の気がしないんだ。なぜだろうね。私には、とんと分からない。でもね、語り合いたいと思うんだ。ともに過ごしたいと思うんだ。不思議だね。この気持ちは何だろう。さあ、詠み方を教えてあげるから、やってみな。お前さんたちの望む言葉を紡いでみな」

 ああ、この人は紡ぎたいのだ。しかし、どうしても紡げないのだ。だから、化け猫たちの口を借りて、自分が求める言葉をひねり出そうとしている。

 この憐れでかわいそうな人間は、心の中で涙を流している。化け猫たちの騒ぐ声を聞いて、一歩踏み出そうとしている。飽くなき創作欲の熱気に当てられ、気球のように飛び立とうとしている。

 ――旅に出ようと思うんだ。

 師匠が口にした言葉の意味を考える。

 ――聖地巡礼の旅だ。

 何のために? 何をするために?

 ――書くために。

 空は師匠と旅立った。再生の旅を、ともに歩むことになった――。

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