ねこのほそ道
雲居 残月
第1話 旅立ち
猫屋敷というものは、大きな町なら十や二十はあるものだ。黒猫、白猫、灰猫、三毛猫、そうした紳士淑女たちが住む猫屋敷。ただ、その中でも人がおらず、猫だけが住む家となると数がぐっと減る。空き家、廃ビル、工場跡、人の住む土地にできたわずかな隙間。それらのいくつかは特別な猫屋敷になっており、その中でも穴場中の穴場には、ただの猫ではなく化け猫たちが住み着くことがある。
東京都内の駅から徒歩十数分の場所に、数年前まで老人が住んでいたあばら屋がある。平屋で、台所と居間と寝室の簡素な作りだ。その老人は家族がおらず親しい友人もいなかった。世捨て人のように他者との交流を絶っていた。そのため家は相続する者がなく放置されていた。
外から見たその廃屋は、古風な見た目で瓦葺きの屋根である。瓦のあいだからは雑草が生えており、壁や戸は蔦で覆われている。建物のほうぼうは朽ちたり歪んだりしている。畳は、ほどけており稲藁がのぞいている。猫の額ほどの庭には多くの植物が繁茂しており、昼でも薄暗くてお化けが出そうな雰囲気であった。
建物の中からはときおり、にゃーにゃーと鳴く声が聞こえる。傾いた戸の隙間から屋内をのぞくと、ぎらりと光る目がある。目は一つや二つではなく無数にある。まるで夜空を覆う星のようだ。それもただの星ではなく凶星である。その様子を見た人間たちは、尻ごみをするか逃げ出すかのどちらかであった。
この古びた一軒家は、この界隈に住む猫たちの集会所になっていた。魚屋猫、八百屋猫、荒物屋猫、蕎麦屋猫、学者猫、他にもいろいろな猫たちが通ってくる。彼らは破れた建物の陽の当たらぬ場所に座り、目を輝かせてささやきあう。猫たちはただの猫ではなく化け猫である。彼らの会話には、ときおり呪いの言葉が含まれていた。
「今日、道を歩いているときに私をよけなかった二つ足よ。ささやかな呪いを受けるがよい。ここに、密かに拾ってきたお前の髪がある。この髪に、くすぐりの呪いをかけてやる。きっと、こそばゆくなって、むずむずするだろう。あるいは耐えきれずに声を上げるかもしれない。恋人との大切な語らいのとき、あるいは取引先との商談の真っ最中に、大きく叫んで恥をかくがよい」
猫は神妙な顔をして、髪の毛を載せた床板をぎしぎしと揺する。
「揺れよ、揺れよ、主も揺れよ。髪と板とのこすれあいを、その持ち主まで伝えよ。くすぐりのむずむずよ、彼の者まで忍び寄れ」
猫は真剣な表情で念をこめる。逆恨みである。完璧なる独りよがりである。くだんの人間は、猫に気づかず前を歩いただけである。落ち度は一つとしてないのである。しかし猫は呪いをかける。全身全霊をかけて化け猫の義務を果たす。
街のどこかで、叫び声がした気がした。どうやら呪いは成就されたようだ。猫は大いに満足する。得意げに胸を張り、自分たちの眷属の素晴らしさを、仲間たちとともに語らいあった。
そう、この世の人間たちが知らないことがある。化け猫たちが呪いの言葉を吐くと、世界の因果がわずかに変わる。猫の声が音の波となり空気を揺らす。蝶が羽ばたくと嵐が起きるように、化け猫の口から出る声は、宇宙の真理を薬包紙一枚分ほど変化させる。
化け猫たちは、言の葉を並べて世を操る。物と心による世界の境界を、混沌の海に放りこむ。そして世界の景色をどろんとした黒蜜のようなものに書き換えるのだ。
ある日のことである。入り口の戸が、がらりと開いて、外の明かりと空気が入ってきた。二つ足である。化け猫たちは人間がやって来たことに驚き、慌てふためく。よもやこの場所に人がやって来るとは思っていなかった。猫たちは、ふーふーと、うなりながら、畳や板床の上を走り回る。猫が猫を踏み、猫が猫に突き飛ばされる。ちょっとしたパニック映画の見せ場のシーンである。叫び声と足音が、ミルフィーユのように層を成す。外から入ってきた男は、その様子を一瞥する。そして飄々とした様子で周囲を見渡して、朗々とした声を出した。
