第3話 那須

 ふたたびヒッチハイクをして那須に着いた。今日は早朝から活動していたから時間に余裕がある。山間の遊歩道を一人と一匹で進んでいく。

 師匠は、他の人間とのコミュニケーションに問題はなかった。なぜ、そうした人間が、化け猫たちの屋敷にやって来て、俳句について語っていたのか謎だった。何か理由があるのだろう。妻子と会っていないことと関係するのかもしれない。影犬と繋がりがある可能性もある。空猫は何度か師匠に尋ねてみた。師匠は適当に相槌を打って、はぐらかして答えてくれなかった。

 道の両脇は、岩がごろごろと転がっている。歩き続けていると、師匠がぴたりと足を止めた。荒れ地の視線の先には、しめ縄を巻いた岩がある。

「殺生石だ」

 うやうやしく師匠が言う。

「殺生石ですか」

 空猫は神妙に答える。

「知っているか?」

「知りませぬ」

「では、教えて進ぜよう」

「拝聴いたしましょう」

 空猫が知らぬと分かり、師匠は得意げに語りだす。玉藻前という金毛九尾の狐が、陰陽師安倍泰成に正体を見破られて逃げ出した先が、この場所だという。ここで矢を放たれ殺されたが、霊は石と化して、周囲の鳥や獣や虫を殺す殺生石になったそうだ。

「退治されましたか」

「退治されたよ」

「私は化け猫ですから、ちょいと怖いですね」

「退治されたくないのかい?」

「嫌ですよ。日向ぼっこをしたり、あくびをしたり、できなくなるじゃないですか」

「それは確かに嫌だなあ」

「ですよね、お師匠さんも誰かに退治されるかもしれませんよ」

 冗談のつもりで言った。すると師匠は怖がる顔をした。

「私はそこまで大物じゃないよ」

 師匠は震えているようだった。

 少し経った。少し休んで落ち着いたのだろう。師匠はいつもの調子で語りはじめる。

「ここで鳥や獣や虫が死ぬのは、殺生石の妖力ではないよ。原因は有毒ガスだ。火山の近くでは、硫化水素、亜硫酸ガス、炭酸ガスなどが噴き出て、生き物が死ぬ。殺生石の伝説は、その現象を見て、あとから人がつけたものだ」

「妖力はないのですか?」

「ないよ。ただの石だよ。でも、超有名な石だ。私もなあ、これぐらい名前が知られた存在になりたかったなあ。でも石に嫉妬するのもなあ。はあぁ」

 師匠は大きなため息を吐く。

「お師匠さんは、有名人になりたいんですか?」

「まあね。なりたかったなあ、有名人」

「そういえば、玉藻前はどうやって正体がばれたのですか?」

 化け物の正体を暴く方法を知っておきたかった。影犬の退治に役立つかもしれない。

「これは話によって違うよ。歌舞伎の玉藻前の話では、八咫の名鏡を使って玉藻前の正体を暴いた。まあ、鏡というものは昔から、真実を映し出すと言われているからなあ」

 空猫は、ふむふむと師匠の話を聞く。師匠は背を向けて、岩のあいだの小道を引き返しはじめた。

 その時である。空猫は師匠のお尻に尻尾を見た気がした。驚いて目を瞬くと尻尾は消えていた。じっと見つめてみたが尻尾はどこにもない。

 目の悪戯かな。それとも本当に何かが見えたのかな。師匠に尻尾。もし師匠も化け物ならと考える。化け物退治を恐れたのも納得がいく。それに、化け猫の言葉が分かったり、化け猫屋敷に入れたりしたのも合点がいく。

 しかし師匠はどこからどう見ても人間だ。それも憐れでかわいそうな中年男性に見える。そもそも、あのあばら屋に来たのはなぜか。どうにも腑に落ちないところが多い。玉藻前が金毛九尾の狐だったように、師匠は何か別の存在なのか。

「お師匠さんは、化けておりますか?」

 探りを入れるために尋ねてみる。

「化けられたら、どんなに楽なことか」

 師匠は頭をかいたあと、ふたたび歩きはじめた。


 その日は宿を取った。きちんと風呂に入らないとヒッチハイクをするのが難しくなる。空猫の忠告に従い、師匠は湯浴みを決意した。エコバッグを持った師匠が旅館の前に立つ。空猫はバッグの底に隠れて息を殺す。受付を通り、部屋まで移動した。そのあいだ、師匠の足音だけを聞いて時間を過ごした。

