第9話 象潟
幸いなことに大石田で暗い影には追いつかれなかった。
師匠はヒッチハイクの車を停めることに成功した。師匠は助手席に座り、空猫は膝の上に乗る。コガネムシは、空猫の頭の毛に潜りこむ。人と猫と虫は、次の目的地へと出発した。
羽黒山、月山、湯殿山を巡った。野宿を経て、鶴岡に行き、酒田に至った。とうとう日本海にたどり着いた。
「暑き日を海にいれたり最上川」
海を臨みながら師匠は詠んだ。師匠は最上川が好きだなあと空猫は思った。
「今日は宿を取ろう」
「それはよいことです。ゆっくりと休めます」
「お前さんは、私よりも体力があるじゃないか」
「猫は本来、休むのが好きなんですよ」
「そりゃあ、そうだねえ」
町に入り宿を取り、部屋に落ち着いた。空猫はいつものように、エコバッグに潜伏して館内に侵入した。虫の知らせに備えて、窓を少し開けておいてもらった。
「それじゃあ、風呂に行ってくるよ」
「行ってらっしゃいませ」
浴衣に着替えた師匠を送り出したあと、空猫は部屋を一周して結界を張った。カリカリ、カリカリ。窓の方で音が聞こえる。近寄るとムカデの姿が見えた。アルミサッシに手を入れて隙間を広げた。
「伝言がございます」
ムカデがもみ手をしながら言った。空猫の頭の上では、コガネムシがひょいと顔を出して一緒に聞いている。
「魚屋猫のお杉様からです。蘆薈庵の者たちで手分けをして調べた。おくのほそは『おくのほそ道』という江戸時代の作品だ。俳句の神様、松尾芭蕉が著した旅行記だそうだ。お師匠さんは、この作品の訪問先を回っているのだろう。日本海側の酒田に出たあと、
ふむふむと思って聞いていると、そこで言葉が途切れた。
「空ちゃん。伝言はどうやらここで途切れてしまったようだね」
頭上のコガネムシが、羽根を震わせながら言った。かなり長い伝言だったので、伝わるうちに脱落したのだ。それよりも、よくこれだけ長い文章を保持できたと驚くべきだ。
「すみませんね、私が聞いている伝言はここまでなんですよ」
ムカデは、両手を地面に突いて頭を下げる。
「まあ、仕方がないね。私たちは虫だから」
コガネムシの言葉に、ムカデは何度も点頭する。
空猫は考える。芭蕉という名は、師匠の話に出てきた。芭蕉の足跡を師匠がたどり、その芭蕉自身は西行の足跡をたどった。
「ねえ、空ちゃん。今の話で重要なことは何だと思う?」
思考を中断して、空猫は頭上に目を向ける。
「おくのほそが『おくのほそ道』という作品だったことですかね」
「それも重要だけど、今すぐ警戒しないといけないことがあるよ。象潟に行き、そこから南下するってところだよ。象潟ってのは、北にあるんじゃないのかね?」
コガネムシが言うと、ムカデがそうですよと答えた。ムカデは、この辺りが地元だそうだ。
「北に行って、南に行く。それは、どういう意味か分かるかい?」
「行って、戻って来るんですよね」
「追っ手がいる場合、どうなるかい?」
「あっ、鉢合わせになる!」
「そうだよ。大石田でも危うかった。敵との距離が縮まった。行って戻ってくると、正面衝突する可能性がある。象潟から戻るときに戦いが発生するかもしれないね。心しておくんだよ」
空猫は、首から提げたお守りに前足を触れる。象潟の帰りは危険というわけか。魚屋猫のお杉の連絡があってよかった。油断せずに対処しよう。空猫は、清風猫の言葉を思い出す。
――あれに対峙し、にっちもさっちもいかなくなったら、袋を破り、中身を取り出すとよい。
袋に何が入っているのかは知らないが、使うときが近づいている気がした。
一晩英気を養い、車を捕まえて北へと向かった。二度、車を乗り換えて、目的地に着いた。田んぼが広がる景色の中で車を降り、そこから一人と一匹で道を歩いていく。
風がざっと吹いた。草がわっと揺らぎ、師匠の髪の毛と、空猫の体の毛が、ざわっと騒いだ。陽は温かく心地よかった。ときおり吹く風が、また気持ちよかった。のどかな光景に囲まれ、心が安らぐ思いがした。
「ここが象潟か」
一面の田んぼの中に、点々と島のような丘が見える。