「なるほどねえ、中はこんな感じになっているのかい。しかしまあ、化け猫の集会所ってのは珍しいや。いやいや、私なんか気にせず、集会の続きをしてくれたまえ。えっ、やりにくいって。そりゃあ悪いことをしたね」
悪びれた様子のない声だ。猫たちは用心深く壁の穴や隣室から顔を出して、人間の様子を観察する。四十代半ばの中年男性だ。着ている服は綿のシャツに綿のズボン。いたって平凡なものである。腰には黒いウェストポーチをつけている。顔はつるりとして色白だ。指は細くて滑らかだ。働いているのか怪しい雰囲気がある。もしかしたら無職かもしれない。こんな平日の真っ昼間に、あばら屋に来るぐらいだから、おそらく勤め人ではないのだろう。
無言のまま化け猫たちは男を観察する。男はしばらく入り口でたたずんだあと、ずかずかと中に入ってきた。そして屋内をうろうろしたあと、猫たちがいつも集まっている畳敷きの大部屋の真ん中に、よっこらせ、と言いながら腰を下ろした。
「少し邪魔をするよ」
居座るつもりか。百を超す化け猫たちが男をにらむ。
男はウェストポーチからボールペンを出して、指揮棒のように振るいながら、やーやーおーおー、と話しはじめる。相手は猫だと思って適当に語る。さすがに腹が立ってきた猫たちは、口々に愚痴を言った。
「おいおい、ここは化け猫の集会所だぞ」
「人間風情が、こんなところに来やがって」
猫たちが罵倒の言葉を並べ立てると、男はボールペンをすっと止めて、にやりとした。
「聞こえているぞ。私は化け猫の言葉が分かるんだ。私の言葉も分かるだろう。もっと近くに寄ってこい。かわいがってやるぞ」
あばら屋の猫たちはぎょっとした。この男、化け猫語が分かるのか。男は手を伸ばして化け猫たちに触れようとする。猫たちは素早く身をかわす。こんな不審な奴になでられてはたまらないと、家の中を駆け回る。
男は、ふたたびボールペンを振って話をはじめる。猫たちの目の前でボールペンが、くいっ、くいっと揺れる。困ったなあ。あのボールペンの動きは魅力的だ。思わず出て行って、追いかけたくなる。
男は得意げに、よく分からない話を延々と続けた。猫たちは、その無駄話に付き合うしかなかった。大いなる屈辱である。そのうち呪ってやる。しかし相手は猫語が分かる。仕返しをされるかもしれない。そう思うと身がすくむ。化け猫たちは、男を警戒して不満を露わにする以上のことはできなかった。
翌日も男はやってきた。その後も足繁く通い、一週間が経った。そのあいだ、一方的に話を続けたことで、男の素性が少しばかり分かった。文筆業を営んでおり、俳句というものを嗜んでいる。この男、人間に相手にされぬとみえて、化け猫相手に俳句の講義をしてくる。なぜか化け猫の言葉を理解しており、猫なで声で熱心に話しかけてくる。そして自分のことを「お師匠さんと呼んでくれ」とぬけぬけと言う。
「なあ、お師匠さん。あんたは、なぜ化け猫の言葉を使えるのだね?」
化け猫の一人、この辺りを仕切っている魚屋猫のお杉が、ある日こらえきれなくなって尋ねた。男は待ってましたとばかりに答える。
「おっ、お師匠さんと呼んでくれたね。一人でぶらぶらと過ごしていたら、いつの間にか使えるようになっていたんだよ。これも人徳かねえ」
嬉しそうに男は言う。ああ、これは憐れでかわいそうなたぐいの人間だと、お杉は思った。人間に相手にされず、脳に毒が回ったらしい。これはやばい御仁に居つかれたぞと、あばら屋の化け猫たちは考えた。
