第6話 平泉

 旅をはじめてから、それなりの日数が経った。生っ白かった師匠の顔が、少し日焼けして精悍な感じになった。聖地というものは非常に多くあるらしい。行く先々で師匠は俳句を詠み、緑色の表紙の手帳に書きこんでいく。まるで、あらかじめ作っておいたように短い時間で完成させるので、師匠はすごいなあと空猫は思った。

 平泉は聖地巡礼の目的地の一つだそうだ。師匠はヒッチハイクで車を乗り継ぎ、この地に到着した。車を降りてお礼を言ったあと、師匠は難しそうな顔をして空猫の方を向いた。

「私は金色堂を見るつもりなのだが、さすがに猫を連れて行くわけにはいかない。金色堂を覆った覆堂の中に猫を入れたら、お前が悪さをしなくても、国宝を危険にさらしたということで叱られてしまう」

「お師匠さんが叱られますか。それは悲しくなりますね。しょんぼりとして塩をかけられたナメクジのように消えてしまうかもしれません」

「そうだろう。私はそうなることを危惧している。私は打たれ弱いのだ。叱られるのが苦手なのだ。繊細な心をしているからな。そうした人間は大事にするべきだろう」

「そうですね。大事にしてあげるべきです」

「合点がいったようだな。だから、そのときだけは外で待っていてくれないか」

「分かりました。そのようにいたしましょう」

 これはさすがに仕方がないなあと空猫は思った。師匠は心の底から、すまなそうな顔をして頭を下げた。

 見学と待機の段取りを決めたあと、師匠と空猫は月見坂を上り、金色堂覆堂を目指した。道は人が多く行き交っている。よほど有名な場所なのだろう。師匠にとって聖地であるだけでなく、世間でもよく知られているようだ。

「お師匠さん」

「なんだい?」

「迷子にならないでくださいよ」

「なりそうかい?」

「はい。うっかりしていそうな顔をしていますから」

「そうかい。気づいていなかったな、自分の顔は普段見ないしなあ」

 師匠は、顔をごしごしとこすって、うっかりは取れたかい、と空猫に尋ねた。

「ええ、まあ、多少は」

「そりゃあ、よかった」

 嬉しそうに師匠は笑みを浮かべた。

 ゆるゆると歩いていると、師匠が行きたがっていた金色堂覆堂にたどり着いた。

「ここですか」

「ああ、ちょっと行ってくるよ」

 師匠を送り出したあと、階段の下でのんびりと待った。しばらくすると師匠が興奮した様子で戻ってきた。

「見られましたか?」

「ああ、見られたとも」

 随分と心を動かされたらしい。師匠は緑色の表紙の手帳とボールペンを出した。そして新しい俳句を声に出して詠んで、書き留めた。

「五月雨の降りのこしてや光堂」

 何やら分かったような分からぬような気がする俳句だ。雨は降っていないのに五月雨らしい。光堂とやらが、今見てきた金色堂だろう。

「もう一箇所寄っていくよ。そちらはお前さんも一緒に見に行こう」

「お供します。どこですか?」

「金色堂旧覆堂だよ」

「旧ということは古いのですか?」

「ああ、昔の覆堂だからね。今は空っぽだけど、そちらも見ておきたい」

 空の建物を見るのか。それはまた哲学的な。空猫は師匠の横に並び、とことこと歩いてついていった。

 前方に古びた建物が見えた。それとともに、道の左手に銅像が建っているのが見えた。着物を着て、杖を持っているお爺さんだ。師匠はその前に立ち、真面目な顔をしてじっと見つめた。

