第8話 立石寺

 翌朝になった。どうやら飲み過ぎたようだ。自分の記憶が確かなのか不確かなのかまるで分からない。まいったなあ。空猫は肩を落としてしょんぼりとする。師匠のお尻に尻尾があった気がするのだけど、それは酔っ払って見た夢かもしれない。まさか師匠を裸にして確かめるわけにもいかない。酒を飲まずに、じっと観察していればよかったと反省する。

 部屋には、無数の猫と一人の人間が、酔いの醒めぬまま寝ている。一匹だけ起きた空猫は、頭が痛いのを我慢しなが思考を巡らせた。そうだ、コガネムシが見ているかもしれない。空猫は背の辺りをちょんちょんと叩いて、コガネムシを呼び出す。もぞもぞと何かが背から頭に移動して、ちょこんと顔を出した。

「姐さん。昨晩、師匠のお尻に尻尾を見ませんでしたか?」

「呼ばれなかったから空ちゃんの毛の中で寝ていたね」

 ああ、そうだよな。空猫はごろごろと転がって悔しがった。

「それにしても、これはひどいね。いい大人たちが、みんな酔っ払って意識を失っている。私が虫じゃなかったら、全員正座させて大反省会を開いているね」

「ごもっともです」

 空猫は、宴会に参加した猫と人を代表して頭を下げる。ひとしきり謝罪したあと、どうしましょうと相談した。

「寝ているあいだに、さっさとズボンの中をのぞいて確認しなさい」

 ぴしゃりと言われて空猫は小さくなる。コガネムシに頭をぺしぺしと叩かれた空猫は師匠のもとに行き、ズボンに爪を引っかけて、そっと引っ張って中を見た。残念なことに尻尾はなかった。ため息を吐いて、上を向く。

「姐さん、ありませんでした」

「確かに昨晩見たんだね?」

「ええ、殺生石のところでも、ちらりと見ました」

「いつも出ているわけではないのかもしれないね。何か条件があるのかもしれないよ。まあ、まったく偶然に出てくる可能性もあるけどね。本人に聞くのが一番手っ取り早いんじゃないのかい?」

「聞きにくいですよ」

「駄目だね。意気地なし」

 コガネムシは怒って毛の中に隠れた。空猫は、しゅんとしながら周囲を窺う。みんな寝ている。とりあえず、すぐに出発ということはなさそうだ。

「ふわああああ」

 思わずあくびが出た。もう一度寝よう。空猫は頭を畳の上に置いて、眠りの世界に落ちていった。


 出発は翌日になった。古びた屋敷の玄関で、清風猫たちとお別れをする。玄関に続く廊下には、化け猫たちが並んでいる。その化け猫たち一匹ずつと固い握手をした。

「それじゃあ、そろそろ行くよ」

 師匠と空猫は橋を渡る。見送る猫たちは、にゃおんにゃおんと悲しみの鳴き声を漏らした。

 別れ際に、清風猫が空猫の尻尾をちょんちょんと叩いた。

「何ですか?」

 内密の話のようだ。顔を寄せて用件を聞く。

「あれの件、袋を持っていることを忘れるでないぞ」

 ああ、忘れていた。そういえば、お守り袋をもらった。首にかけて、あまりにもしっくりと来るので、記憶の彼方に消えていた。

「大丈夫です、忘れるはずがありません。お任せください」

 覚えていたような口振りで答える。大丈夫かなあと、ぶつぶつ言って、清風猫は見送ってくれた。

 細い歩道をてくてくと歩き、道を曲がる。猫屋敷の領域から出た。街のざわめきが急に聞こえてきた。この先は、影犬に注意しながら旅をする必要がある。

「お師匠さん、次はどこに行くんですか?」

 空猫と師匠は、車が通る道路に向かう。

立石寺りっしゃくじ)を目指す。そのあとは、いったん戻ってきて大石田だな」

「聖地巡礼というのも大変ですね。回らないといけない場所が、たいそう多くて」

「今回の旅は、一箇所だけ行くのが目的じゃないからね。その分、喜びもひとしおというものだ」

「そういうものですか?」

「そういうものだよ」

「今日は車ですか、歩きですか?」

「車を使おう」

「上手く車は捕まりますかね?」

「そこはもう手慣れたものだ」

 車道の脇まで来た師匠は、リュックサックを下ろしてスケッチブックを出す。そして行く先を書いて、十分ほどで車を捕まえた。

 車は南へとひた走り、午前中のうちに立石寺の麓に着いた。しかし、そこからが大変だった。千段を超える石段が待っていた。師匠は人間の中でも体力がない方だ。「私はここで倒れそうだよ、朽ち果てそうだよ」と、師匠は何度も弱音を吐いた。そのたびに空猫は、肉球で師匠を押しながら励まして階段を上らせた。

「着いた。人類は階段を征服した」

 師匠は両手を挙げて喜んだ。空猫は、そんなことをして恥ずかしくないのかなと思いながら師匠の姿を見上げた。

「どうだ。素晴らしいながめだろう。来たのは初めてだがな」

 得意満面で師匠は言う。仕方がない。合わせてやろう。空猫は殊勝な顔でうなずいた。師匠は満足したようだった。

「よし」

 緑色の手帳を取り出した師匠は、俳句を詠みはじめた。

「閑さや岩にしみ入る蝉の聲」

 おおっ、これはよい句だ。さすが師匠だなと空猫は思った。

 師匠は手帳をしまった。そのあと何やら困った顔をした。

「どうしたんですか?」

「足がガクガクだ。これから千段も下りるのかと思うと、たいそう恐ろしい」

 産まれたての子鹿のように、ふるふるとしている。

「転ばないように気をつけてください」

「お前がもう少し大きければ、背に乗せてもらうのになあ」

「猫に無茶を言わないでください」

「そうだよなあ」

 師匠はしょんぼりとして、階段に向かった。

 階段をくだり、立石寺をあとにした。尾花沢の西にある大石田まで引き返した。最上川の前に立った師匠は、ふたたび緑色の表紙の手帳を取り出した。

「五月雨をあつめて早し最上川」

 今日の師匠は冴えている。見事な出来に感心する。

「それにしても、お師匠さん」

「なんだい、空?」

「人はなぜ俳句のようなものを作るのですか?」

 俳句に限らず、創作物全般についての疑問だった。

「空はなぜ、私が教えた俳句を詠むんだい?」

「うーん、お師匠さんに褒められたいからですね」

「それも立派な理由だね」

「それとは別に、なぜか作りたくなります」

「そういうものかもしれないねえ」

 手帳とボールペンをウェストポーチにしまい、師匠は遠くをながめた。

「物を作りたい、物を書きたい、ってのは業だよなあ。人はその業で、生きながらに化け物になる。犬になる者、猫になる者、猿になる者。鳥や魚や虫になる者だっているだろう。この世はそうした鳥獣戯画だね」

 師匠の言葉の意味が分からなかった。師匠は、空猫が持たない視点で、世の中を見ているのかもしれない。

「私は今ね、芭蕉という人を追っているんだ。その芭蕉という人は、西行という人を追っていた。この世はね、目に見えるままではないんだよ。歴史が堆積して、さまざまな姿が折り重なっているんだよ。創作ってのは、そこに新しい姿を重ねることだ。人はね、この世界に新しい景色を重ねたいと願っている」

 師匠は悲しそうな顔をした。なぜそんな顔をするのか分からなかった。

「なあ、空や」

「なんですか、お師匠さん」

「お前は、なんで化け猫になったんだい?」

「なぜって、生まれたときから化け猫ですよ」

「本当かい?」

 不思議なことを聞く人だなあと空猫は思う。

「まあ、いいさ。先を急ごう」

 師匠はしゃがんでスケッチブックを取り出す。そして油性マーカーで、次の目的地を書きはじめた。背を丸め、腰を屈めている師匠のお尻からは尻尾が見えていた。空猫は、自分の頭をとんとんと叩いて、毛の中にいるコガネムシを呼ぶ。

「姐さん、尻尾が見えますか?」

「見えるね」

 やはり、見間違いではなかったのだ。

「それと、空ちゃん、気をつけな」

 コガネムシは、毛を引っ張って、空猫の顔を別の方に向けさせる。

 少し前まではしなかった気配を、遠くで感じた。影犬は、師匠を追い続けている。立石寺に行ったあと引き返したせいで、影犬との距離が縮まったのだ。

「早く、この場所を離れた方がいいよ」

 コガネムシが小声で言う。

「お師匠さん、急ぎましょう」

「そんなに急かさないでくれよ。よし、できた」

 師匠はスケッチブックを持って立ち上がる。空猫は、首から提げたお守りに前足を触れさせた。

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