第5話 塩竃の浦
数日が経った。徒歩とヒッチハイクを重ねて、海が見えるところまでやって来た。潮の香りが鼻を突く。空気が海際の湿ったものになっている。
「見なよ。海だよ」
岸壁に立ち、浦の景色をながめながら師匠は両手を広げる。
「知っています。海なのは見れば分かりますよ」
呆れてそう答えると、師匠はちょっと意外だなという表情をした。
「お前さんは、ずっとあの町にいたんだと思っていた。そうなら海なんて見たこともないはずだが違うのかい。お前さん、海を見たことがあるのかい?」
言われてみれば奇妙なことだ。どうだったかと考えて記憶をたどる。見たことがある気はするが、見たという確証はない。波の音、潮の香り。確かに経験した覚えはある。しかし訪れた記憶はない。おかしいなあ。自分は海を見たのか見ていないのか。空猫は真面目な顔で前方をにらんだ。
「なんだい、知識として知っているだけなのかい?」
「そういうわけではないと思うのですが」
空猫は、どうだったかと首をひねる。いくつかの景色が浮かんでは消えた。遥か地層の奥にある昔の記憶。それはとても大切な思い出のようだった。
「まあ、猫ですし。忘れたのかもしれません」
「猫ってのは気ままだからなあ」
「人間ほどではないですよ」
「そうかもなあ」
師匠は、海に向けて、やっほーと大声で叫んだ。港にいた人たちが驚いて振り向いた。
「やめてください。恥ずかしいですよ」
空猫は、とんとんと師匠の足を叩いてやめさせようとする。師匠はおかまいなしに、やっほーと、もう一度大きな声を出した。
松島観光の遊覧船に乗りたいと師匠が言い出した。師匠はスマートフォンを使い、最も安い乗船料の会社を探しだした。
「お師匠さんは、やはりお金がないのですか?」
「料金は安い方がいいだろう。船のヒッチハイクは難しそうだからね」
師匠は、画面の地図を見ながら移動をはじめる。
遊覧船の乗り場は、平日なので人がまばらにしかいなかった。旅館のときと同じように、空猫はエコバッグの中に隠れた。袋には、指先ほどの穴を空けてある。穴から外をのぞいていると、桟橋に猫が一匹いるのを見つけた。あの猫も乗るのかなと思ってながめていると、魚屋猫のお杉だと気がついた。
「お師匠さん! お師匠さん!」
「どうした、トイレかい?」
「違いますよ。お杉殿が桟橋にいます」
「うん?」
目を凝らして確認しているのだろう。
「本当だ!」
師匠は駆けだしてお杉のもとまで行く。そして腰を屈めて顔を近づけた。
「どうやって来たんだい? 化け猫だから、何か神通力で、ひゅーっとやって来たのかい?」
「そんなことはないですぞ。東北新幹線と在来線を乗り継いでやって来たのです」
「えええ、ロマンがないなあ」
師匠は残念そうに声を出した。
空猫は、エコバッグからひょいと飛び出して桟橋に立つ。そして魚屋猫のお杉に顔を近づけた。
「何かあったのですか?」
「うむ。いろいろと調べたから直接話そうと思ってな」
「分かりましたか」
「ああ、それなりの情報は手に入れた」
「おいおい、何の話をしているんだ?」
師匠は腕を組んで、二匹を見下ろしている。師匠について調べてもらった結果だ。師匠に聞かせるわけにはいかない。さて、どうするかと考える。
お杉の頭で光が反射した。よく見るとコガネムシがいた。
「姐さん!」
伝言を託したコガネムシだ。コガネムシは頭を上げて空猫に顔を向けた。
「ああ、数日振りだね。空ちゃんからの伝言を伝えたら、こちらのお杉殿が、直接出向くと言ってね。この浦にいることは他の虫に聞いたんだよ。ここに来てからは、空を飛んで場所を特定した」
「さすが姐さんです」
空猫は、心の底から感心した。
「ほうっ、この虫は話すのかい。何を言っているのか分からないけど、虫の言葉かい。虫が会話するのは知らなかったな」
師匠は、お杉の頭の上のコガネムシに顔を近づける。あら嫌だ。人間なんかに見つかって、という感じで、コガネムシは飛んで去っていった。
船が出るまでには、まだ時間がある。魚屋猫のお杉が耳打ちをしてきた。
「船には、お師匠さん一人で乗ってもらいな。そのあいだ、ちょっと二人で話そう」
「分かりました」
空猫は師匠の足をとんとんと叩く。
「なんだい、なにか用かい?」
「ねえ、お師匠さん。私は、お杉殿と話がありますので、船には一人で乗ってきてください」
師匠は肩を落とす。心の底から残念そうだ。
「えええ。私一人で行くのかい? せっかく一緒に乗ろうと思っていたのに。まあ、見るのは島だからねえ。島が好きという猫は聞いたことがないからなあ。島を見て喜ぶのは人間ぐらいかもしれない。そう考えると不思議なものだなあ。島の何に、人は感動するのだろう。人と会話ができる化け猫ならば、松島のよさも分かると思ったんだけどなあ」