「知り合いですか?」

「うん? ああ、一方的にね」

「銅像になっているぐらいだから、かなり昔に亡くなったのでしょうね」

「江戸時代だね」

「有名な人なんですか?」

「銅像になっているぐらいだから、そりゃあねえ」

 それもそうだなあと空猫は思う。無名な人の銅像を、わざわざ造ったりはしないだろう。

「どんな人なんですか?」

「俳句の神様だよ」

「えっ、そんな偉いお方だったんですか。それじゃあ、せっかくだから拝んでおきます」

 空猫は、ぴょこんと頭を下げた。師匠は、銅像の前でしばらくたたずんだあと、金色堂旧覆堂に向かった。そのあとを追いながら空猫は、背後の俳句の神様を見る。旅姿だった。あの人も旅をしたのかなと空猫は思った。

 平泉での聖地巡礼を終えた。月見坂をくだり、中尊寺から出るときに、頭の上でもぞもぞと何かが動いた。

「空ちゃん、ちょいと言いたいことがあるんだが、いいかい?」

 コガネムシだ。空猫は目を上に向ける。

「何ですか、姐さん」

「嫌な気配が、遠くからゆっくりと近づいているよ。これはあれだね。邪気という奴だね」

 空猫は驚いて、コガネムシが指し示す方角を見る。離れた場所、山の木々の合間を、化け猫の目で見る。

 黒い犬がいた。尋常の犬ではない。妖怪変化のたぐいだ。影犬。いつの間にか姿を取り戻したそいつは、獰猛な牙を口からのぞかせていた。体は前よりも大きくなっていた。

「どうするんだい、空ちゃん?」

 おびえながらコガネムシが言う。どうやって追って来たのかと空猫は考える。におい。犬の姿をしているのならば、そうであろう。撃退できるか? いや、距離がある。では無視するか? それもまずいだろう。このまま放っておくと、いずれ追いつかれる。今のうちに対策を講じたい。

「姐さん、少しだけお師匠さんの注意を引いていてくださいな」

「あいよ」

 コガネムシは、師匠の顔に体当たりをする。

「うわあ、何かが顔に飛んできた!」

 師匠が目をつむり顔を押さえる。空猫は喉を震わせて目を輝かせる。

「木々の芳香よ、人々の残香よ、幻のついたてとなり、我らの姿を隠せ」

 敵を惑わすための幻術だ。空気が幾重にも折り重なってカーテンのようになる。遠くの山の斜面にいた影犬が、きょろきょろする。幻術は成功した。師匠と空猫を見失ったのだ。

「何だよもう驚いたな。空とよく話しているコガネムシじゃないか」

「ええ。少しお師匠さんの顔に突っこんでもらいました」

「もう、射的の的じゃないんだから」

「それよりも、早く行きましょう。ここを立ち去るべきです」

 空猫は師匠をうながす。

「どうしたんだい、神妙な顔をして」

「私もたまには、そういう顔をします」

「そうだろうなあ。私もするしなあ」

 師匠は何かを悟ったのか、空猫を抱えて歩きはじめた。


 ヒッチハイクで尾花沢を目指した。乗用車に乗せてくれたのは、五十歳ぐらいのスーツの男性だった。髪を七三に分け、黒縁の眼鏡をかけている。顔は四角くて目は細く、柔和に垂れていた。営業の仕事で東北各地を回っているらしい。暇な時間の話し相手を確保するために、ちょくちょく人を乗せているそうだ。どうせガソリン代は会社の金だしね。男性は笑みを浮かべて、そう言った。