師匠と呼ぶことを要求した男は、日を置かず猫屋敷に通ってきた。一週間に四日か五日。晴れの日も、曇りの日も、雨の日も。いや、雨の日は来なかった。しかし、そうではない日は、頻繁にあばら屋を訪れた。そして、ボールペンを振り回しながら、俳句の講義をする。不易流行などと、もっともらしいことも言った。
一ヶ月ぐらい経った頃には、猫たちも分かってきた。こいつ、俺たちが猫だと思って、目の前で何かを振れば、喜ぶと思っていやがる。
悲しいのは生き物のさがである。ボールペンの動きに釣られて、首が揺れて目が動く。オーケストラの指揮者のように、男は化け猫たちの頭を右へ左へと導きながら、俳句というものについて語り続けた。
半年ほど経った頃、化け猫たちのあいだに突如ブームが起きた。空前絶後の俳句ブームである。元々呪術のために言葉にこだわりのあった猫たちである。大いに親和性があったのだろう。
化け猫たちは俳句を詠んでは男に添削を求めた。男は、いかにも師匠らしい師匠面をして、ここはこうしなさい、ああしなさいと指導をした。いまやもう、彼は化け猫たちの師匠だった。
猫屋敷は騒々しくなった。大いに賑わい、近隣の化け猫たちが俳句を学びにやって来た。猫にはペンを持つための指はない。だから頭の中で考えたあと口頭で述べる。猫たちは列をなして、自分の番が来ると二本足で立ち、自作の俳句を大声で唱えた。
しかしまあ、はまるものだなとみんな思った。これほどまでに、のめりこむとは想像していなかった。そうした猫たちの思いを代表して、魚屋猫のお杉が、なぜでしょうと師匠に尋ねた。すると師匠は満面の笑みで答えた。
「猫に俳句は合うんだろうねえ。短い言葉だから、猫の小さな脳にぴったりというわけだ。猫たちが集まり、にゃーにゃー言っているのは、よく聞くと五七五に似ている。気づかなかったかい?」
そうなのか。魚屋猫のお杉は、周囲の猫たちの鳴き声を注意深く聞いた。にゃーにゃー、にゃーにゃー。五七五には聞こえない。この師匠は適当なことを言う。自分の言葉に何の責任も持とうとしない。俳句は楽しいが師匠は信用できぬ。あと、あのボールペンを振る仕草は困る。思わず体が動いて立ち上がり、尻尾を振ってしまう。
「お杉殿」
ひげをなでて悩んでいたお杉に、学者猫が声をかけてきた。
「なんですか、学者猫先生」
「俳句という奴、あれは呪いと同じですな」
空中にさらさらと呪という文字を書く。お杉もそんな気がしていた。自分たちが使う呪術に似ているなと思っていた。
「興味深いですな、呪いと同じですか」
「ええ、お杉殿。そして大きな力を感じます」
「ふむ」
お杉は向きを変え、師匠の姿をじっと見る。化け猫の目で観察しても、この師匠が何者なのか見抜くことはできなかった。
師匠があばら屋に通うようになって一年が経った。この一年のあいだに、化け猫と俳句は切っても切れない関係になった。
ある日のことである。その日、化け猫たちは、こっそりと猫だけで集まり会議を開いた。そろそろこの廃屋に、俳句を詠むのにふさわしい名前をつけたいと考えたからだ。
「猫屋敷はどうかな?」
灰毛の猫が胸を張って言う。
「趣がないなあ」
他の猫たちが渋面を作った。
「あばら屋でどうかい?」
「まんまじゃねえか」
「植物の名前を入れるのはどうか?」
「いいねえ、そりゃあ趣がある」
八百屋猫の提案に、みなが首肯した。化け猫たちの進むべき道は決まった。
猫たちは、この屋敷の庭に生えている雑草を持ち寄って、どの名前がいいか相談した。ハコベ、オオイヌノフグリ、カタバミ、スズメノカタビラ、ヨモギ、イラクサ、他にもいろいろな植物が床に並べられた。
オオイヌノフグリは真っ先に却下された。ここは猫たちが集まる集会場だ。犬の金玉なんてのは論外だ。議論をする先から新しい草木が持ちこまれて紛糾した。終わりの見えない話し合いに決着をつけるために、魚屋猫のお杉はアイデアを出した。
