第11話 少年
翌日になった。ホテルを出たあと駅に向かった。閑散とした場所に平屋の駅がある。空猫は師匠が持つエコバッグの中に潜りこんだ。
電車が来た。車内は空いている。師匠は無人のボックス席に座り、空猫が入ったエコバッグを膝の上に置いた。
「まあ寝ていな。今日は新潟まで行って、そこで旅館かホテルに泊まろう。なに、旅はもう終盤戦だ。ある程度目処がついている。それほど、出て行く金を切り詰める必要はない。安心しな」
何だか申し訳ない。師匠を助けるために付いてきたはずなのに、師匠の足を引っ張っている。
空猫は電車に揺られ、うとうとする。師匠が背中をゆっくりなでる。空猫は夢の世界に落ちていく。触れ合っている場所から、師匠の人生が流れこんできた。師匠の死の影と交わったせいだ。空猫と師匠のあいだにある心の垣根が取り払われた。
それは夜の街だった。
焼き肉屋がある。スナックがある。小料理屋があり、居酒屋がある。
夜に光を放つ看板が立ち並ぶ細い路地。足下はいつも濡れている。水を打つからだけでない。酔客たちの吐瀉物を洗い流すからだ。ここは水に覆われていた。光が鈍く反射していた。その界隈は、いつもじめじめしていた。そして嫌なにおいが漂っていた。
一階が飲み屋で、二階が家。深夜まで営業が続くため、就寝時間はいつも遅くなる。親たちが店を切り盛りしているあいだ、幼い少年が時間を潰すのは本だった。区立図書館で借りた本を少しずつ読み進める。本は子守であり、睡眠薬だった。読んでいるうちに眠くなり、布団に潜りこむ。酔っ払いの笑い声がいつしか遠のき消えていく。小学二年生の子供は、軽い寝息を立てはじめる。
これは現実なのか夢なのか。
空猫は、飲み屋の二階に立っていた。空猫はとことこと歩き、少年の枕の近くに座る。手を伸ばして顔に触れようとする。ひょいと、すり抜けた。過去の記憶なのだろう。自分はたまたまその場に居合わせた、幽霊のような存在になっている。
少年は若い頃の師匠だ。空猫は丸くなり、小さな子供の寝顔をながめた。
――時は、鞠がはずむように過ぎていく。
少年は中学生になった。彼は店の給仕を手伝っている。空猫はカウンターの招き猫の横に座る。透けた体。守護霊のような存在。客が入って来るたびに、招き猫の手真似をする。店の景色に溶けこみながら、空猫は少年の仕事ぶりを観察する。
店は酒と煙草のにおいで満ちていた。愚痴と、怒鳴り声と、笑い声が響いている。そのあいだを、ビール瓶と皿を持って少年は行き来する。彼は注文の合間に、カウンターの端で文字を追う。古本屋で買ってきた本だ。図書館の本を店で読むと、びしょびしょにしてしまう。少年は店を手伝い、もらった小遣いで本を買った。魚が餌を求めるように本の海を泳ぎ、求める獲物を捕まえていった。
空猫は、少年の動きを目で追う。少年がいつも座る端の席にはノートと鉛筆がある。空猫は立ち上がり、カウンターの上を歩く。ノートにはメモが書いてある。つたない文字が無数にあった。空猫は、ひらがなを拾って内容を読み取る。
書いてあるのは少年が見聞きしたことだった。店で交わされる大人たちの会話。本で読んだ文章。そこで触れた知らない言葉や表現を、あとで辞書で調べるために書き記している。
店が閉まる時間になった。少年はあとかたづけを手伝い、階段を上っていく。小さな机の前に座り、辞書を引いて言葉の意味を写していく。その作業が終わったあと、ノートを逆から開き、鉛筆を手に取った。
ノートは、表と裏の二つの顔を持っていた。表には集めた言葉を、裏には少年が考えた物語を綴っている。言葉や表現を重ね、世界を美しく飾り、異なる太陽で照らして、幻の影絵を作り出す。
少年は幼いながらも創作者だった。彼は誰に見せるでもない物語を書き、新しい景色を世の中に付け加えていった。彼が住む暗くじめじめした世界に、光あふれる薄膜を被せていった。
――祭りの夜店のかざぐるま。季節はくるくると回っていく。
高校二年のときである。放課後の教室で、少年は担任の教師に話しかけられた。
「本が好きなのか?」
中年の男性教師。まあ、と曖昧に少年は答える。
空猫は知っている。少年は教室では誰とも会話をしていない。ひたすら本を読んでいる。学校の中に友人と呼べる相手はいない。教師なら心配する。
「いろんな種類の本を読んでいるな」
教師は、少年の手元にある本をちらりと見た。古本屋で買ったくたびれた本だ。言葉が好きなんですと、少年は距離を置くように答えた。
「好きなジャンルはあるのか?」