 畳の上に置かれたあと、ひょいと顔を出した。師匠が借りたのは、なかなか広い部屋だった。大きな机があり、煎餅やティーバッグが置いてある。

「立派なところですね」

「奮発した」

「懐は大丈夫ですか?」

「まあね。昨日は野宿だったし、最初の宿ぐらい豪勢でもいいだろう」

 師匠は、緑色の表紙の手帳を出してボールペンを構えた。

「田一枚植えて立ち去る柳かな」

 さらさらと書いて、満足したように自分の文字をながめて手帳をぱたんと閉じた。そして、スマートフォンを出して充電をはじめる。文鎮になった黒い板を復活させるための儀式だ。

「よし、大浴場に行って、ひとっ風呂浴びるか。ついでに洗濯物もコインランドリーにセットしておくか」

 師匠は立ち上がって浴衣に着替える。そして、汚れた服をくるくるとまとめて、部屋を出て行った。

 しばらくは戻ってこないな。廊下の気配を確かめたあと、空猫は動きだす。まずは部屋を一周して結界を張る。人間が作った建物は、それだけで悪霊を防ぐ力を持っている。その力を補強するだけで強力な守りを作れる。これで影犬が来ることがあっても追い返すことができる。夜のあいだも安心だ。

 スマートフォンはまだ起動できなさそうだ。仕方がない。他の荷物から確認しよう。師匠はなぜ狙われているのか。師匠を襲う敵は何を望んでいるのか。師匠を守るためには、師匠の素性や旅の目的を探らないといけない。

 この旅行は、どうも何かがおかしい。旅の目的は本当に聖地巡礼なのか。そして書くためなのか。影犬が師匠を追っていた理由と関係があるのではないのか。

 師匠は自身のことを空猫に語ろうとしない。何か秘密があるのだ。

 空猫は、ウェストポーチとリュックサックの中を改める。ウェストポーチの中には、財布やティッシュペーパー、ペンや手帳や油性マーカーが入っていた。他には絆創膏やビニール袋などもある。財布から運転免許証を引きずり出す。猫の目を丸くして文字を読もうとする。漢字が多くて何が書いてあるのか分からない。

 中身をもとに戻して、今度はリュックサックに取り掛かる。寝袋がかなりスペースを取っている。他には着替えやスケッチブック、水筒や保存食や懐中電灯が見つかった。特に怪しいものはない。

 本が一冊出てきた。表紙を見て題名を確かめる。漢字は詳しくないので、ひらがなと数字しか読めない。おくのほそ、と書いてある。何だろう。重要な情報の気がする。中を開いてみる。漢字だらけだ。駄目だ、暗号文のようで解読できない。必死にページを繰る。しかし情報は読み取れない。あきらめて荷物をリュックサックに詰め直した。

 続いて空猫は、壁際のスマートフォンの前に立つ。電池の形の目盛りが少し進んでいた。そろそろ起動できそうだ。空猫は画面をタップして、素早くPINコードを入力する。ラジオ体操のときに盗み見たものだ。

 ふふふ、いまどきの化け猫は、スマートフォンぐらい使いこなせる。電気が、あれして、こうして、画面がユーチューブなのだ。まさか師匠も、化け猫がスマートフォンに詳しいとは思わないだろう。

 空猫はディスプレイを肉球で触って、どんなアプリが入っているのか確かめる。漢字が読めないので、メールやメッセージを調べても意味がない。ここは写真から情報を得るべきだ。

 写真を閲覧するアプリを探して起動する。画面に、今回の聖地巡礼で撮影した写真が表示される。師匠と自分が並んでいる。うふふと空猫は嬉しそうに声を上げる。何と写りがよいのだ自分は。そして師匠と二人だけの、この優越感。きっと蘆薈庵の化け猫たちは、この写真を見てうらやましがることだろう。

 師匠とのツーショットはよいものだなあ。そう思いながら、床をごろごろと転がったあと、スマートフォンの前に戻り、肉球を動かして画面をスクロールする。

 あばら屋の中で撮影した写真に来た。薄暗い廃屋の中で、目を爛々と輝かせた猫と、おっさんが写っている。師匠は笑い、化け猫たちと変なポーズを取っている。完全に危ない人だ。こんなものを他人に見られたら、頭がおかしい人と思われかねない。それとなく進言して、写真を消させた方がよいだろう。

