第4話 白河関

 夜になった。空猫は師匠に、窓を少し開けておいてくれるように頼んだ。

「なんだい、外の空気が吸いたいのかい?」

「猫というものは、自由な生き物ですからね」

「閉じこめられると駄目かい?」

「蘆薈庵も、破れた家だったでしょう」

「なるほど」

 師匠は窓を少し開けてくれた。そして布団に入り、明かりを消した。空猫は枕元で丸くなり、師匠に声をかけた。

「ねえ、師匠。蘆薈庵に来る前、何かあったんですか。奥さんと娘さんと会えなくなった理由があるんですか?」

 空猫が尋ねると、師匠はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと空猫に顔を向けた。

「私はおそらくねえ、お前さんたちと同類なんだよ」

「どういうことですか?」

「化け物のたぐいってことだよ」

「化け猫ってことですか。師匠はどう見ても人間ですよ」

 師匠は、薄く笑みを浮かべる。

「人ってのは恐ろしいものだからねえ。物心ついた頃から、人でなしの道を歩きはじめるんだよ」

 師匠は顔を背けて布団を抱いて丸くなった。

「人と化け猫の境なんて、紙一重だからねえ」

 師匠は体を小さくして、寝息を立てはじめた。


 師匠が寝入ったのを確認して、空猫は動きだした。師匠のことを調べるには、蘆薈庵の仲間の手を借りた方がよい。化け物の世界では、虫の知らせという、虫に伝えれば、伝言ゲームで目的の相手に伝えてくれる連絡方法がある。この仕組みを使えば望む相手に好きなことを伝えられる。

 空猫は、開いた窓からそろりと出て、旅館の庭に下りた。空猫は地面をとんとんと叩く。土の中から、ミミズがひょいと顔を出した。虫といっても昆虫とは限らない。化け物の世界では、四つ足、鳥、魚以外は、たいてい虫だ。

「あー、えー、魚屋猫のお杉殿。当方、空猫でございます。昨日、師匠は黒い影のような犬に襲われました。どうにか追い払ったのですが、またいつ襲ってくるやもしれません。そこで少し、調べ物をお願いしたいのです。まずは一つ、師匠の素性を探ってください。襲われる理由が分かれば対処しやすくなります。次にもう一つ、師匠のリュックサックに、おくのほそ、と書いた本が一冊入っていました。あるいは重要な情報かも知れません。こちらについても調査をお願いします」

 ミミズは、ふむふむと頭を動かしたあと「長すぎる」と言った。どれぐらい覚えられたのか、空猫は尋ねてみる。

「影、襲われた、素性、おそのほく」

 さすがにこれでは断片的すぎる。それに「おそのほく」にいたっては文字の順番が違う。まともな伝言を送るのは難しそうだ。空猫が途方に暮れていると、ミミズは申し訳なさそうな顔をして、他の虫を連れてこようかと尋ねた。

「お願いします」

 ミミズには悪いが、情報のやり取りには、もう少し有能なメッセンジャーが必要だ。ミミズは茂みに消えていく。空猫は眠い目をこすりながら、新しい虫が来るのを待った。しばらく待っているとコガネムシが現れた。月光に背が照らされて美しく輝いている。空猫は、先ほどと同じメッセージを述べた。コガネムシは一字一句間違わずに復唱した。さらに提案もしてきた。

「伝言が長いね。ふつうの虫には覚えられない長さだよ。何匹か経由したら伝わらないね。何なら、私が直接伝えに行くかい? 少々時間がかかるけど、内容の取りこぼしはなくなるよ」

「直接と言っても、そんなに長くは飛べないでしょう」

「バスと電車を乗り継いでいくよ」

 なるほど、これは有能だ。ミミズは素晴らしい虫を連れてきてくれた。

「お願いします」

「任せなさい」

「それにしても、たぐいまれな記憶力ですね」

 感嘆の感情をこめて言った。

「化け猫ほどではないけどね」

 謙遜するコガネムシに、空猫は前足を振る。

「いえいえ、猫なんて短い言葉しか覚えられませんよ。私なんか五七五ぐらいが、ちょうどよい長さだと思っています。俳句が猫に流行るはずです。短いですもの。世の中には小説なんてものもあるようですが、本一冊分も文字が続くなんて、とてもじゃないけど長すぎると思います。人間ってのは、おかしな動物ですねえ」

「まあ、人ってのは文字を食って生きているような生き物だからね」

 コガネムシは憐れむように声を出した。

 文字を食って生きているか。なるほど一理ある。このコガネムシは記憶力がよいだけでなく目端も利く。よく見ると器量よしのようで色艶もよい。これはかなりの美人さんだなと思い、感心する。コガネムシの美人女将といったところか。ちょっと一杯やりたいな。空猫は、マタタビ酒を飲んでいる自分の姿を想像した。

「それじゃあ、私はそろそろ行くよ」

「よろしくお願いします。姐さん」

「うんっ? 姐さんって、なんだい」

「えっ? いや、そう思いましたので」

「うーん、あんたが思うのなら、そうなのかもしれないね。私がそう呼ばれていた時期があったのかもしれないよ。生き物はみんな、前世の因果で輪廻転生しているからね。私も以前は、姐さんと呼ばれるような人間だったのかもしれないよ」

 コガネムシは輪廻転生という言葉を残して、ぶーんと飛んでいった。

 伝言虫を見送ったあと、空猫は部屋に戻って、そっと師匠の寝顔を見た。無邪気な子供のようだ。空猫は、ふわあとあくびをする。空猫は、うつらうつらしたあと、徐々にまどろみはじめる。そういえば蘆薈庵では、あくび猫と言われたなあと思い出す。

「……ミア……、……ミア……」

 猫の鳴き声がしたような気がして薄目を開けた。師匠が寝言を漏らしている。女性の名前のようだ。それが鳴き声のように聞こえたのだ。

 奥さんか子供の名前だろう。師匠は妻子に会っていないと言っていた。この旅が終わったら会えるようになるのかな。黒い影に追われているのと関係があるのかも。師匠は憐れでかわいそうな生き物だ。何とかしてやりたいな。空猫は、師匠が家族と仲よくしている姿を想像しながら、ゆっくりと目を閉じた。


 翌日になった。北東へと旅を続け、今は山間の車道の脇を歩いている。延々と続くアスファルトの道を進んでいると、林に入って行く石畳が現れた。

 林の手前は少し開けており、石畳を進んだ先には鳥居がある。師匠は林の前で足を止めて、その場所にある説明板の前に立った。

 茶色の説明板には、白い文字が並んでいる。漢字がやたらと多いが、最も大きな文字にはひらがなが振ってあった。

「しら・かわのせき・あと?」

「白河関跡。聖地巡礼の目的地の一つだよ。昔はここに立派な関所があった。鎌倉時代には廃れたけどね。歌枕として有名な場所だよ。歌枕ってのは、和歌によく詠まれる名所などのことだ。

 ここから先は奥州だ。遥か昔、京にいる貴族たちにとって奥州は、あまりにも遠すぎて観念の地だったんだ。これから私たちは、その世界に足を踏み入れる。昔の人は、ここで冠を正し、衣装を改めたそうだ。どれ、私たちも少し、身なりを整えようじゃないか」

 空猫は師匠の姿を見上げる。汗でよれよれになっている。周囲を探ると、手を洗う場所があった。境内に入る前に手を清めるための手水舎だ。

「お師匠さん、少し水を借りて、顔を洗ってはどうですか?」

「汚れているかい?」

「はい。今日も歩いて汗をかいています」

「ふむ。それでは、お前さんも洗うかい?」

「仕方がないですね。一人では勇気が要るというのならば付き合いますよ」

 二人で手水舎の前に行き、顔を洗った。

「お前さん、化け猫なのに大丈夫なのかい?」

 師匠がしげしげとながめてきた。

「と言いますと?」

「神様の力で清められて、のっぺらぼうになるんじゃないのかい?」

 空猫は顔を洗っていた手を止める。言われてみればそうかもしれない。どうしようと思い、ぶるぶると震える。

「大丈夫だよ。顔は取れていないよ。その代わり、私の方がのっぺらぼうになった」

 振り向いた師匠の顔は、白一色で何もなかった。空猫は、ふぎゃーと叫び、尻餅を突く。師匠は顔から濡れたティッシュペーパーをはがして、大笑いした。

「ひどいですよ、お師匠さん。化け猫を怖がらせて、何が楽しいんですか」

「すまんすまん」

 師匠はタオルで顔を拭いたあと、ふたたび歩道に戻り、歩きはじめた。そしてぶつぶつと、つぶやいた。

「秋風を耳に残し、紅葉をおもかげにして、青葉の梢なおあわれなり。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそいて、雪にもこゆる心地ぞする」

 声は低く渋く、ゆったりしており、情景が頭に浮かんだ。師匠が考えた文章なのか、それとも何かの引用なのか。師匠は口をつぐんだ。しばらく無言で進んだあと、空猫は声をかけた。

「そういえば、お師匠さん。奥さんや子供さんのことを、少しぐらい聞かせてはくれませんか」

 師匠はまっすぐ前を見て、別のことを語った。

「人はね、自分が生きている場所に、知識と想像を駆使して伽藍を建てるんだよ。その中で暮らせば、草原は黄金の野になり、草庵は御殿になる。蘆薈庵だってそうだろう。あれは、あばら屋であって、あばら屋ではない。

 人の一生も同じだ。現実と非現実を行き来するものなんだよ。人の目に映る景色はただ一つではない」

 悲しげな笑みを師匠は漏らす。分かるような分からぬような話だなと、空猫は思った。

「娘の名は、ミアって言うんだ。妻はミオって言うんだ」

 師匠は唐突に答えた。

 寝言でつぶやいていたのは、娘の名前だったのか。今ならいろいろと聞けるかもしれない。空猫は、さらに話を引き出そうとする。

「お師匠さんの名前は?」

「ハセオって、言うんだ」

「初めて、名前を教えてくれましたね」

「そうだね。旅をしているうちに、少しだけ心を開いてしまったのかもしれないね」

「じゃあ、もう少し開きましょうよ。お師匠さんのことを、もっと教えてくださいよ」

 師匠は何も答えず、歩を重ねる。

「いやあ、ここはもう奥州だなあ。感動だなあ」

 ふたたび声を出した師匠は、明るい声で言った。

 この人はもう――。空猫は、師匠を見上げながら横を歩く。

「私はね、観念の伽藍を築きたいんだ。人はそこで暮らせば夢の世界で生きられる。文学や宗教、呪術や魔術、人の心が作るものは、みんな同じだね。知識と想像の薄片を積み上げ、あり得ないことを、あり得ることに変えていく。ときに、この世界と観念の世界は、その主客が逆転する」

 どうにも分からないなあ。もやもやとしながら空猫は前を向く。

 やはり、この人は、化け猫たちが面倒を見てやらないと危うい。ふわふわしたことばかり言っている。

「ねえ、お師匠さん。そんなことばかり言っていると、現実で足を踏み外しますよ」

「大丈夫だよ。もう十分足を踏み外しているからね。崖の下まで落ちてしまっている。何せ、化け猫の弟子を連れて旅をしているぐらいだからね」

「しっかりしてくださいよ」

「そうだねえ」

 師匠は、うふふと笑って、楽しそうにした。

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