第13話 山中温泉
旅館の一室で、清風猫は神妙な顔をした。
「お師匠さんの呪術を借ります」
どういうことだという顔を師匠はする。
「お杉殿の話では、お師匠さんは松尾芭蕉の『おくのほそ道』をなぞっているそうですね」
「ああ。ここにいたっては隠しておく理由もない。空には話したが、私は書けなくなってね。その克服のために旅路に就いた。芭蕉さんの、俳句の神様のお力を借りようと思ってね」
清風猫は、こくりとうなずく。
「それはつまり、お師匠さんが芭蕉さんになりきり、『おくのほそ道』の世界を現実世界に重ね合わせようとしているということですね」
「そうなるね。芭蕉さんに、あやかろうとしているわけだから」
「そう、何日もかけて、この呪術は練りこまれているわけなのです」
お杉と師匠は、清風猫の顔をじっと見る。まだ、清風猫が何を考えているのか、ぴんと来ていない。清風猫は、瞬きを何度かしたあと言葉を続ける。
「化け猫の世界はですね。うつし世に重ね合わせた、もう一つの世界なわけです。はかなく、もろく、うつろいやすい。化け猫の命は、重ねた他の世界の影響を受けやすいのです。
お師匠さんは、空殿を連れて『おくのほそ道』をなぞっていた。模倣による呪術を行使していた。能や狂言の主人公と同じですな。『おくのほそ道』の舞台で、登場人物を演じていた。この呪術を完遂することで、同じ結果をたどることができるはずです。いわんとしていることが分かりますか?」
話を聞き、しばらく考えこんだあと、師匠は口の端に笑みを上らせた。清風猫の語った内容を理解したのだ。
「見立ての呪術という奴だね。呪いの藁人形と同じだ。似たものを用意して、同じ結果をたどらせるって寸法だ。私がやろうとしていたことと本質的には一緒だ。
『おくのほそ道』では、金沢で曾良が病になり、山中温泉で芭蕉さんは別れて、先を目指した。
――今日よりや書付消さん笠の露。
山中温泉で、芭蕉さんが詠んだ句だ。意味は、同行二人の文字を、笠に置く露で消すというものだ。そして芭蕉さんは旅を続けて、回復した曾良と終点の大垣で再会する。
つまり、こういうことだね。『おくのほそ道』に見立てて、山中温泉で空と別れ、私は大垣を目指す。そうすることで、同行者であった空を回復させる。この旅の呪術を完成させる」
「そのとおりです」清風猫は首肯する。「山中温泉に行って空殿と別れ、お師匠さんは空殿の快癒を願いながら、一人で旅を続ける。重ね合わせた世界が互いに影響するなら、必ずや空殿は治るはずです。そして、大垣でふたたび会うことができるはずです」
「なるほど」
お杉が肉球をぽんと打つ。暗かった場がにわかに明るくなった。
「ただし、この呪いを行使すれば、お師匠さんの本来の目的が達成されなくなる可能性があります。呪いの力を奪うわけですから」
場の空気が固まる。師匠は黙って下を向いた。しばらくそうし続けたあと、笑みを浮かべて前を向いた。
「本来の目的は、私自身が克服するべきものだ。今は空の回復を最優先にするべきだ。旅が終わり、書けるようになるかは私次第だよ。やろう。空を助けよう。清風さん、呪いをかけてくれ。俺の旅を奪ってくれ」
清風猫はうなずいた。そして儀式とともに長い呪文を唱えた。
世界は何も変わらない。しかし、わずかに見え方が変わっている。呪いという虚構が、薄い膜を現実にかけている。それは創作と同じだ。
「じゃあ、明日になったら、ちょっくら金を下ろして、車を借りてくるよ。この大所帯だと、歩きってわけにも、ヒッチハイクってわけにもいかないだろう。電車やバスも、ちょっと猫の数が多すぎる。