「せっかくだから、難しそうな名前がよいのではないか?」
「いいな。頭がよさそうに見える」
「私は、文字を知っているぞ」
「俺も知っている」
「えっへん。俺も字が読めるぞ」
「おお、ここにいるのは学のある猫だらけだな。それじゃあ、なるべく画数が多い漢字の名前にしよう」
そこで化け猫たちは沈黙した。ほとんどの猫は、ひらがなしか知らなかったのだ。
「画数が多いと、書くときに大変ではないかな?」
「しかしなあ、ここは見栄を張りたいところだ」
「そうだ、そうだ」
みなの意見が一致する。画数の判断は、漢字に詳しい老齢の学者猫がおこなうことになった。相談はゆっくりと進み、そのうちに一匹の猫が、玄関の近くにあるアロエの切れ端を持って来た。故人であるこの家の住人が植えたものだ。
「ほう、アロエかい」
学者猫が目を輝かせる。
「どう書くんだい?」
魚屋猫のお杉が尋ねた。
「こうだ」
学者猫は後ろ足で立ち上がり、猫じゃらしで作った筆を両手で持ち、空中にすらすらと文字を書く。
――蘆薈。
「ロエと読む。音読みでロカイと呼ぶこともある」
「ロカイ、ロカイ、蘆薈庵。難しそうで、よいじゃないか。俺たちの頭のよさがにじみ出ている」
お杉が言うと猫たちは踊りながら喜んだ。学者猫以外、誰一人として書くことはできなかったが、自分たちにふさわしい名前だと口々に言った。
翌日、師匠があばら屋にやって来た。いつものように朽ちた畳の上に座って周囲を見渡している。
「どうしたんだい、弟子たちよ?」
「実はですね、この家に名前をつけたのですよ」
「へえっ。それはいいじゃないか。教えてくれよ」
「ロカイアンと言います」
学者猫が進み出て、猫じゃらしで空中に文字を書く。
「おお、アロエだね。アロエの花が咲くのは冬。枯れた季節を感じさせるのが、このあばら屋にふさわしいじゃないか」
褒められた。そのことに気をよくした猫たちは宴会をはじめた。マタタビ酒に、干物の切れ端。ほおかむりにサングラス。師匠も加わってのどんちゃん騒ぎ。近所から苦情が来るかもしれないが構わない。この日ばかりは大声を上げて、猫たちは騒ぎまくった。
翌日、化け猫たちは反省した。二日酔いの頭を左右に振りながら、蘆薈庵でうめいて吐いた。饐えたにおいが辺りに充満する。汚れた雑巾のような猫と、吐瀉物の地獄絵図が展開される。師匠は、抜け目なく途中で帰っており、この大惨事に巻きこまれなかった。
数日経ち、あとかたづけが終わり悪臭も消え、空気がいつもの埃っぽいものになった頃、ふたたび師匠がやって来た。
「旅に出ようと思うんだ」
部屋の方々に散らばった化け猫たちは、寝そべり、丸くなり、おのおの好きな姿勢で聞いていた。
「聖地巡礼の旅だ」
師匠は淡々とした口調で言う。どういうことだと、化け猫たちはささやいた。若い猫が古参の猫に耳打ちをする。物語に出てきた場所を訪れる聖地巡礼というものがあるらしい。テレビ好きの人間たちのあいだで流行っているそうだ。
「東北の各地を巡ろうと思う。そして俳句を詠みたいと考えている。大変な旅になる予定だ。全て徒歩とヒッチハイクで回るつもりだ」
あばら屋の中の空気が変わった。ざわざわと声が湧き起こる。
「金がないから、そんな旅をするのか?」
「そんなことをしたら、宿代が逆にかかるんじゃないのか?」
「あるいは野宿をするつもりなのかもしれない」
「それにしても食事はどうするつもりなのか?」
「ネズミとか、バッタとか、野草とかを食べるんじゃないのか?」
「それじゃあ、人間の腹はふくれない。かっぱらいをして食いつなぐのかもしれない」
「そりゃあ駄目だ。猫ならともかく、人間なら警察に捕まるぞ」
これは、やめさせなければ!
