第10話 少女

 心の底にゆらりと沈んでいく。その底をすとんと抜けて、さらにその先へと落下する。深い深い闇のトンネル。時間と空間を越えた先の先。

 空猫は、闇の中で地面に着地した。そして暗黒の坂道をくだりだす。ずっと歩いていると前方に光を見つけた。さらに進んでいくと何やら違う景色が見えてきた。

 光の穴があったので、ひょいと覗きこむ。見覚えがある。どうやらこれは古い記憶のようだ。ああ、過去へと時間をさかのぼったらしい。姐さんが言っていた前世の記憶。空猫は、化け猫になる前に、自分が何者だったのかを垣間見る――。


 山に囲まれた土地。夏を迎えつつある木々の葉のきらめき。斜面に続くひび割れたコンクリートの階段を、九歳の少女が駆け上がる。

 風が頬を過ぎていく。はずむ息は機関車のようだ。上りきった先に、運動場の景色が広がった。水たまりが残り、空の色を映している。少女はぬかるみを避けて校舎に向かった。

 木造校舎の小学校。木でできた靴箱。赤いランドセルの少女は、簀の子の上で上靴に履き替える。彼女は、そのまま休まず廊下を走る。ガチャガチャとはずむランドセル。追い越した友人たちが手を振って挨拶してきた。少女は軽く振り向いて挨拶を返す。くるくると向きを変える様子は、勢いのついたコマのようだった。

 教室に到着した。背中からぐるりと回して、机の上にランドセルを置いた。立ったままランドセルから本を出す。学校の図書館で借りた小説だ。しおりの位置を確かめて、読みかけのページを開く。少し焼けたクリーム色の紙。わずかな紙のにおい。文字を目で追う。舞台の幕を開けるように、本の先に情景が広がった。

 周囲の音が消えていく。手で椅子を動かして席に着いた。手探りでランドセルを机の横にかける。もう教室は見えていない。落ちる、溶ける、物語の世界に入っていく。体は学校にいるのに、心は広い草原を駆けていた。存在しない仲間たちと語らいあっていた。

「ねえ空豆、先生が来るよ」

 後ろの席から肩を叩かれて、はっとする。魔法が解けた。教室と重なりあっていた冒険の国が遠ざかる。世界を覆い隠していた景色が霧散する。

 少女は自分の本当の名前を思い出す。空豆。姉は小さくてかわいい赤ちゃんだったから、小豆と名付けられた。妹は、その下の子だから、同じ豆の字を与えられた。その話を聞いたとき、なんて適当に名前をつけたんだと憤った。

 生徒たちが慌ただしく席に着く。廊下側の窓ガラスに人の影が見える。扉が開き、先生が入って来た。起立、礼、おはようございます。ベールをはいだ日常がはじまった。


 ――現実の時間を物語の糖衣で覆う。うつつと夢の境は限りなく薄くなる。


 中学生になった。教室にいる生徒たちの姿が変わる。男子は白いシャツに黒いズボン。女子は白いセーラー服に紺のスカート。みんな少しだけ背が高くなっている。熱気を帯びた空気がわずらわしい。肌を通り抜ける湿気が、けだるさを誘う。蝉の声が壊れたラジオのように鳴っていた。窓の向こうの青は鮮やかで、かき氷を積み上げたように雲が天へと伸びていた。

 芸能人の話。部活の話。恋愛の話。放課後の遊びの話。いくつかの会話のグループができていた。級友たちの声を音楽のように聞きながら、空豆は椅子に座り、机に向かっていた。

 目の前には原稿用紙があった。右手には鉛筆があった。頭の中の世界を、言葉にしてすくい上げようとする。心の小箱に収めた表現の破片を、寄せ木細工のように組み合わせて紙に写していく。

 読む楽しみのあとに、書く楽しみが来た。世界には言の葉が重なり積もっている。その肥沃な大地から、新しい木々が生まれて来ることを知った。あわよくば自分も大樹を育てられるのではと夢想した。

「ねえ、空豆。何を書いているの?」

 後ろの席から肩を叩かれて、ひゃっと驚く。どっ、どっ、どっ、どっ。恥ずかしさで心臓が鳴った。苦笑を返して、机に広げていた原稿を素早く隠す。学校で書いたら、こうなるに決まっているのに、どうしてこんなことをしたのだろう。家で密かに書いていればよかったのにと反省する。でも、書きたいという気持ちを抑えきれなかった。ずっと書いていたいと思った。


 ――たとえ辛い時間を過ごしても、私は紙と紙のあいだに、幸せのひと時を見いだせる。


 高校を卒業して会社に入った。船を造る会社の、お金の計算をする部署である。空豆は、仕事をこなしながら社会に適応しようとする。一人の社会人として現実の中で生きていこうとする。カチコチ、カチコチ、時計は回る。その針のように、求められるリズムを正確に奏でようとする。

 並んだ机。頭上で回る扇風機。空豆は制服のシャツとスカートに身を包んでいる。回ってきた書類の数字を確かめる。そして電卓で計算して新しい紙に書き写す。数字の羅列で世界は回っていた。自分は機械だと言い聞かせて、目の前に浮かんでくる景色を排除しようとする。夢の世界に溺れてはいけないと自身を戒める。

 定められた時間に出社し、求められた仕事をこなす。ほつれた布のような姿になって退社する。残りの時間も自由というわけではない。食事、洗濯、掃除、風呂、就寝、やるべきことは列を作って待っている。永遠に続くドミノ倒し。それらをさばくだけで一日が終わってしまう。現実が、大きな壁のように立ちはだかり、視界を塞ぐ。