「すみません、お師匠さん。大事な話がありますので」
「そうかい、それなら仕方がない。じゃあ代わりに、何か一句詠んでくれ。そいつを持って船に乗るよ」
「えっ、急に言われても困りますよ」
期待の眼差しが空猫に注がれる。師匠を納得させるには、何かでっちあげないといけない。
「菜の花や、島がたくさん、松島だ」
師匠は微妙な顔をする。さすがに適当すぎたか。
「もっと自分の目でとらえた何かが欲しいなあ」
「すみません」
批評が胸に刺さる。想像以上の痛みを味わった。
「まあ、いいや。これを手帳に印して、船に乗るとするよ」
師匠は空猫の句を、緑の表紙の手帳に書きつけて遊覧船に乗った。
船が遠ざかるのを見送った。
「一人で行かせて、何だか悪いことをしたみたいですね」
「そうだなあ。あれは憐れでかわいそうな人間だからなあ」
空猫とお杉は、船の窓から見える師匠の姿をながめる。
「それで、お師匠さんの件です」
「そうそう。蘆薈庵の面々で、お師匠さんが住んでいた場所を探したんだよ。その話をしようと思ってな」
「教えてください」
「うむ」
二匹の化け猫は、日当たりのよいところに座り、話をはじめた。
「私たちはまず、聞きこみ部隊を編成して、町の各所に散らばっている猫たちに、お師匠さんの特徴を伝えて、見たことがあるか尋ねたんだ。
しかしこれは、なかなか難しかった。そもそも猫の多くは、人間の顔や姿を区別していない。憐れでかわいそうな中年男性と伝えたら、ほとんどの猫が、肩を落として会社に向かうサラリーマンのことを答えたんだ」
「人間は働き過ぎですからねえ。憐れでかわいそうな生き物に見えますよ」
「私もそう思う。あれは一種の病気だな。不治の病だ。それでな、最初の作戦が失敗したので次の作戦を考えたんだ。平日にぶらぶらしている四十代の人間の男を見なかったかという聞きこみをしたんだ」
「それは慧眼ですね」
「そうだろう。ただ、意外にたくさんいたのだよ。人間というものは、なぜあんなにぶらぶらしているのかなあ」
「人間は遊びすぎですからねえ」
「私もそう思う。あれも病気だな。人間は多くの病に冒されている」
空猫はうなずいた。
「しかしまあ、人間というのは不思議なものだ。働く人間もいれば、働かない人間もいる。働かない人間は、たいてい家にずっといる。そして思い出したように、コンビニにふらふらと出掛けていく。そうした人間たちの中では、お師匠さんは蘆薈庵に頻繁に来ていたので外を出歩く方だった」
「ということは所在が分かったのですね」
魚屋猫のお杉は、にやりとする。
「分かったと思うだろう」
「分かってないのですか?」
「まあ、分かったんだがな」
早く教えてくださいよと空猫は突っこむ。
「住んでいる場所は、賃貸マンションだった。家賃は九万円ぐらいかな」
「けっこうしますね」
「一人で住むには、ちょいと広い。家族で住むには、ちょいと狭い。おそらくだが、手狭だけど家族で暮らす前提で借りた。その後、一人暮らしになった。そんなところだろう」
「ということは家から追い出されたのではなく家族が出て行ったのですね」
「多分そうだろうな」
「奥さんの名前はミオ、娘さんの名前はミアと言うそうです」
「貴重な情報だな。メモしておこう」
魚屋猫のお杉は、猫じゃらしを取り出して、空中にさらさらとカタカナの文字を書く。さすが、頭脳派の化け猫だ。やるなあ、と空猫は思う。
「それでな、場所を突き止めたからには中を改める。当然の考えだよな」
「そうですね。猫は好奇心の塊ですから」
「うむ。問題は、家主がいない部屋に、どうやって侵入するかだ。旅行のために長く部屋を空けているから、当然戸締まりはきちんとしている」
「入りこむのは難しそうですね」
「どうやって入ったと思う?」
桟橋の上で、空猫は頭を悩ませる。どう突破すればいいのか。人間ならいろいろとやりようがあるが猫では難しい。
「分かりません。早く教えてくださいよ」
「これを使ったんだよ」
魚屋猫のお杉は、金属製の六角形の部品を取り出した。ナットという奴だ。
「こいつを拾ってきてな。ベランダに侵入して、窓に思いっきりぶつけたんだ。それで通り道ができた。ガラスで怪我をしないように潜りこんで、中を改めたんだ」
なるほど、ガラスを割ったのか。そんな手があったのか。やられたなあと、空猫は感心する。
「それで、家の中は、どんな様子だったんですか?」
「机があった。そこにパソコンが置いてあった。机もパソコンも埃を被っていた。長らく使っていない様子だった」