空猫は知っている。少年はジャンルを選んでいるわけではない。鉱物好きの子供が、山や河原で石を集めるように、本という鉱脈から表現を拾っている。それらを並べることで、何かを作ろうと試行錯誤している。
「書くのか?」
教師の言葉に、少年は困った顔をした。理由は分かる。その質問の先にあるのは、見せて欲しいという依頼だ。しかし少年は他人に見せるべきものを持っていない。ノートの裏に殴り書きしたものしかない。彼の創作活動は、純粋に自分のためだけのものだった。他人に、それも大人に見せようなどとは思っていなかった。
少年が黙ったまま居心地悪そうにしていると教師は微笑んだ。
「読む方の話をしよう。俺は国語教師だから古典を薦めてみる」
そういえば担任は国語の教師だった。少年の古文や漢文の成績は、現代文と比べるとあまりよくなかった。家での勉強時間の少なさが原因だろう。
「入り口としては、あまり古すぎない方がいい。江戸時代ぐらいがいいかな。平安時代は、さすがに離れすぎているからな」
教師は親しげに話し続ける。
「それと長すぎない方がいい。たとえば南総里見八犬伝は九十八巻もあるからな。あと、現代語訳や解説がたくさん出ているものがいい。そうしたものは有名で興味を持ちやすい」
少年は、口を閉じたまま教師の話を聞いている。
「学校の図書館にも、何種類かあるはずだ」
「図書館の本は、汚すと悪いから借りないんです。店を手伝いながら読むんで。うち、飲み屋なんですよ」
突き放すような物言いだが、声には興味がにじんでいる。
「じゃあ、一冊進呈するよ」
その言葉に、少年は驚いた。
「どんな本なんですか?」
そこまでして薦める本は何だろうと思ったようだ。
「ある男が、五百年ほど前の先人に思いを馳せて、足跡をたどる旅をする話だ。江戸を出て太平洋側から東北に向かい、日本海側をぐるりと回るんだ。行きは明るい話で、帰りは暗い話になる。文学的に極めて優れた作品だ」
暗い話と聞いて、少年は警戒する。あまり重い話だと、接客に影響してしまう。
「大丈夫だ。同行者が途中で病気になって、一人で旅を続けるんだ。最後に再会して、ハッピーエンドで終わる」
「先生、それ、ネタバレですよ」
「三百年以上前の古典だしな」
教師は笑ったあと、職員室に本を取りに行き戻ってきた。あらかじめ少年に渡すために用意していたものだ。『おくのほそ道』という本だった。教師の話では、松尾芭蕉という人が、曾良という門弟とともに旅をする。後半、曾良は病に倒れ、芭蕉は一人で終着点を目指すそうだ。
その日の夜から少年は、もらった本を読みはじめた。何やら漢字の多い、難しそうな本だった。少年はノートにメモを取りながら読み進める。空猫は漢字が読めないから何を書いているのか分からない。どうせ読めないから、部屋の隅でひたすら待った。
数日経ち、本を読み終えた少年は、天井をわずかに見上げた。
「何冊か、お薦めの本を聞いてみよう」
翌日、学校で少年が声をかけると、教師は数冊の本を紹介してくれた。その日から少年が集める言葉は、過去の世界にも広がっていった。
――足踏みミシンのように、時間ははずみをつけて回り続ける。
少年は成長した。高校を卒業して上京する。目的があったわけではない。家を出て一人暮らしをしたかった。より広い世界を見てみたいという気持ちもあった。地域、時代、多くの景色があることを本から学んだ。
スーパーでアルバイトをしながらアパートで暮らした。暇な時間ができれば、映画を観たり博物館に行ったりした。皇居、国会図書館、東京タワー。知らない場所を巡って見聞を広めた。もちろん本も読んでいる。書くことも続けている。
まだ若い青年の横顔を見ながら、空猫はてくてくと歩く。透明な存在。寄り添う霊魂。空猫は、若者とともに人生を歩む。春が去り、夏が来る。秋が訪れ、冬になる。歳月が瞬く間に過ぎていった。
三十代になった。何度か職を変わったあと、出版社に潜りこんだ。グラビアページがあり、ざらざらした紙に記事が載る雑誌を担当する。出版社の衰退ははじまっていた。部数の階段は、毎年くだっている。売り上げの減少は、予算の削減を招いた。わずか二人になった編集部。自分と編集長しかいない部屋で仕事をした。
外部に記事の依頼を出す金を渋り、編集者が誌面を埋めることも多かった。男は文章を昔から書いていた。だから書くことは苦ではなかった。鼻歌交じりにキーボードで文字を入力していると、いい文だな、と編集長から言われた。
「お前、小説を書いて、どこかに投稿しろ。短編でいい。あまりエンタメ寄りではないところがいいだろう。身近な話を書くんだ。ちょっとしたすれ違いの話がいいだろう。お前は観察眼がある。人の動きや話を丁寧に描写すればいい」