金沢でレンタカーを借りて、山中温泉に行く。そしてお前さんたちを下ろして、私は福井に向かう。そこで車を返して、残りはこれまでどおり、徒歩とヒッチハイクで行く。そんなところでどうだい。車を運転するのは数年振りだけど、まあどうにかなるだろう」
「えっ、ペーパードライバーなんですか?」
お杉と清風猫は驚いて言う。
「ちょっと危ない気がするなあ」
「大丈夫ですかなあ」
「まあ、大船に乗った気でいてくれ」
師匠の言葉を聞いて、お杉と清風は背を丸めてそっぽを向いた。
「泥船に乗る気分ですねえ」
「そうですなあ」
化け猫たちは、師匠の運転技術を、露ほども信用していなかった。
翌日、師匠はATMでお金を下ろして、レンタカーを借りてきた。後部座席に、三匹の猫とコガネムシを乗せて、車は出発した。
「安全運転、安全運転。事故らないように、事故らないように」
念仏のように唱えながら、師匠は肩に力を入れ続ける。車内の化け猫たちはハラハラしながら、山中温泉に着くのを待った。
――よかった、誰も死なずに済んだ。
到着後、化け猫たちはそう思い、胸をなで下ろした。師匠は、がらがらの駐車場に何度も切り返しながら車を停める。魚屋猫のお杉と清風猫、コガネムシは、車から降りて伸びをした。師匠は後部座席に移動して、空猫の様子を確かめた。
「さて、どこに行こうかね。化け猫が休める場所っていうと、どこになる?」
師匠は、魚屋猫のお杉に尋ねる。
「廃屋があればいいんですがね。なければ、神社か寺がある場所を教えていただければ、そこで軒下に隠れますよ」
スマートフォンを出して、師匠は地図を確かめる。
「寺があっちにあるな、途中で廃屋が見つかれば、そっちの方がいいんだろうが」
師匠は、空猫を抱えて歩きだした。
左右に猫を従えて師匠は進む。温泉があるからといって、町全体が温泉宿のわけではない。日本の多くの地域で見るような一軒家が並んでいる。新しい建物もあれば古い建物もある。家の間隔は広く、雑草が生い茂っている。一行は不審者のように、きょろきょろしながら歩いていった。
蔦と汚れと錆に覆われたトタン外壁の平屋を見つけた。窓ガラスは割れており、中は吹きこんだ風のせいで土が薄く積もっている。壁にはいくつか穴が空いており、容易に侵入できそうだった。
「ここはどうだい?」
魚屋猫のお杉に、師匠は顔を向ける。
「よさそうですね。ここにしましょう」
師匠は廃屋に侵入して空猫をそっと下ろす。そして背中のリュックサックを足下に置いて、中から白いビニール袋を取り出した。
「キャットフードの袋とミネラルウォーターだ。蓋を開けておくから利用してくれ。バスタオルも置いておく。寝床になるだろう。他に必要そうなものはあるかい?」
「大丈夫ですよ。私たちは化け猫ですから」
魚屋猫のお杉は笑みを作る。空猫は、眠そうな顔を上げて師匠に向ける。
「お師匠さん」
「なんだい?」
「書けるようになってください。芭蕉さんは、自分の創作をしながら、この旅をまっとうしたんでしょう」
師匠はすぐには答えなかった。しばらく無言で空猫を見つめたあと、覚悟したように口を開いた。
「ああ、約束するよ。それが私がやるべき快癒祈願だな」
空猫は安心したように、まどろみはじめた。
清風猫が空猫に付き添い、魚屋猫のお杉が師匠の見送りをした。
「空の回復も、お師匠さんの回復も、両方上手くいくことを願っています」
お杉が真剣な顔で言う。
「空を安心させてやらないといけないな」
師匠は軽く答えて、背を向けて歩きだした。空猫は壁の隙間から、去りゆく師匠の背中を、じっとながめた。
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