「猫と一緒に旅をしているんですか?」

「ええ」

 膝の上の空猫をなでながら師匠は言う。

「いいなあ。私も猫好きなんで、うらやましいですよ」

 師匠と運転手は、年も近いせいか、昔のテレビ番組や音楽など、共通の話題で盛り上がった。

「普段から、ヒッチハイクで旅をしているんですか?」

「いえ、そういうわけじゃないです」

「何か、旅に出るきっかけがあったんですか?」

「執筆の仕事をしているんですよ。それで、猫との旅行記を書こうと思いまして」

「そりゃあいいですね。でも猫を連れていて、宿はどうされているんですか?」

「こっそりと潜りこませています。こいつは大人しいですからね。じっとしておくべき場所では、じっとしておいてくれますから。頭がいいんですよ。猫とは思えないほどにね」

「へー、なるほどねえ。それで、猫と一緒に旅行ってことは独身なんですか? 恋人や家族がいたら、妬かれるでしょうから」

 師匠はすぐに答えず、空猫に触れる。

「いろいろとありましてね」

 男は何かを察したように、話題を打ち切った。

「じゃあ、別の話でも。向かう先の、安くて美味い店を紹介しておきますよ。営業の楽しみの一つですから」

「そりゃあ、ありがたいです」

 師匠は明るい声を返す。

「空ちゃん」

 コガネムシの声に空猫は反応する。

「気配を感じるわよ」

 空猫は顔を上げて、師匠の肩によじ登る。空猫の頭の上に、コガネムシがぴょこんと顔を出す。空猫はリアガラスの向こうに視線を注いだ。

 遥か後続の車の屋根に、黒い粘液のような影犬がいる。先ほどの呪術では逃げ切れなかったか。こちらの移動に気づいて追ってきたのだ。影犬はゆっくりとした足取りで、車の屋根から屋根に渡っている。このまま放っておくと、徐々に距離を詰められ追いつかれてしまう。

「どうしたんだい?」

 師匠が振り向いて尋ねる。

「ねえ、空ちゃん。あんたのお師匠さんは、あれが見えるのかい?」

「さあ」

 正直分からない。

 師匠は空猫の様子を見て、シートベルトをゆるめて背後に体を向けた。

「何を見ているんだい?」

「何か見えますか?」

「後続車がどうかしたのかい?」

 どうやら見えていないようだ。何度か確認したが、やはり師匠の目には映っていない。そういえば師匠は、コガネムシの言葉も分からない。師匠が持っているのは化け猫限定のコミュニケーション能力だ。

「仲がいいですね。まるで猫と話ができるみたいですよ」

 ハンドルを握る男は、微笑みながら言った。

「少しだけ話せるんですよ」

「えー、いいですねえ。昔から話せたんですか?」

「一年半ほど前からですね」

「へー」

 冗談を言っていると思っているのだ。運転席の男は、にこにこしながら聞いている。空猫は師匠のスマートフォンを盗み見たときのことを思い出す。写真の一覧で、師匠の行動がおぼろげながら分かった。妻子の写真のあと、空白の期間があった。そして街角で猫を写した写真が並びはじめた。その頃に、化け猫と話せるようになったのだろう。師匠の人生に何かが起きて、化け猫と会話ができるようになったのだ。

 空猫は後部座席の背もたれに飛び移る。親切な営業さんに配慮して、車を傷つけないように爪を立てずにバランスを取る。次の呪術を使おう。空猫は、後続の長距離トラックの荷室に狙いを定める。影犬がやってくる経路にある一台だ。

「箱よ、檻よ、影を飲みこみ、その内に押しこめよ」

 影犬が、トラックの荷室の上に飛び乗った。その瞬間、水の上に着地したように、とぷんと中に飲みこまれた。

 よし、上手くいった。師匠が乗った車は営業のために街を巡る。長距離トラックは遠方まで行く。おそらく行き先は違うはずだ。別の場所に運んでくれれば御の字だ。狙いどおりトラックは、営業車を追い抜いて先へと進んでいった。

「すごいじゃない、空ちゃん」

 コガネムシが、空猫の頭をぺしぺしと叩く。空猫は得意そうな顔をした。

 猛烈な眠気が襲ってきた。立て続けに力を使ったせいだ。空猫は化け猫としては若い。力はそれほど強大ではない。これで上手く行かなければ、無防備な状態で襲われることになる。

「姐さん、何かあったら叩き起こしてください」

 空猫の目蓋が徐々に落ちていく。

「空ちゃん、大丈夫?」

「少し眠れば回復します」

 空猫は師匠の膝の上に転がりこむ。そして、まどろみの中に沈んでいった。

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