 書きたい。書く時間が欲しい。日常を覆い隠す皮膜が欲しい。むき出しの日々に触れると指先が痛かった。体温を奪われて、死へと導かれるようだった。柔らかい夢が欲しい。暖かい幻が欲しい。自分で自分に魔法をかけたい。そのための創作。削るべき時間はどれかと考える。睡眠。自らの肉を切り売りして、朝までの時計の針を買う。空豆は、その針を組み立てて、空想のお城を作ろうとした。

「ねえ、空豆。仕事をやる気がないのなら、会社を辞めれば?」

 ギロチンのような言葉が、まどろみを断ち切った。

 仕事場の机の上に突っ伏していた。書類はしわくちゃになり、倒した茶碗の冷えたお茶で濡れていた。同僚の冷たい目。突き放すような部屋の空気。取り繕う仕草をする。愛嬌を振りまく。職場は日常に戻る。一人だけ置いてけぼりにされる。自分が嫌になった。道化を演じているようで悲しくなった。

 どちらかを、あきらめなければならない。その日が近いことを感じた。周りの人たちは正常な人間だった。自分は人間未満の何かだった。人間になるのか、人間ではない何者かになるのか。周囲から脱落すれば、人として見てもらえない。人として生きれば、自分が死んでしまう。心の中の糸が、ふっつりと切れた気がした。

 書きたいと思った。書きたいと願った。書きたいと呪った。

 そうしたとき、一人の男性が現れた。彼は一本の蜘蛛の糸を空豆に垂らした。空豆はその糸を握った。その先に何があるのかを考えずに。他人の人生を壊すことを想像せずに。そして空豆は、畜生に落ちる運命を歩みだした――。


「空ちゃん、空ちゃん」

 誰かが自分を呼んでいる。

 目を開けた。師匠とコガネムシがいた。夢を見ていたようだ。どれくらい長く寝ていたのか分からない。

「よかった空ちゃん、ようやく目を覚ましたよ。あんた、急に倒れるからね。どうしようと思って、お師匠さんを呼びに行ったのさ。言葉が通じないから大変だったよ。ぶーんと飛んで、猫の顔を描いて、こっちこっちと導いて、連れてきたんだよ」

「ありがとうございます。姐さん」

 先ほどまで見ていた夢が、すうっと記憶から消えていく。眠りから覚めたときには、よくあることだ。はっきりと見ていた夢が、ジグソーパズルが欠けるように消えてしまう。

「大丈夫かい。とりあえず抱っこしてやろう」

 師匠がひょいと持ち上げる。空猫は断ろうとしたが、体が妙に重かった。

「空ちゃん、あまり大丈夫そうじゃないね。魚屋猫のお杉さんと、清風さん宛てに、あいつと戦って傷ついたと伝えておくよ」

 コガネムシが羽根を鳴らすと、近くの茂みが動いた。口元が赤いバッタだ。その容姿から血吸いバッタの異名を取るクビキリギスが集まってきた。

「あんたたち、伝言を頼むよ」

 コガネムシが指揮棒を振るうように前足を振る。内容を告げると、クビキリギスたちはうなずいて、草むらへと消えていった。

 空猫の体調が優れなかったため、目の前のホテルで部屋を取り、一晩休むことにした。空猫は、宿代を使わせてしまって面目ないと言った。師匠は、いいってことよと答え、部屋の外に出て行った。

「大丈夫かい、空ちゃん?」

 コガネムシが、頭の上でもぞもぞと動く。

「少し横になっていれば大丈夫ですよ」

「死の穢れに、思いっきりぶつかっちゃったからね」

「あまり、よくないですか?」

「よくないね」

 空猫は、ぐったりしたまま時間を過ごした。

 師匠が帰ってきた。手にはコンビニのビニール袋を提げている。

「キャットフードを買ってきた。食うかい?」

「わざわざホテルの外まで行ったんですか?」

「ああ。ちょいと用があったからね」

 用があったと言っている癖に、キャットフードと紙皿以外は、何もビニール袋に入っていない。

「ありがとうございます」

 師匠は軽く笑みを浮かべて、紙皿にキャットフードを盛って空猫に差し出した。空猫はもそもそと食べはじめる。

 空猫の横に座り、師匠はスマートフォンで地図の確認をする。緑色の手帳を出して、ぶつぶつ言いながら今後の旅程を書き出していく。

 酒田に戻り、新潟に行き、出雲崎に寄り、一振に向かう。その後、富山湾に面した新湊を経由して金沢に至る、五百キロメートルほどの行程だ。師匠はちらりと空猫を見る。体調を心配しているのが分かる。

「電車を使うとするか」

 ぼそりと師匠は言う。できれば電車は使いたくなかったのだろう。歩くことが最善で、ヒッチハイクが次善。いずれも自分の力で、目的地までの距離を稼ぐ方法だ。電車は何も考えなくても目的地にたどり着く。主観の問題だ。どこで線を引くかは、その人の気持ち次第だ。

「大丈夫です。徒歩と車で行きましょう」

「いいんだよ。それよりも旅自体をやめた方がいいかもしれないね。体が何より大事だからね」

 空猫は首を横に振る。

「最後までお供しますよ」

 病人を置いていく選択肢を出さないのは師匠の優しさだ。空猫が動けなくなれば師匠は旅をやめてしまうだろう。

 師匠は空猫の背中をそっとなでた。コガネムシも顔を出して空猫の頭をさすった。空猫はキャットフードを食べたあと部屋の隅で眠りに落ちた。

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