「潟というのはね、砂州で海から切り離された湖のことだよ。潟はね、ふつうは土砂が徐々に溜まり、浅くなり淡水化する。そして湿地となり、最後には平野になる。
象潟の往時はね、そりゃあ風光明媚な景色だったらしい。でもね、江戸時代の後期、文化元年に地震が起きて、海底が隆起して陸地になった。その後、干拓されて水田になった。だから、芭蕉さんが見た景色はもうないんだよ。でも、思い浮かべることはできる。想像の伽藍を建てて、存在しない姿を重ね合わせて、虚構の世界をながめることはできるんだ」
優しい風に吹かれながら、師匠と空猫は進んでいく。
空猫の心の目に、どこまでも広がる水面が見えた。浅い潟は鏡のように静まりかえっている。そこに浮かぶ小さな島々がリズムを作っている。島にしがみつくように生える、草や木のけなげな姿。足下に写し取られた青い空。空に浮かぶ白い雲。鳥の声が聞こえた。戯れるつがいが、鏡のような湖面に輪の模様を作る。波紋は広がり、溶けるように消えていく。
師匠は、想像の水面の上を、心の舟を漕いで渡ってゆく。空猫も師匠の横を歩き、同じ舟に乗りながら景色をながめる。
世界は重なりあっている。薄い雲母を積み重ねたようになっている。人や化け猫には想像力がある。創作は景色の彩りを変えて、心の世界を豊かにしてくれる。人が大地を耕し、橋を架け、街を作るのと同じ力を、和歌や俳句や小説は持っている。
一人と一匹は歩いている。周囲は、まだ実りのない田んぼだが、それだけの景色ではない。深い奥行きがある。消えた過去と、人が夢見た光景が、無限の鏡合わせのように、きらめいていた。
「面影、松島似通いてまた異なり、松島は笑うがごとく、象潟は恨むがごとし。寂しさに悲しみを加えて、地勢魂を悩ますに似たり」
――恨む、――寂しさ、――悲しみ。心のひだを表す言葉を口にするとき、師匠の声はわずかに震えた。
空猫は、そっと顔を上げて師匠の表情を見る。失った景色を必死に取り戻そうとしているようだ。なくなったものを懸命にすくい上げようとしているようにも見えた。
師匠は、想像力を駆使して芭蕉の世界に分け入ろうとしている。指のあいだからこぼれる光の欠片をすくい取って、何かを得ようとしている。この旅で師匠が手に入れようしているものは何なのか。妻や子供、黒い影。それらと関係があるのだろうか。
田んぼの中にある能因島に行き、そして蚶満寺を訪れる。ふたたび芭蕉さんの像があった。芭蕉さんは、師匠だけでなく、さまざまな人にとって大切な人なんだなと空猫は思った。
この場所での聖地巡礼は終わった。師匠は、戻ろうか、と言い、来た道を引き返しはじめた。
空猫は師匠と並んで歩く。広々とした景色の先に暗い気配を感じた。これまで通ってきた場所と違い、周囲は田んぼが広がっており隠れる場所がない。このまま進めば、いずれ敵と出会うことになる。
頭の上で、もぞもぞと動く気配がした。コガネムシが顔を出した。
「来たようだね」
「はい」
「あんたのお師匠さんはどうするんだい?」
「できれば戦いのあいだ、どこかに隠れていて欲しいです」
「来る前に、地図を確かめていただろう。温泉があったんじゃないかね」
「そういえば、この周りに温泉が多いと言って、お師匠さんがはしゃいでいました」
「そこに行くことを提案しな。そして、あんたはこっそりと一人で迎え撃つ。私もあんたの横にいてあげるよ」
「分かりました」
空猫は、師匠のズボンをくいくいと引き、温泉に行こうと提案した。
「おっ、いいなあ。でも、お前さんは入れないぜ」
「大丈夫です。表で待っていますから」
「何だか悪いねえ」
「遠慮しないでください」
「そうかい。じゃあ、甘えさせてもらうとするか。よし、そうと決まったら、早速移動しよう」
師匠はスマートフォンを出して地図を表示する。そして近くの温泉を探して歩きはじめた。
師匠の横に従いながら、空猫はちらちらと南を見る。ゆっくりと近づいて来ている。早く師匠を温泉に放りこんで、迎え撃たなければと思った。