「それはおかしいですね。仕事をしていないということですか?」
「お師匠さんは、仕事をしているように見えたかい?」
「いえ、見えませんでした」
「だろう。それで、壁を見ると本棚になっていた。棚には、びっしりと本が入っていた。どういった内容か分析するために、学者猫殿に来てもらった。彼が文字については一番詳しいからな」
空猫は、ごくりと喉を鳴らす。どんな情報が飛び出してくるのか身構えた。
「本棚に並んだ本は、その人の心の中を反映する。学者猫殿は、まずそう言った。そして、背表紙をひとつひとつながめたあと分析結果を口にした。
十冊単位で、似通った分野の本が並んでいる。そうかと思うと急に違う分野の本に変わる。同じことが何度も起きている。そのことから蔵書は資料なのだと分かる。ある専門分野について調べて、その後、関連性のない他の専門分野に移る。つまり本棚の主には一貫した専門分野がない。ある学問領域の玄人ではないというわけだ。
お師匠さんは文筆行を営んでいると言っていた。しかし、専門分野のある人間ではない。そして、調べた内容をもとに何らかの著作をおこない対価を得ている。それも前回とは大きく異なる分野を。そのことから学者猫殿は、小説家ではないのかと言った。そしてお師匠さんが書いた本が、本棚にあるはずだとも語った。
学者猫殿は、異なるジャンルにまたがる、同じ著者名の本を探して名前を特定した。私たちのお師匠さんの名前は、待男馳男という」
「おおっ!」
学者猫の深遠なる推理力に、空猫は感動する。ハセオという名前は、師匠が語ったとおりのものだ。
「他にも情報があれば教えてください」
「うむ、まだあるぞ。私たちは台所も調べた。食器は同じ種類のものが数枚ずつあった。つまり、家族で暮らしていたという証拠だ。そして掃除の形跡はほとんどなかった。これは妻子が出て行って長い時間が経っているからだろう。
また、部屋には荷物が極端に少なかった。妻子が持って行ったのか、押し入れに片づけたのか、処分したのかは分からない。ちなみに押し入れの中には、たくさんの段ボール箱があり、ガムテープで封がしてあった。中は確かめることができなかった。調べて分かったのは、そんなところだな」
かなり詳細な情報が得られた。魚屋猫のお杉が、わざわざ自分でやって来た理由が分かった。これだけの情報を、虫に託して伝えるのは難しい。直接来て話さないと、伝達するのは困難だ。
「あと、空よ、お前が質問していた、おくのほそ、という言葉についてだ」
「正確に言うならば、おくのほそ、のあとに漢字が一文字加わります。お師匠さんが持ち歩いている本の表紙に書かれていた文字です」
「うむ。そちらについては、蘆薈庵の面々で特別調査隊を編成して何を意味するのか調べている。遠からぬ日に、答えが分かるだろう」
「期待して待っております」
蘆薈庵に無数の猫が並び、喧々諤々の議論をしている様子を思い浮かべる。化け猫たちの英知をもってすれば、おくのほそ、の秘密もすぐに暴かれることだろう。
「そうそう、それと、このあとの旅の予定は、どうなっているのだ?」
お杉が空猫に尋ねてきた。
「平泉に行き、そのあと尾花沢に行くと聞いています」
「尾花沢か。それならば知り合いがいる。清風猫という名の化け猫がいるから、尋ねるといい。魚屋猫のお杉の紹介と言えば、通じるはずだ。やり手でな。豪勢な屋敷を持っている。私たちのお師匠さんは、懐具合が厳しいだろうからな。きっと役に立つはずだ」
「貴重な情報、ありがとうございます」
「うむ。それでは、そろそろ帰るとしよう。また何かあれば連絡してくれ」
魚屋猫のお杉は、ゆっくりと腰を上げて、のろのろと桟橋を歩いていく。空猫は、遊覧船が帰ってくるのを待った。なかなか帰ってこないなあと思っていると、コガネムシが飛んできて、空猫の頭の上に留まった。
「話は済んだかい?」
「ええ、姐さんがお杉殿を案内してくれたおかげで、有意義な時間を過ごせました」
「そりゃあ、よかった。これから、まだまだ旅は続くんだろう?」
「はい」
「それじゃあ、あんたに同行するよ。必要だろう。私のような目端の利く虫が」
「いてくださると、非常に助かります」
「これも何かの縁だねえ。私は前世の因縁で、人助けをしないといけない運命なんだろうねえ」
コガネムシは、しみじみと言ったあと、もぞもぞと空猫の毛の中に潜りこんだ。
師匠の船が戻って来た。空猫は手を振って、一人で寂しそうにしている師匠を出迎えた。
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