第12話 越後路
次の日、ふたたび電車に乗った。空猫はエコバッグの中に隠れて車内に入る。師匠は他の乗客から見えない位置に座り、空猫が顔を出しても大丈夫なようにしてくれた。
南へと向かう電車に一時間以上揺られた。出雲崎駅で下車した。師匠の横に並んで、空猫はてくてくと歩きだす。
一時間ほど道をたどり、海岸線までたどり着いた。広がる海の先に、微かに島が見える。空猫と師匠は海風を浴びている。師匠は緑色の表紙の手帳と、ボールペンを取り出した。そして、いつものように俳句を声に出して書きつけた。
「荒海や佐渡によこたふ天河」
本にあった俳句だ。これは師匠が作ったものではない。『おくのほそ道』の作者、松尾芭蕉が詠んだものだ。これまで、行く先々で手帳に書いてきたのは、師匠の作品ではなく俳句の神様のものだった。師匠はこの旅の中で、一つも自分の作品を生み出していない。
無言で考えたあと、意を決して口を開く。これは二人の関係を大きく変えることだと自覚して声に出す。
「お師匠さんは、なぜ自分の俳句ではなく、芭蕉さんの俳句を手帳に書くんですか?」
自分で書くことの喜びを知り、それを仕事にまでしていた人が、なぜ自分の作品を作るのではなく、他人の作品をなぞるのか。それが軽い理由のわけがない。人生をねじ曲げるほどの重い理由なのは想像がつく。
師匠は両手を下げ、遥か遠くを見た。しばらくぼんやりと見続けたあと声を返してくれた。
「書けなくなったからね」
ようやく肩の荷が下りた。声にはそうした感情がにじんでいる。
「なぜですか?」
空猫の問いに、師匠はわずかに笑みを漏らす。
「私はね、畜生なんだ」
「どういうことなんですか?」
「長い話になるからね」
「聞かせてください」
「面白くない話だよ」
「知りたいんですよ。お師匠さんのことを」
「いやだねえ、猫は好奇心旺盛で」
茶化してきたが空猫は譲らなかった。師匠はあきらめたように頬をゆるめる。そして歩いた道を引き返しながら、ぽつぽつと話しはじめた。
「私は結婚していてね。五年ほど前に、子供が生まれたんだよ。女の子だったね。妻によく似ていたよ」
左手に海が広がる坂を、師匠と空猫は上っていく。海の水を含んだ重い風が、二人のあいだを吹き抜けていった。
「妻は一年間産休を取って、子供を保育園に預けて仕事に復帰した。保育園の送りと迎えは交代にやったよ。保育園には時間いっぱい預けたから、お金はけっこうかかったなあ。家事に育児。忙しかったのに、私は家で原稿を書いていた。妻が大変なのに、自分のやりたいことに時間を割いていた。
私も妻も同じ職場で同じ仕事をしている。それなのに、私は妻に子供を押し付けていたんだ。頭がおかしいとしか言いようがないよね。子供の相手は、あまりできなかったなあ。子供はね、かわいかったよ。それでも書くことを優先した。私は、業の深い畜生だったんだよ」
師匠は、少し話しては黙りこむ。そうしたことを繰り返しながら、ゆっくりと語る。顔には薄い笑みが浮かんでいる。自虐なのか反省なのか分からない。懐かしんでいるようにも見える。かすみほどのわずかな感情。一人と一匹は海から遠ざかりながら、山のあいだの車道の脇を進んでいく。
「子供が三歳のときだった。土曜日だったね。夫婦ともに休日だった。妻がね、娘を連れて公園に行くと言ったんだよ。一緒に行くかって聞かれてね、原稿を書きたいから家にいると答えたんだ。
物語ってのは、筆が勝手に進む時期があるからね。登場人物の配置が終わり、どんどんと動きだすタイミング。ちょうど、そういうときだったんだよ。だから断った。いや、筆が進んでいなくても断ったと思う。私は畜生だからね。目の前の家族よりも、目に見えぬ世界の方が、大切だと感じる生き物だったんだ」
師匠と空猫は、駅への道をたどっていく。ときおり山の中に畑が見えた。師匠は、まるで砂利でできた山を一歩一歩登るように、言葉を慎重に選んで声にした。
「原稿が上手く書けてね、私は興奮して楽しんでいた。そうしたら電話が鳴って、なんだろうと思って取ったんだ。その瞬間まで、私はまったく知らなかった。電話で初めて、交通事故があったことを知ったんだ。
公園に行く途中の歩道にはね、ガードレールがなかったんだよ。その場所で子供が飛び出して、妻は慌てて追いかけた。そこに車がやって来たんだ。
私が一緒にいて、子供の手を握っていれば、そんなことはなかったかもしれない。子供が飛び出したときに、すぐに追いついて引き戻せたかもしれない。全ては想像の中の世界だよ。
現実に無数の虚構を重ねることはできる。でも、現実を変えることはできない。私の創造の力は何の役にも立たない。私は、ただ妄想しているだけの、畜生なんだと分かったんだよ。夢想の世界に住んでいる住人に過ぎないんだと気づいたんだよ」
言葉は重い。口から出るとともに、鉛のように地面に落ちていく。師匠と空猫は、のろのろと道をたどる。空猫は何度も瞬きをして、目を乾かそうとした。
「葬式をして、いろいろとあってね、一ヶ月ぐらい経った。会社に行こうとしたけどできなかった。原稿を書こうとしたけど一文字も書けなかった。
後悔がね、押し寄せてくるんだ。自分の愚かさにね、笑いがこみ上げてくるんだ。それでも創作したいという欲望だけは薄れなかった。業だよ。人間ってのは、理性を一つずつ剥ぎ取っていき、残った不合理な部分が本性なんだよ。私の心の核は、書きたいという衝動だった。