一番近いのは、ホテル内で利用できる日帰りの温泉だった。住宅地を抜け、広い駐車場のある敷地に入る。師匠をホテルに押しこんだあと、ふたたび南に注意を向ける。頭の上に、ぴょこんとコガネムシが顔を出す。暗い気配は強くなっている。敵は間近まで迫っている。空猫とコガネムシは身構えた。田んぼの先に黒い犬が姿を現す。影犬だ。唇をめくり、歯をむき出しにして近づいてくる。こちらの存在に気づいたのだ。
「ふうぅ」
空猫は呼吸を整える。物の怪同士の争いも、人の創作活動も本質は同じだ。うつし世に、想像の膜を幾重にも重ねて幻を作る。空猫は、アスファルトの駐車場をにらんで声を出す。
「黒い地面に、白い線。そは城壁なり。そは迷路なり。敵を惑わし閉じこめよ」
ゆっくりと抑揚をつけて唱え、空猫は、化け猫の目を光らせる。全身全霊で迎え撃つ。
種子が発芽するように、足下から幻が立ち上がる。駐車場の白線の上に、迷路になった石垣ができた。
空猫は背中の毛を逆立たせて、うなり声を上げる。コガネムシは、羽根を振動させて威嚇する。間近まで来た影犬が、城壁の前で迷うように道を探す。空猫は、影犬を迷路に誘いこみ、閉じこめようとする。
しかし影犬は、空猫の策に乗らなかった。影犬は大きく吠え、その圧力で石垣を崩そうとする。空気が震え、雑草が小刻みに揺れる。石垣がビリビリと音を立てる。空猫は、筋肉を岩のように固めて対抗する。
駐車場の周囲の空気がざわめいた。海からの空気が、ねっとりと生臭くなる。死のにおいだ。大地をなぎ払う海嘯の力。犬の吠え声に海が呼応する。影犬は海風を波に変えて幻の城にぶつける。怒濤が空猫の城壁を破壊する。水は渦を巻き、破片を押し流す。駐車場はただの空き地に戻った。
影犬も見立てを使ってきた。空猫の戦いから学習しているのだ。敵は力を増している。最初に戦ったときは、地面の線の結界で簡単に弾き飛ばせた。それが今はどうだ。堅固な城さえ破る力を持っている。
影犬は師匠のいる建物に向かおうとする。空猫は走って黒い犬の前に立ちはだかる。体が触れた。霧の中にまぎれたように、冷気と湿気がまとわりつく。実体がない相手は、空猫の妨害を無視して背後に通り抜けた。
術も破られた。体で遮って止めることもできなかった。こうなると最後の手段だ。清風猫にもらったお守りを使うしかない。
空猫は、首から提げたお守りに前足の爪をかけて、袋を引きちぎる。中から硬貨のような丸い円盤が出てきた。そして金属音とともにアスファルトの上に転がった。
お守り袋から出てきたのは、金属を磨き上げた小さな円鏡だった。それもただの鏡ではない。照魔鏡と呼ばれる妖魔の正体を暴くものだ。師匠が殺生石のところで話していた玉藻前の正体を看破した八咫の名鏡も、こうした鏡の一つだ。
円形の鏡は、輪を描くように転がったあと、鏡面を上にして停止した。
太陽の光が、強く地面に降り注ぐ。陽光を受けた鏡は、周囲に光を放つ。空猫は、弾けるような圧力を感じた。
影犬を覆っていた闇が吹き飛び、その中にいた者が露わになる。陰鬱な顔をした師匠がいた。頬がこけ、目だけが、ぎらぎらと輝いている。服は着ておらず裸だった。体は針金のように痩せていた。お尻には尻尾があり、背後で揺れていた。指には長い爪があった。頬にはぴんと伸びたひげがあった。その姿はまるで化け猫のようだった。
追ってきていたのは師匠自身だった。獣へと変わりつつある師匠の姿。暗い感情が凝り固まった泥濘のような影。
空猫は考える。清風猫は言っていた。死の化身は、本人自身の姿を取っていることがあると。これは師匠自身の、後悔と自責の念ではないか。自らの寿命を縮める悪しき感情なのではないか。あるいは真の姿。師匠は獣になりつつあるのではないか。
空猫は地面を蹴り、半獣の師匠の喉元に噛みつく。その瞬間、空猫自身も照魔鏡の強い光に照らされた。
正体が暴かれる。自分も化け物の仲間だ。自分が何者なのかは知らないが、丸裸にされてしまう。いや、光で全て吹き飛んで消えてしまうのかもしれない。それは困るなあ。でも、師匠が無事ならいいじゃないか。そんなことを考えているうちに、意識が遠のいていった。
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