青年がぽかんとすると、編集長は頭をかいた。
「俺は自分では書けないが、目利きなことには自信がある。どうせここは泥船だ。いずれ沈む。その前の就職活動だと思ってやれ」
はあ、と答えて、一週間で一本書いて編集長に見せた。
「駄目だな。もっとねちっこく、しつこく書け。豚骨ラーメンに背脂を入れたみたいな文章だ。こってりと濃厚に、人間のしわまで見えるように心掛けろ」
赤鉛筆で真っ赤にされて突き返された。書けと言ったのに、ほぼ全部駄目とはどういうことだ。男はアパートの部屋で膝を抱えて、ぶつぶつと愚痴を言う。ひっつかんだ原稿をまとめて窓から捨てようとした。何度か同じ仕草を繰り返したあと、原稿を読み直して文章をひとつひとつ直していった。
二度目の原稿を編集長に見せると、また真っ赤になって戻ってきた。
「お前は、自分の人生以上の文章を書ける人間じゃない。背伸びをするな」
アパートの部屋に戻った男は、原稿を放り出す。しばらく床でふて寝したあと、紙を拾ってページ順に並べた。腹は立つが、言っていることは分かる。ぶつぶつとつぶやいたあと、こつこつと文章を修正していった。
「人間が書けているな。そこさえ押さえておけば、あとは何を書いてもいい」
三度目は、ほとんど赤はなかった。男は印刷した小説に、あらすじを添えて郵送する。その小説は、小さな雑誌の賞をもらった。
連絡を受けたあと、男は編集長に報告した。渋面の多い編集長は、珍しく満面の笑みを見せた。
「よかったじゃねえか収入源が増えて。ただなあ、今はペンでは食えない時代だからな。知り合いのベンチャー企業のウェブメディアで編集者を探している。雑誌の編集経験があり、自身でも原稿を書き、雑誌の賞ももらっている。面接でよほどのボロを出さなければ、そこに転職できると思う。これから書き続けるにしても、安定した職があった方がいいからな」
編集長は、男の将来について、あれこれと心配してくれた。
「編集長は、どうするんですか?」
泥船と言った編集長自身は、どうするのかと思った。編集長は首を傾け、肩を伸ばす。いつも肩こりを抱えているのは、職業病のようなものだ。
「俺は、この会社の死に水を取るよ。うちの社長、学生時代の友人なんだよ。俺がいなくなったら寂しがるからな」
編集長は男に、頑張れよと言った。
――人生には山の時期がある。その後に谷が控えていようとも。
転職した。何冊か本も出た。人を描くことは肝に銘じ続けた。その上で、新しい舞台や職業をテーマにして原稿を書いた。
新しい職場で女性と知り合った。名前はミオ。空猫は、その名前が、師匠の妻の名前だと思い出す。カフェ、カラオケ、テーマパーク、二人は徐々に同じ時間を過ごしだす。空猫は、少しずつ年を取っていく男の姿を、横を歩いてながめ続ける。
男とミオは結婚した。仕事も人生も順調だった。二人は家族で住むために、少し広い部屋を借りた。壁はすぐに本で埋まった。家にいる時間は、たいてい本を読むか、文章を書くかした。空猫は、まるで自分のようだなと思った。
一人の人生をゆっくりとたどる。
男は自宅の仕事机に向かい、本を読んでいた。その本は、師匠のリュックサックに入っていた『おくのほそ道』だった。空猫は棚の上に乗り、男の姿を見下ろした。
扉が開き、部屋に女性が入って来た。
「ペンネームの由来の本ね」
「そうだよ」
「待男馳男。芭蕉の仮名表記が、ハセヲって教えてくれたよね」
「ああ、憧れるよね、文章を書く人間としては。彼は本物の創作者だ」
「うん。応援しているよ」
男は本にしおりをはさんだ。閉じる前に、空猫は机に下りて、ページをのぞいた。高校時代に、教師が師匠に渡した本だった。
大きな文字の文章と、小さな文字による説明の文章。ひらがなは少なく、漢字が多かった。空猫が読める文字は少ない。ただ、大きな文字には、振り仮名が振ってあった。
――荒海や佐渡によこたふ天河。
七夕の句だ。愛する人と会うことを願う人がいる。その願いを引き裂く隔たりがある。
なぜ、そのページを目撃したのか分からなかった。
体がゆっくりと持ち上がり、運ばれていく。人々のざわめきが聞こえてきた――。
とんとんと、頭をコガネムシに叩かれる。電車を降りたのが分かった。
「空ちゃん、今日はこの町に泊まるそうだよ」
頭がぼんやりしている。師匠の記憶を夢として見た。夢の中で、師匠はふつうの人だった。化け猫たちと会話する、人生を踏み外した人間ではなかった。
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