後悔と欲望が渦を巻いた。暗い影が忍び寄ってきてね、耐えられないのなら現実から逃げればいいって言うんだよ。そのとおりだと思い、マンションの手すりから飛び降りようとしたことが何度かあった。
過去を思い出さないために、妻と子の持ち物を段ボール箱に詰めて、押し入れに押しこんだ。目の前から、二人の痕跡を消そうとした。現実から目を逸らし続けた。そのあいだも書きたいという欲望はくすぶり続けた。
創作は無理だったから、子供の頃にやっていたように、単語を並べてその説明を辞書で引いて書いていった。ノートが少しずつ増えていったよ。自分の言葉でなくても書き続けずにはいられなかった。そこまで来ると化け物だね。そうしているうちに、自分のお尻に尻尾が見えることがあると気がついた。いつも見えるわけじゃない。それでも確かに生えている。ああ、自分は獣になったんだと実感した」
殺生石のところで、清風猫の屋敷で、大石田で、尻尾を見たことを空猫は思い出す。
「自分の尻尾について調べたよ。どうやら猫科の動物の尻尾らしい。自分は猫になったと思い、久し振りに外に出て、町の中をぶらついてみたんだ。猫って生き物は、徘徊するものだからね。
歩いていると猫を見つけたから写真を撮った。今になって考えれば、なぜそんなことをしたのか分からない。自分が猫科の動物になるのなら、死んだ妻子だって猫になっているかもしれないと思ったんだ。だから猫の写真を撮りながら、二人の痕跡を探した。もしかして姿を変えたミオやミアかもしれない。そんなことがあるわけがないのにね。何かにすがりたかったんだろう。
猫の鳴き声を多く聞いたよ。そうしているうちに、猫の中に言葉を話す化け猫が紛れこんでいることに気がついた。まあ、気が触れていたんだろうね。そういう精神状態だったから。でも、本当に聞こえたんだ。
私はそっと耳を傾けた。化け猫たちはね、人間が聞き耳を立てているなんて思ってもいなかった。だから彼らの雑談をつぶさに聞いた。そして化け猫たちが集まる廃屋があると知ったんだ。
すぐには訪問しなかったよ。なかなか決心がつかなくてね。きっかけは出版社からの連絡だった。予定の原稿が上がってこない。取り引きは終わりにするというね。
それほど多く売れていたわけではない。それだけの縁だったというわけさ。私は求められていたわけではない。そのことがよく分かったんだ。そして、糸がふっつりと切れたような気持ちになった。
そういえば、化け猫屋敷の話を聞いたなと思い出した。そこを訪問して、猫になった妻子がいないか探してみようと思った。
いるわけがないよな。ミオもミアも、尻尾が生えるような人生を送っていなかったんだから。仕方がないから、化け猫たちに俳句の話をした。猫の頭には、ちょうどよい長さだと思ったからね。
化け猫たちは、私を師匠だと認めてくれた。だけど本当は違うんだ。私が、化け猫たちに話を聞いてもらっていたんだ。彼らと話すことで、私に取り憑いていた絶望を振り払おうとしていたんだ。
あばら屋に通うようになり一年が経った頃、旅に出ることを決めた。長い旅を経て、生まれ変わろうと思った。先人の足跡をたどり、その力を借りようとした。書けるようになることで先に進もうと思った。あとは、空が知っているとおりだ。芭蕉さんの旅路をたどり、彼の俳句を手帳に書いていった」
師匠と空猫は、山のあいだの道を進んでいく。師匠が腰を屈めた。そして、空猫をひょいとつかんで抱え上げた。
「お前が私を助けてくれたんだね。ありがとう。お前の名前がソラだと聞いたとき、私を助けてくれる運命の相手だと思ったよ」
師匠は空猫を抱えたまま背をなでてくる。
「書けるようになりそうですか?」
見上げながら空猫は問う。
「分からないね」
「書けるようになるとよいですね」
「そうだね」
一人と一匹は、道をたどり、駅まで歩き続けた。
数日旅を重ねた。そのあいだ、徐々に空猫の調子は悪くなっていった。
金沢に着いて宿に泊まった。二階の和室だった。師匠は座布団に空猫を寝かせて、上から布団をかけた。
「そろそろ旅をやめるべきかもしれないな」
「私に構わず、続けてください」
「しかし、そういうわけにもいかないだろう」
やり取りをしていると、窓の向こうでこつこつと音がした。師匠が立ち、窓に向かう。闇夜の中に、室内の明かりで照らされたコガネムシがいる。空猫の頭から離れて、外に行っていたのだろう。師匠は掛け金を外して窓を少し開けた。コガネムシが羽根を震わせて中に入ってくる。それとともに、にゃーという声が聞こえた。
「ああ、お客さんを連れてきたのか」
師匠は窓をがらりと開ける。魚屋猫のお杉と清風猫が、眼下の地面にいた。彼らは木を伝って部屋に入ってきた。
「空が倒れたと連絡を受けましてね」
魚屋猫のお杉が、コガネムシをちょっと見て言う。
「戦うための道具を渡した手前もあるのでなあ」
梅干しのような清風猫が、済まなさそうに頭を下げた。
「あんたら二人は、化け猫としての歴が長いんだろう。空を何とかしてやりたいんだがねえ。知恵を貸して欲しいんだ」
師匠はあぐらをかき、困り顔で腕を組んでいる。
「人間にできることはないですねえ」
魚屋猫のお杉は、申し訳なさそうに言う。
「そうかい。どうしたものか――」
師匠は嘆息を漏らす。
「できることが、あるやもしれませんぞ」
清風猫が姿勢を正す。空猫を囲む一同は、この場で最も高齢の猫に、顔を向けた。
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