猫たちは一致団結して、師匠に旅を思い留まらせようとした。蘆薈庵は、猫たちの説得の声で、にゃーにゃーの大合唱になった。
「ありがとう。そんなに、私を祝福してくれるのかい」
師匠は立ち上がり、両手を広げて感動する。いや違う、そうではない。猫たちは口々に言うが、師匠の耳には届かない。どうやら彼の耳は、都合が悪くなると化け猫の言葉が分からなくなるらしい。いや、猫語だけではないだろう。人語も解さなくなるに違いない。猫たちはほとほと困り果てて、疲れて叫ぶのをやめた。
「いつ出発する予定なんですか?」
魚屋猫のお杉が、あきらめて尋ねる。
「一週間後だよ」
「本気ですか?」
「本気だとも。その日に、旅立ちの挨拶をしに来るよ」
師匠は蘆薈庵から引き上げた。
日が没して夜になった。廃屋の屋根の下にいる化け猫たちは、魚屋猫のお杉の周りに集まって相談をはじめた。
「このまま見すごして野垂れ死にされたら目覚めが悪い」
「あまりにも憐れでかわいそうな俺たちの師匠を、このまま放り出すのは心苦しい」
一年あまり一緒に過ごして、化け猫たちは師匠のことが好きになっていた。このまま帰ってこないのではないか。どうにか無事に帰還させたい。化け猫たちは喧々諤々の議論を続けた。
夜が更けた。夜の雲のあいだから月の光が降り注いでいる。ところどころ破れた蘆薈庵にも、光の筋が入りこみ、埃を雲母のようにきらめかせている。
「さて、どうしたものか」
魚屋猫のお杉が言って、壁際に並んだ全員がため息を吐いた。師匠は他人の言葉を聞くタイプではない。もし聞く人間なら、世の中を上手く渡っており、化け猫たちに俳句を講義しに来たりはしない。あれは憐れな生き物なのだ。化け猫たちが愛でてやらなければかわいそうな存在なのだ。このまま死地に送り出すのは忍びない。どうしたものかと月明かりの廃屋で、化け猫たちは相談した。
三日三晩、議論は続いた。そのあいだ、師匠は蘆薈庵に来なかった。化け猫たちは、師匠の旅にお供をつけることに決めた。同行し、監視し、会話の相手になり、何かあればこっそりと助ける。そうすれば、人に馴染めず化け猫と戯れる師匠でも無事に旅を終えられるだろう。
問題は誰を選ぶかだった。数が多ければ目立ってしまう。人が歩いて、その後ろにぞろぞろと猫がついてきたら人目を引く。そうすれば師匠は、野次馬に囲まれて困惑する。下手をすれば上手く話せず、恥をかくかもしれない。そして恥ずかしさのあまり死んでしまう可能性もある。さすがにそれは、かわいそうだ。
一匹なら、それほど注目されずに横を歩ける。二匹だと奇妙に思われる。やはり一匹か。化け猫たちは額を寄せ合い、ひげを触れ合わせて合意した。
「して、誰にしようかのう?」
学者猫が音頭を取り、条件を挙げていくことにした。
「粗忽でない、しっかりとした者」
「人の足に合わせて歩くことができて、長旅に耐えられる者」
「師匠が失敗をしでかしたときに機転を利かせて助けられる者」
「師匠を上手く誘導できる話術を持っている者」
全員が、うーんとうなったあと沈黙した。ちょいと欲張りすぎではないか。もう少し、ゆるい条件でもよいのではないか。自分たちの中に、それほどの能力を持つ猫がいるとは思えない。もしいたのならば、こんなくたびれた家ではなく、豪邸に住んでいる。どうも背伸びをしすぎた。化け猫たちは反省して、くじ引きで同行者を選ぶことにした。
