第2話 日光
数時間ひたすら足を動かして家屋のあいだが広い土地にやって来た。景色には田畑が入り混じっている。師匠はてくてくと歩き、空猫はとことこと進む。鴉はかあかあと鳴き、夕陽はながながと影を引きはじめた。
「お師匠さん、今日の宿はどうするのですか?」
「そうだな。そろそろ寝る場所を決めよう。大丈夫だ。寝袋は持ってきている」
背中のリュックサックを、師匠はぽんぽんと叩く。
「えー、嫌ですよ。せっかくの旅行なんですから、ホテルか旅館にしましょうよ。ぬくぬくとした場所がいいです。野宿なんて嫌です。師匠が風邪を引いてしまいますよ。それは避けるべきです」
「大丈夫だよ。私はすこぶる健康だからね。外見は四十代半ばのおっさんだが、中身は肉体年齢二十九歳の健康優良児なんだ。最近の体重計は便利なんだぞ。体の中の年齢が分かるんだ。あれはすごいね。まるで魔法を見ているようだ」
師匠は、最近の体重計の素晴らしさを滔々と語る。空猫は、屋内の方が師匠を守るのに都合がよいのにと思った。影犬は姿を消していたが、いつまた現れるかもしれない。その際に屋外では追い返すのに苦労する。壁と天井がある方が、結界を作りやすい。
空猫は口を開きかけて閉じた。影犬のことを話すのは控えた。人は霊がいると知れば見ようとする。人の認識が敵の力を強める可能性がある。言わずに済むのならば言わない方がよい。
日が暮れる前に師匠は、寺を見つけて忍びこんだ。そして敷地の端の藪で、寝袋を広げて潜りこんだ。本当にここで寝るつもりなんだ。不法侵入なのだけどいいのだろうか。法を平気で犯そうとする師匠のことが猫ながら心配になる。
「おやすみ、空」
小さく声をかけたあと、短い時間で師匠は眠りに落ちた。今日はかなり歩いたから疲れたのだろう。いびきも立てず、すやすやと寝ている。まるで赤子のようだと空猫は思った。
「ふふっ」
師匠の寝顔を見て微笑む。無警戒な中年男性の顔は、本当に面白い。
さて、寝ずの番をして師匠を守るとするか。本来なら、化け猫といえでも眠らないと体力を消費してまずいのだけど、今日はさすがに番をした方がよいだろう。
空猫は決意の表情をしたあと、師匠を囲むように地面に四角形を描く。一辺二メートルほどの方陣ができあがる。空猫は線の内側に入り、足で地面の線に触れた。
「これは境なり。此の地と彼の地を隔てる境界なり。招かれざる者、来るべからず。悪しき者、寄るべからず。不可視の壁よ立ち上がれ。我らを守る結界となれ」
存分の気合いを入れて呪文を唱えた。影犬に姿を与えたときの失言とは違う。呪術を織りなすための言葉の連鎖だ。空猫の引いた線の上に、霊の目でしか見えない壁が立ち上がる。壁は世界の屈折率をわずかに変えて、ガラスの箱のようになる。霊的世界の様相を変える妖怪変化の技術だ。
星空の下、虫の声が響いている。空猫は辺りを警戒しながら、師匠の横にちょこんと座る。しばらく経つと、離れた場所に蠢く何かが現れた。影犬だ。シルエットの目の辺りが光っている。姿はおぼろげで揺らいでいる。空猫は素早く立ち上がり、喉をうならせた。
師匠はのんきに寝息を立てている。赤子のように呆けている。空猫は息を潜めて影犬の動きを見守る。ドーベルマンを思わせる顔が、遠くの闇の中に凝集する。前足が現れて一歩近づいてきた。影犬は徐々に速度を上げる。口からタールのようなヨダレを垂らして牙をむく。
結界だけでは頼りない。積極的に攻めるべきだ。空猫は大きく息を吸い、敵とのあいだにある雑草に語りかける。
「そは鋼なり、緑の鋭刃なり。日のもとで蓄えし光を解き放ち、闇を切り裂く刃となれ」
雑草の葉が光を帯びる。葉の外周が、研ぎあげた日本刀のようになり、影犬の体を切り裂いた。無数の刃をその身で受け、掻き乱されるように闇がほころぶ。しかし影犬の動きは止まらない。黒い血を流しながら駆けてくる。
「砂よ砂よ、熱砂となりて敵を焼け」
日中は陽炎が立つほど日の光が強かった。地面が赤く輝き、影犬の足を焼く。肉が焦げたにおいが辺りに充満する。敵の動きが鈍くなる。それでも影犬は、足を動かし続ける。徐々に足が短くなりながら迫ってくる。
影犬が結界にたどり着いた。眼前に犬の口腔が大きく開く。空猫は前足を振り上げて、結界の線の手前に振り下ろす。
「我を守りし壁よ、揺れよ暴れよ敵を砕け」
結界が激しく振動する。影犬が衝撃波を浴びたように弾かれてばらばらになった。周囲に大小の闇の粘液が飛び散る。やったか? 感情を押し殺して空猫は観察する。
死んだわけではないようだ。束ねた藁が辺りに散ったのに等しい。闇は粘菌のように動き、遠くへと引き返していく。撤退して力を蓄えてまた来るのだろう。今日のところは追い返した。そういうことだと判断する。
「ふうっ」
あの様子だと、ふたたび形を成すのに数日はかかるだろう。だが油断は禁物だ。しばらく警戒を続けよう。
一時間ほど待ったが、ふたたび現れる気配はなかった。空猫は緊張を解いて、ぺたりと地面に腰を下ろす。だいぶ体力を消耗してしまった。どっと疲労が押し寄せる。
「やはり師匠が狙いだよなあ」
空猫は大きく息を吐いたあと、何も知らない師匠の寝顔を一瞥する。これは思った以上に大変な旅になりそうだ。師匠は何らかの敵に狙われている。その正体を空猫は知らなかった。
日が昇り、朝が来た。空猫は、いつの間にか寝てしまっていたようだ。昨晩、力を使いすぎたせいだ。空猫は慌てて起きたあと、顔を前足でなでて反省する。師匠はごそごそと起きて寝袋を片づける。そして空猫を連れて公園に移動した。
「ねえ、お師匠さん」
「なんだい?」
「なぜ、お寺から公園に来たのですか?」
朝から大移動をしなくてもよいのにと思った。
「さすがにもぞもぞと動いていたら、不法侵入しているのがばれて注意されるだろう。だから旅の支度をするために公園に移ったのだよ。私は人に怒られるのが苦手だからね。叱られ慣れていない。いわば、叱られの素人だ。まあ、玄人には、なりたくないがね」
ああ、他人に大目玉を食らうのが怖いのか。仕方がない。叱られそうな顔をしている。空猫は目の前の顔をじっと見て、師匠がしゅんとして縮こまり頭をかいている様子を想像した。
公園のベンチの上にリュックサックを置いた師匠は、ウェストポーチからスマートフォンを出して操作をはじめた。空猫はその様子を観察する。ロックを解除するためのPINコードを盗み見た。
師匠はスマートフォンをベンチに置く。映像が表示されて、ラジオ体操第一の曲が流れだす。
「健康の第一歩は、朝の運動からはじまる。ラジオ体操は全身の血流をよくして、脳を活性化させてくれる。その作用は、素晴らしい文章や俳句を生み出すのに役立つ。知っていたかい?」
もっともらしいことを神妙に言う。師匠はスマートフォンの前に立ち、腕を振りながら、ちらちらと空猫の方を見た。お前もやれということか。仕方がないと思い、後ろ足で立ち上がり、ふらふらと体を動かした。師匠と空猫は、画面の中の小さな女性たちとともに、ラジオ体操をおこなった。
「運動終わり。朝食にしよう」
「なかなかハードな運動ですね」
「ああ。いいものだろう。人類の至宝の一つだよ」
師匠はスマートフォンをウェストポーチにしまった。そしてリュックサックから、パンの耳の山を取り出した。おそらく旅の前にパン屋でもらってきたのだろう。
「お前さん、何本いくかい?」
「えー、じゃあ四本で」
「控え目だね。私は十本いこう。頭脳労働には糖分の補給が不可欠だ。パンやご飯といった世の中の主食の多くは、糖分を多く含んでいる。この世界の創作物の多くは、炭水化物でできているというわけだよ」
師匠は、パンの耳をもしゃもしゃと食べる。そして公園の水飲み場に行き、水をがぶがぶと飲んだ。
食事が終わったあと師匠は旅を再開した。空猫は横に並んで足を動かす。アスファルトの黒い道は、延々と前方に伸びている。太陽は、じりじりと体を焦がしている。
「ねえ、お師匠さん」
「何だい?」
「どこかでお風呂に入って、服を替えないとやばいですよ」
「どうしてだい?」
「においます」
「化け猫でもにおうかね?」
「はい、猫は人よりも敏感ですからね。昨日、半日歩き続けてお風呂に入っていませんよね。服だって着替えていませんし」
「由々しき事態だな」
「ええ。周囲の人が勘づくのも時間の問題かと」
師匠は、ウェストポーチを開いて財布を出す。その中身を見て、渋い顔をした。財布は薄い。金があまり入っていないのだろう。途中でお金を引き出すか、クレジットカードを使う必要がありそうだ。
「私が宿に泊まっているあいだ、お前はどうするんだい?」
ペットを連れて泊まれるところは高いからなあ。困ったように師匠は言う。
「大丈夫ですよ。バッグを一つ用意してください。その中で大人しく荷物の振りをしていますから、部屋まで運んでください。それで万事解決です」
「なるほど便利なものだねえ」
「ええ。化け猫との旅行は、意外に難しくないのですよ。動くなと言われれば、ちゃんと大人しくできますから」
「それじゃあ、宿があるところまで今日は早めに移動した方がよさそうだな」
よしよし、上手く誘導できた。結界を張るのは屋内の方が簡単だ。それに悪霊のたぐいは、人が多くいる建物には侵入しづらい。影犬はいつ戻って来るか分からない。敵の襲撃を防ぐには、宿に泊まりながら旅をした方がよい。
「それと、今日はなるべく遠くまで移動した方がいいですよ」
「なぜだい?」
「何でもスタートダッシュは大切です。世の中のたいていのことは、最初に多めにやっておかないと、あとから面倒になってくるものです」
影犬から離れるためという本当の目的は黙っておく。
「そうかあ、そうだよなあ。夏休みの宿題なんかもそうだしなあ。お前は猫のくせに人間の心をよく分かっている。よし、その忠告に従おう。今日は頑張ってヒッチハイクをして、多めに距離を稼ぐとしよう」
師匠は車道の脇の歩道に出た。そしてリュックサックを下ろしてスケッチブックと油性マーカーを出して、「日光方面」と書いて車道にかざした。しばらく待つと軽トラックが停まり、七十歳ぐらいのお爺さんが顔を出してきた。
「日光方面に行きたいのかい?」
「ええ。東照宮を訪れたいと思いまして」
「猫を連れているのかい?」
「はい。眠り猫を見せてやろうと思いまして」
「そりゃあいい。世の中の猫は、みんな眠り猫を見るべきだ。あいつら寝てばかりだからな。人間の目からどう見えるのか確かめておくべきだ。そうすれば少しは心を改めるというものだ。よし、乗りな。近くまで連れて行ってやるよ。これは人類への善行だ。猫と人間の関係を改める絶好の機会だ」
「ありがとうございます。人類を代表してお礼を言います」
お爺さんは助手席のドアを開けた。空猫は師匠の軽妙な受け答えに、ちょっとびっくりした。師匠は、他の人間とコミュニケーションが取れるのか。口ごもって黙りこむとばかり思っていた。
師匠は、ひょいと空猫の体を抱いて、膝の上に載せて助手席に収まった。
「それにしても、なんで猫と日光に行くんだい。眠り猫を見せるってだけじゃないだろう?」
車を出してから老人は尋ねてきた。
「猫との旅行記を書くんです。その取材旅行です」
そんな口から出任せ、よくも言えるなあと空猫は驚いた。
「いいねえ、俺も旅をしたいよ。昔、バイクで日本中を巡ったことを思い出すよ」
老人はハンドルを左右に操りながら嬉しそうに笑った。
日光の駅の近くで師匠は車を降りた。こんな間近まで運んでもらえるなんてラッキーだと師匠は喜んだ。師匠は老人にお礼を言って別れた。きちんと他人と話せるんだなあと空猫は感心した。この調子ならば、想像していたよりも順調に旅を終えて帰還するかもしれない。自分は影犬を防ぐことだけ考えていればよさそうだ。空猫は少し安心しながら師匠とともに東照宮に入った。
「それで、眠り猫を見に行くんですか?」
「見たことはあるかい?」
「ないですよ」
「せっかくだから見に行こう」
「分かりました」
観光客に交じって眠り猫の場所まで行く。人間の目からは、こう見えるんだよと、師匠は言った。
空猫はじっと見た。どこか間抜けに見える。自分もこう見えるのだろうか。もう少し格好よく、威厳のある姿で寝ているはずなのだがと思った。
東照宮の敷地を歩いていると、師匠は緑色の表紙の手帳を取り出した。コクヨの測量野帳だ。師匠は、指揮棒にしていたボールペンを出して書きこみはじめる。
「あらたうと青葉若葉の日の光」
どうやら俳句を思い付いたらしい。推敲など一切していない。それなのに素晴らしいできだ。さすが師匠だなあと思う。ここに来るまでも、師匠は何度か俳句を詠んでいる。そのたびに、口にした句をそのまま手帳に記している。蘆薈庵の猫たちは、ああでもない、こうでもないと、作ったあとにいじり続ける。これは経験の差なのかなと空猫は思った。
「すごいですね」
心の底からそう思って師匠に言った。師匠は微かな笑みを浮かべた。どこか悲しげで泣きそうな表情にも見えた。なぜそんな表情をするのか空猫には分からなかった。
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