 空猫は、さらに画面をスクロールする。少しずつ昔の写真が表示される。師匠の口元のひげは、ぼうぼうになったり、なくなったりする。髪の毛も、徐々に短くなり、急にびよんと長くなる。そのタイミングで床屋に行っているのだろう。新しい順に並んでいるから、突然びよんと伸びるのだが、その様子が面白くて、何度もスクロールして、空猫は笑い転げた。

「危ない危ない。師匠の髪が面白くて、時間をかなり使ってしまった」

 頭を切り替えて、もっと前の時期を確かめようとする。師匠は蘆薈庵に通い初めてから、他の場所で一枚も写真を撮っていない。似たような廃屋内の写真を見続けていると、これまでとは違うものが現れた。蘆薈庵に来る少し前のものだろう。

 路上の猫を撮影している。町のいろいろな場所で猫を見つけてはシャッターを切っている。猫好きなのかな。少なくとも嫌いじゃないよな。あんなに化け猫に囲まれて、熱く語っていたぐらいだから。さらに画面をスクロールしていくと、路上ではない屋内の写真にたどり着いた。

 ソファーに座る笑顔の女の子がいる。年齢は三歳ぐらい。目元が師匠に似ている。娘だろうか。女の子の写真がしばらく続き、大人の女性の写真が現れた。鼻と耳の形が少女に似ている。親子だとすぐに分かる。彼女が師匠の妻なのか。少女も、大人の女性も笑顔で写っている。師匠と、仲が悪いということはなさそうだ。

 肉球で画面をスクロールする。幸せそうな少女と女性の姿がたくさんある。途中まで見たあと、最初に女の子が出てきたところまで画面を戻す。日付を見た。空猫は数字は読める。時期は二年ほど前。あばら屋に顔を出しはじめた頃の一年前だ。次の猫の写真まで半年ほど開いている。あいだの写真はない。この時期に何かあったのだと想像できた。

「ぷはー、いい湯だった。いい湯だった」

 廊下に師匠の声が聞こえた。どうやら戻ってきたようだ。空猫はスマートフォンの画面を消す。扉が開いて湯気を上げた師匠が部屋に入ってきた。師匠は小脇に洗濯物を抱えている。どうやら忘れなかったようだ。感心感心。忘れていたら、それとなく注意しようと思っていた。

「おお、空猫よ。いい湯だったぞ。お前もどうだい。ひとっ風呂浴びないかい?」

「いえ、いいです。正直なところ入浴には興味がないのです」

「そうかい。勿体ないなあ。まあ、料金は一人分しか払ってないからなあ。猫も利用したら、宿としては上がったりだろうからね」

 それにしても極楽だったと師匠は嬉しそうに言う。どうやら師匠は、銭湯や温泉といった広い風呂が好きなようだ。師匠は空猫に、しつこく風呂をすすめてきた。

「猫は水が嫌いですからね。それに猫を連れてきたことが、ばれたら困りますよね」

「言われてみればそうだな」

 師匠は自身の考えの誤りに気づいた。そして座布団に座り、机の上の煎餅を食べはじめた。

 食事の時間になった。一人分の膳が部屋に運ばれてきて、夕食がはじまった。

「お前も、何か食べるかい?」

「はい。刺身と焼き魚をいただきたいです」

「要求するねえ。そういえば、化け猫って奴は腹が減るのかい?」

「減りますよ。かすみを食っているわけではないですから。そして美味いものが大好きです。化け猫といえども猫ですからね」

 少し考える表情を師匠はする。

「いやだなあ。高くつくなあ。食費が一人と一匹分かかるじゃないか。破産しそうだよ」

 師匠は、勿体ないと言いながら、刺身と焼き魚を出し渋った。空猫はごろりと床に転がり口を開けた。師匠は、食べ物を待つ空猫をじっと見つめる。

「う、ううっ。ええい、私の負けだ。仕方がないなあ、猫には敵わないなあ。ずるいなあ。かわいいからなあ」

 刺身をひょいとつまみ、口に運んでくれた。空猫は、にゃーと鳴き、焼き魚も所望した。

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