さて問題は、どのようにくじをするかである。化け猫たちは猫であるから、手先が器用ではない。紙に「当たり」と書いて、箱に放りこむこともできない。どうするか知恵を出し合ったあと、蛙を使うことにした。
夜更けすぎ、化け猫たちは蘆薈庵の中で車座になった。そして真ん中に蛙を一匹置いて、その蛙がどの化け猫のもとに行くかで争うことにした。このくじで選ばれるということは、しっかり者で、長旅に耐えられて、機転を利かせられて、話術に長けているということだ。つまりそういうことに違いないと猫たちは思い、自分が座る場所で、蛙よ来い、俺のもとに来い、さっさと来いと頬をふくらませて叫びあった。
猫の奇怪な大合唱は、近隣住民をさぞ震え上がらせたことだろう。それは車座の真ん中に放りこまれた蛙も同じだった。なんで俺はこんなところにいるのだ。そしてなぜ、猫に囲まれて吠えられているのだ。食う気はないようだが解せぬ。蛙は車座の猫たちを見渡したあと、猫たちの中で唯一声を張り上げておらず、あくびをしている猫がいるのを見つけた。
こいつだ。勇気あふれる蛙は決断した。そして、のっ、のっ、と向きを変えて、へたっ、へたっ、とジャンプして、あくびをしている猫に向かった。
あくび猫の前足のあいだを抜け、後ろ足のアーチをくぐり、くじの蛙は、戸の破れた穴から外へと逃げた。その場にいた化け猫たちは一斉に、当選した猫に目を向けた。自分がにらまれていることに気づき、あくび猫は息を詰まらせそうになる。しかし、そこは化け猫である。おっほんと咳払いをしたあと、どうやら自分が選ばれたようだと悟った。
「えー、本日は、お日柄もよく、皆々様方におかれましては、私めの師匠同行就任祝いにご出席いただき、ありがとうございます」
非難の嵐が、ふーふーと湧き起こる。これは、しくじったなあと、あくび猫は慌てて姿勢を正した。
さて、化け猫たちは選ばれた猫を見て首を傾げた。影の薄い猫だ。誰だったかなと疑問を持つ。おそらくは、師匠が俳句を教えはじめてから顔を出すようになった猫だろう。
「お主、何者だ?」
この界隈のまとめ役である魚屋猫のお杉が尋ねる。
「ソラと申します。お天道様の空です」
なるほど空猫か。屋根の下の面々は、あくび猫の名前を認識した。そして、悔しいのう、悔しいのうと憤った。
長い夜が明けて、日が昇った。化け猫たちは師匠が来る日を待った。
その日、昼を回り、みなが日向ぼっこに勤しんでいる頃になり、戸を開ける音がカラカラと響いた。
「旅の前の別れにやって来た。世話になったな。しばらく留守にするよ」
それだけ告げて帰ろうとする師匠を、化け猫たちは慌てて引き留めた。
「実はですね。みんなで考えたのです」
「ふむふむ」
「旅にお供をつけようということを」
「ふむふむ」
「こいつが、そのお供です。名前は空。連れて行ってくださいませ」
師匠は驚いた顔をした。そして顔をつるりとなでて足下を見た。なーなーと鳴きながら空猫が足下にすり寄ってくる。なるべく媚びた感じで、思わず手に取りたくなるかわいさで、精一杯の演技をして足に頬をなでつけている。
「三毛猫だね」
「そうです」
魚屋猫のお杉が代表して答える。
「お供って、どうやってついてくるんだい?」
「歩いてついていきます」
「私は人間だから一日中歩き続けられるけど、猫は無理じゃないかな?」
「大丈夫です。化け猫ですから」
「ヒッチハイクで車にも乗るよ」
「問題ないです。猫の特等席は膝の上ですから」
「ふむ」
師匠はあごに指をそえて、斜め上を見る。人間が考えているときに、よくする仕草だ。
「話しながら行くのかい?」
「そうです」
「いやだなあ。独り言をつぶやいている変な人みたいじゃないかい」
「ふつうの人は、猫の言葉が分かりませんからね。横を歩く猫と会話している、奇特な人と思われるでしょう」
困った困ったと十回唱えたあと、最後には仕方がないという顔を師匠はした。
「まあ、そういう旅もいいだろうね。何せ名前がソラだからなあ」
これもまあ運命か。そうした顔で師匠は優しく微笑んだ。どうやら受け入れてくれたようだとお杉は安堵した。
「では、空を伴い、旅に行ってくださいませ」
「分かったよ。よし、行くぞ、空とやら」
なーと一声鳴いて、空猫は師匠とともに蘆薈庵の屋根の下から庭に出た。
雑草に覆われた地面の上に、師匠と空猫は立つ。季節は、蛙も喜ぶ春である。外は日差しが強く、ゆらゆらと陽炎が立っている。空猫は暑さで溶けてしまいそうな気がして、一瞬ふらっとした。
師匠と空猫は一歩踏み出す。雑草の茂った狭い庭を抜けて、敷地の外に出る。アスファルトの熱気と、人の行き交う気配がどっと押し寄せてきた。自転車が通りすぎ、車のエンジン音が空気を震わせる。空猫は、夜店が立ち並ぶ祭りの神社を思い出す。こんなにもうるさい場所に、蘆薈庵は立っていたのかと思い、振り返った。
視界の先には、街から切り離されたような廃屋があった。まるで時間のベールをかけたように建物はたたずんでいる。
空猫は師匠に目を戻す。スニーカーを履き、ジーパンを穿き、紺色のシャツを着ている。背中にはリュックサック、腰にはウェストポーチ、帽子からのぞく髪はぼさぼさで、顔には無精ひげが生えている。顔の彫りはそれなりに深く、生っ白かった。四十代半ばのくたびれた男の姿だ。
「さあ、行こうか」
師匠は歩道を進んでいく。空猫は、その横を、ちょこちょこと足を動かして追っていく。一人と一匹の旅が、東京の片隅ではじまった。師匠と空猫は、てくてくと並んで歩いていく。
「あの、お師匠さん」
「なんだい?」
「蘆薈庵のみんなは、心配していましたよ。お師匠さんは、きっと引きこもりで、独り身で、化け猫しか話す相手がいない人間だと言っていました。そんな中年男性の一人旅は危険だと話していました」
師匠は黙々と歩く。空猫はとことこと横をついていく。
「うん、そうかい。そういう風に、私は見られていたのかい」
少し頬をゆるめて、師匠は目元にしわを寄せた。
「違うんですか?」
空猫も、そうに違いないと思っていた。
「妻子がいる。二年ほど会っていない。話し相手はまあ、人間にもいろいろといたよ」
空猫は、しげしげと師匠をながめる。
「なにかあったんですか?」
「まあね」
「教えてください」
「いやだねえ、そんなに軽々とは教えられないよ」
師匠は、わずかに足を速めた。空猫は慌てて足を動かして引き離されないようにする。師匠は、大きなリュックサックに隠れるように背を丸めている。そういえば、この人のことをよく知らないな。いったいどんな人なんだろうと空猫は思った。
「ねえ、お師匠さん」
「うん?」
「まずは、どこに行くんですか?」
「そうだね、日光かな」
東北に行くと言っていたが、まずは関東の北に向かうのか。空猫は師匠に追いついて横に並ぶ。車が通り、排気ガスのにおいが残された。
空猫は、そっと見上げた。師匠は悲しげな顔をしている。蘆薈庵のみんなが心配する憐れでかわいそうな中年男性に、いったい何があったのかと空猫は思った。
背後に暗い気配を感じた。
ひげが、ぴりぴりと震え、背筋の毛が逆立った。空猫は警戒しながら顔を向ける。
少し離れた電柱の陰に、黒い何かが見えた。人間ではない。地面の辺りにいる。大きさは犬ぐらいだろうか。不幸の煮こごりのような闇が、師匠に邪気を送っていた。
猫屋敷で見たことはない。外で師匠を待っていたのか。そもそも猫屋敷は、化け猫以外はふつうは入れない。ひょっこりと入って来た師匠が異常なのだ。あるいはあの闇は、建物の外で師匠を待っていたのかもしれない。
空猫は闇に目を凝らす。強く意識すると消えそうになる。気を抜くと濃い影になる。ふつうの物質とは逆の性質。霊のような存在なのか。
「影犬」
空猫はつぶやいた、あるいはつぶやかされた。その瞬間、黒い影の輪郭は明瞭になり、猟犬を思わせる黒い犬になった。その変化に空猫は戦慄する。形のなかった存在が、空猫の言葉で姿を手に入れた。
空猫は、自分が闇に名前を与えてしまったことに気づく。化け猫の言葉は呪いになる。闇は、化け猫が声を出すのを待っていた。自分ははめられたのだ。
「どうしたんだい?」
頭上から師匠が尋ねてきた。脳裏に走ったさまざまな思いが分断される。
「いえ、何でもありません」
護衛としての同伴者――空猫は自身の役目を思い出す。師匠を守るはずが危険を招くことになってしまった。自分のミスだ、それも痛恨の。
影犬が一歩二歩と足を動かす。師匠と空猫に引き離されないようについてくる。闇を寄せ集めた何かは師匠を見つめている。空猫は深く息を吸う。呪いで形を得た相手なら、呪いで打ち砕くまでだ。
「影で作られしもの、影でもって切断されよ。街を這う雷神の線よ、闇を切り裂く刃となれ」
電線の影に触れた影犬が、悲鳴を上げたような姿勢を取る。呪術による攻撃。しかし敵は消えずに留まっている。
ばらばらになった体が、ゆっくりと集まり復活しようとしている。空猫は全身の毛を緊張させる。簡単に倒せる相手ではないのか。自分は師匠を無事に帰還させられるのか。空猫は必死に考える。
――師匠はなぜ闇に追われている?
あの闇は、師匠を待っていた。それは師匠自身に原因があるからだ。師匠は、どうして闇を招いてしまったのか。旅の目的と関係があるのか。猫屋敷に入って来た理由と繋がっているのか。
禍根を断つ必要がある。解決の糸口をつかむには、師匠自身のことをもっと深く知らないといけない。
「お師匠さん」
「なんだい?」
「お師匠さんのことを教えてくださいよ」
媚びた声で空猫は尋ねる。
「いやだねえ、そんなに軽々とは教えられないよ」
先ほどと同じやり取りが繰り返される。空猫は背後をちらりと見る。深い闇がまだ蠢いていた。
「お師匠さんは、なぜ旅に出たんですか?」
間があった。またはぐらかされると思った。
「私は畜生だからねえ」
深い自嘲の声が漏れた。
「意味が分からないですよ。なぜ旅に出たのか詳しく話してくださいよ」
「書くためさ」
師匠は短く、消え入りそうな声で言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます