第19話 選べない未来(後編)

 蒼子には、蒼子の事情があった。蒼子は、誓約書に署名捺印しておけば智久は黙るだろうと鷹を括っていた。鷲巣と準備をしていた、智久には内密に計算された相続分割を敢行出来るものだと。しかし実際は、思惑と正反対となる。

資産総額を隠している事に智久が執拗に異を唱え、会社の名義変更に執拗な印鑑証明書も母・絹子の銀行関係の書類も提出を拒んだのだ。鷲巣曰く、母・絹子の最終的な口座残高が必要なのだと言う事だった。鷲巣の尽力により、大体8対2の割合での遺産相続割合になっている。母・絹子の生前から秘密裏に行ってきた、ここまでの努力を智久の気まぐれで水泡にされてしまったと思っていた。

 姉弟の考え方は、若い時から正反対だった。それが、所有不動産に対するスタンスにも表れた。親が残してくれた不動産を持ち続けたい蒼子に対し、智久は古い不動産は売れるうちに売って新しい不動産に買い換えるべきと言うのである。

「マンションだろうが何だろうが、半永久的に所有し続ける事は不可能。買い手が付くうちに売って、新しい物件に投資すべきだ。」と言うのである。

そして、母・絹子も智久に感化されて賛同していた。蒼子が孤独の中、鷲巣だけが賛同してくれた。蒼子が、七十歳になった時迄の計算をして賛同してくれたのだ。

「このままの家賃収入を、態々放棄する必要はないでしょう。」

鷲巣のその言葉に、蒼子はどれだけ救われたことか。そして不思議な事に、母・絹子にあまり良い印象がないところも鷲巣を信じる要因になった。母・絹子の膵臓に癌が見付かり、鷲巣と相談しながらここまでやって来たのに全てが水の泡になろうとしているのだ。蒼子は、・・・・眼前の絵里を見た。

「この女は、いきなり現れて来て何なの?智久が来るかと思えば、妻ですって?いつの間に結婚なんかしていたっていうの?本当に、・・・・妻なの?」

そんな事を考えていると、なぜ智久がこの場に来なかったのかが気になった。

「それともまた、・・・・・何か企んでいるの?」

蒼子は、絵里を睨み付けながら聞いた。

『それで、智久は何をするつもりなの?私には、貴方達に払う無駄なお金なんてないのよ。本当に、強欲な人達ねぇ。私に、死んでくれって言ってるの?』

絵里は、呆れた感じで返す。

『最初に二千万円振り込まれた時には、正直智久さんも驚いていました。それは誓約書に署名捺印したところで、貴方が反古にすると思っていたからです。結局その後、本当に反古されるんですがね。それですので、私共は何も期待致しておりませんのでご安心下さい。それに・・・・・唯一振り込んであったそのお金も、結局一悶着あったじゃないですか。会社を継続していくと仰っていたので、それなりの経営理念とかがあるのかと思えば。会社のお金から、智久さんに振り込んだみたいですよね。どういうやりくりなのかは存じ上げませんが、数ヶ月後に鷲巣税理士から手紙が届きました。会社のお金を自由勝手に使われては、会計士としても税理士としても付き合っていられないという内容でした。何故かご自分の息子さんの話しなども書いてあって、少々理解に苦しみましたがね。その後会社がどうなったのか、お金をどうしたのかは知りません。智久さんは入金するお金は、貴方の自己責任の上で入金して下さいと何度も念を押していた筈です。後々揉めるだろうという事で、智久さんは全ての電話や話し合いを録音していました。この後に及んで、智久さんのせいにするのであればお聞かせいたしますが如何しますか?』

『・・・・・。』

『もう一度お聞きします、今日は何の話しなんですか?智久さんには、定期的にお手紙を送っていますよね。どこかの不動産を売却するとか、会社を清算するとか。しかし一度も、その話しが進展している事はないんじゃないんですか?逆に智久さんは、貴方が相続税を未納しているんじゃないかと疑っていました。その他の確定申告から固定資産税など、全ての納税をしていないのではないかと。今日の話しも貴方がしでかした不始末の、尻拭いの為の話し合いなんじゃないんですか?』

『何で貴方に、・・・・そんな事言われないといけないのよ。智久を、・・・智久を出しなさいよ。また狡賢く、何か企んでるんでしょう?』

『・・・・・。』

絵里は、何も応えなかった。

『ほらやっぱり・・・・智久も貴方も、お金の事には五月蝿いからね。何なのかな?智久は、この場に出て来れない程後ろめたい事があるんじゃないの?』

その時、弁護士の永野が口を開こうとした。だが、それを絵里が制した。それを見ていた蒼子が、ここぞとばかりに畳み掛ける。

『何・・・・?何か言えない事が、お有りなんですかぁ?貴方達みたいな、意地汚い人達には本当に辟易します。智久はどうせ、バツが悪くって逃げ出したんでしょう?肉親が、・・・・実の姉が困っていると言うのにも拘らず。この場に出る事が出来ない、何か都合の悪い事があるんでしょう。』

絵里が、・・・・ポツリと呟く。

『実の姉が・・・・、困っている・・・・?』

蒼子は興奮しているのか、絵里が呟いている事も気付かずに続ける。

『市内のマンションにコーポ、それに近県にあるマンションも買い手が付かない状況なのよ。そんな中、維持費にしても固定資産税にしても資金繰りは大変なの。智久の様に、何の苦労もしないでお金だけ要求している人間にはこの苦労は分からないでしょう?それなのに、相続分配金の事ばっかり言って。無いものは、無いの!』

ここで、永野が口を挟む。

『あの、・・・・よろしいですか?根本的に、相続分配金の支払いは一度しかされていません。そして残金の請求も、年に一度しかされていない筈です。これは、支払いが難しいのを解っての配慮なんですよ。それに不動産経営の難しさは、何方がやられても簡単なものではありません。だからこそ、智久さんは古い不動産は売却していくと仰っていたのではないですか。それでも会社を継続して、不動産管理業をやられていく決断をしたのは蒼子さんですよね。しかも、亡きお母様の意思に反して。そして弁護士の立場で言わせていただきますが、無いものは無いで罷り通る問題ではありません。それも、智久さんに言われた事がある筈です。誓約書を提示している時の会話で、その様な事を仰っている記録が音声テータで残っています。今蒼子さんの言っていた状況は、二年前の話し合い時に智久さんから指摘されていた事でしょう。』

絵里が続く・・・・。

『築四十年以上経つマンションがあると思いますが、「早く買い手を見付けないと買い叩かれてしまうのに。」と危惧していました。補強工事にしても何にしても、管理組合の話し合いに貴方が参加してコミュニケーションをとる事は難しいだろうと。その他の不動産にしても、現実的な指摘をされていた筈です。貴方がドタキャンした鷲巣税理士との話し合いで、智久さんに二十年後三十年後の話しをされたそうです。マンションにしてもコーポにしても、建築物も歳を取るのに未来永劫安定した家賃収入が入るって考えている。改装工事も補強工事も、建て直し工事にしても何も考えていないって言っていました。机上の計算だけで、現実的な展望を全く持っていないと言っていました。貴方が今不動産が売れないからお金がないって言っているのは、先の事を考えてアドバイスしていた智久さんの話しを無視したからじゃないですか。それを今更、自分は苦労しているなんて。勘違いも、いい加減にして頂きたいのです。』

『・・・・・。』

『それで智久さんに手紙で訴えていた、不動産の売却も会社の清算も上手く行かずに今回の話し合いになった。そういう事で、いいんですかね?そして先程から、隣にいらっしゃる方は親戚の方なんですか?さっきから何も言わずに、ずっといらっしゃいますけど。もしかして、弁護士さんなんですかね?』

小柄でかなりの年配に見える男が、絵里の問い掛けにバツが悪そうに応えた。

『初めまして、私が・・・・・鷲巣です。』

『えっ・・・・!』

絵里は驚きの余り、思わず声に出してしまった。しかし、それも当然の事である。絵里は自分が弁護士と同席していた為に、蒼子も弁護士を同席させていると思い込んでいたのだ。だが、絵里が弁護士だと思っていた男は鷲巣であった。

「今だに、・・・・税務関係を依頼しているっていうの?会社関係の事があるにしても、今だに・・・・?各納税でも、苦労しているのに?」

何となく不気味に思っていると、鷲巣が話し出す。

『お姉さまが困ってらっしゃる今、弟さんのご協力が必要と思いまして。私も一緒にお願いする事で、弟さんを説得出来ればと思いまして同席させて頂きました。琴美智久さんとはいろいろありましたので、逆効果かとも思ったんですがね。』

訝しげに鷲巣を見ながら、絵里は淡々と応える。

『智久さんの協力よりも、先ずは不動産の売却に尽力すればよろしいんじゃないんですか?どういう事でお困りなのか解りませんが、順番が可笑しいんじゃないんですかね。あくまで、不動産を所有しているのは蒼子さんですよね。何も手放す事なく、何にお困りなのかの説明もない。それで、協力だけはお願いする。二年前に相続の総額を隠蔽したまま、会社の名義変更から相続税の申告までを無断でしようとした時と同じなんですね。そういう事でしたら、私共は帰らせて頂きます。』

絵里がそう言って席を立とうとすると、慌てて蒼子が制止した。

『ちょっと、・・・・待ってもらえませんか。もう少し、話しを聞いて下さい。私達は何も、贅沢をしたくて困っているとは言っていなの。相続分配金の支払いが、滞っている事も十分解っているの。でもマンションやコーポの設備投資っていうか、内装工事等に結構なお金が掛かるの。空室が結構あって、先ずはその空室から始めるんだけど。その資金を、貴方達に支払った二千万円から少し融通してもらいたいの。たった二年前の事ですもん、まだ全然手を付けてないんじゃない?何なら智久に、銀行から借りてもらってもいいんだけどね。資金繰りに、貴方達の協力が必要なのよ。』

絵里は、平然と都合の良い話しをする蒼子の顔を蔑みの目で見た。そして蒼子の言った言葉に、気になる箇所があった。

「私達は何も贅沢したくってって、言ったんだよね。私達って・・・・。」

この人達って、どういう関係なんだろう。

「鷲巣って税理士は、一体何者なのだろう。」

絵里に、そんな疑問が湧いてくる。鷲巣は、七十歳位であろう事は容易に解る。肉体関係があるって訳ではないであろうとしたら、私達って言うほどの人間関係とは何なんだろうか。それに資金繰りと言っているが、この二年間この人達が何にもして来なかったって事なのか。絵里は、自身が抱く不信感をそのまま伝えた。

『ところで相続税申告書を作成する時に、琴美家の所有不動産で記載されていた分はこちらでも解ります。ですがこの時に、智久さんはお義母様から聞いていて書類に記載されていない不動産の存在を指摘していました。只その時には、蒼子さんの名義に既になっているのかもしれないと言ってそのままになっていました。根本的に隠している事が貴方方には多過ぎるので、不動産の内装工事等で設備投資をしなくてはいけない。そう言われましても、本当に不動産の設備投資にお金を使うのかを疑わざろうを得ません。』

『何を言っているんですか、そんな事はないですよ。会計士としても、税理士としても私が保証しますよ。なので、智久さんと相談してもらえませんか?』

『鷲巣さんに保証していただいても、信用する事は出来ません。元々は、貴方が相続の全貌を隠蔽したんじゃないですか。そして智久さんと電話で言い合いになった時の内容は、私も聞いていましたのでハッキリと覚えています。なのでお二人とも、信用という事でしたら出来ないんですよ。それに・・・・。』

ここで隣の永野が、自前のタブレットを絵里に渡した。絵里は不思議に思いながら手に取り、モニターを見て我が目を疑った。

「 

  神の声 


  皆さんと手を取り合って  幸せな未来へ


  暴力や誹謗中傷が蔓延る現代社会、皆んなで助け合って生きるこの世の天国。

  そんな世の中を、皆んなで作ろうじゃありませんか。

  一人一人が、主役になる社会を。


                    神の声  〇〇支部長  鷲巣維文

                                     」


絵里はモニターを見て、暫く固まってしまった。そして永野は、ゆっくりと小さく頷いた。


「何・・・・?何なの・・・・?この人達の繋がりは、新興宗教団体なの?」


 だとすれば、辻褄は合う。何故一介の税理士が、琴美蒼子に異常なほど協力するのかも。絵里が動揺して、何も話せないので永野が場を繋いでいる。ここで絵里は、慎重に考える事にした。永野がモニターを見せてくれなければ、「その不動産は、本当に今現在も所有されているんですか?」と聞くつもりでいたのだから。

相手が新興宗教団体の人間なのならば、踏み込んだ話しをすればこちらが危険に晒されてしまう。東京の実家には、一歳の子供を預けてきているのだ。何をする団体かも分からない、そんな組織の支部長が鷲巣なのだ。蒼子が大学院生の頃、新興宗教団体に勧誘されて行方不明になっていた事があるのは智久から聞いていた。と言う事は何十年も、御両親にも隠し通して生きてきたという事なのか・・・・。

 琴美蒼子と鷲巣維文、二人の関係が分かった以上こちらの事は何も言わない方がいいだろう。結局はこの神の声という宗教団体に、琴美家の遺産は吸い尽くされていたって事なのだろう。この実家以外の不動産は、もう無いと思った方がいい。いや、この実家も風前の灯火なのかもしれない。この事を、智久が知れば・・・・・。

『それではこれからの連絡方法としまては、こちらの永野弁護士を介していただきます。今回みたいに、何か話したい事がある場合は永野弁護士に連絡をして下さい。そして今回の件に関しましては、協力出来かねます。所有不動産を、幾つか整理して資金調達されて下さい。』

そう応えると、鷲巣が返す。

『まず、智久さんに相談してもらえませんか。奥さんだけで、協力出来ませんと言われてもねぇ。こちらと致しましても、智久さんの意見を聞きたいですし。』

そこに、蒼子も続けて言う。

『そうよ、貴方だけで決めないでもらいたいんです。智久に、連絡を付けて下さい。何の都合が悪いのか、今日の話し合いから逃げているんでしょう?若い頃に上京してから、ずっと家族に迷惑かけてきたんですもの。こんな時くらい、協力してくれても良いと思うの。だからほら、ちょっと今電話してみてよ。』

しつこく食い下がる蒼子を見て、永野が語気を強めて返す。

『止めて下さい、今日は何の件かも知らされないまま東京から話しを聞きに来たのです。この事自体、かなり横暴なやり方ですよ。それに初めての話し合いとういう事で口を挟みませんでしたが、根本的に相続の事についての話し合いじゃ無いじゃないですか。単純にお姉さんが営む不動産管理が、経営的に苦しくなっているので資金調達をしたいという事ですよね。それならば、まずは貴方方の経営計画や内装工事の見積り等を提示するべきではないですか。何の提示もないまま、只二年前に支払った相続分配金を戻してくれと言わんばかりの言い分じゃないですか。そんな可笑しなやり方でお金を貸してくれるのか、銀行に行って相談してみればいいじゃないですか。確実に断られるか、話しも聞いてくれないでしょう。』

蒼子も鷲巣も、何も言い返せないでいる。

『今貴方方が話している事は、そういう事なんですよ。私の顧客にも、不動産管理等を営んでいる方は沢山いらっしゃいます。皆さん、御自宅やその他所有不動産を担保にしたりして融資してもらっている様ですよ。鷲巣さんも、その様な顧客をお持ちなんじゃないですか?会計士で税理士でもある鷲巣さんが、何の資料も出さずに「私が保証するから」と言うなんて可笑しな話しですよ。それに先程蒼子さんが仰っていた通り、相続分配金の支払いが滞っているのは事実なんです。資金調達よりも先に、不動産を売却して経営計画などを提示した上で話しをするべきでしょう。だから、相続分配金を払えない。払う為に、空室を埋めて家賃収入を増やしたい。なので、改装工事等の資金を調達しなければならない。だから、我々はこうしたいんだという話しをしなければならないんじゃないんですか。初めに、私は弁護士の永野ですと言った筈です。その弁護士の私の目の前で、よくもまあいい加減な事ばかり言えますね。』

永野の話しが一段落ついたとこで、絵里が再度確認する様に言った。

『これから話しがある時には、弁護士の永野さんを通して下さい。そして、郵便でも直接郵送するのは止めて下さい。今日の相談に関しては、お断りさせていただきますので他の方法をお探し下さい。』

そう言って、絵里は小さく会釈をした。そして永野が、これでいいでしょうという感じで締める。

『では本日は、ここまでという事でよろしいですね。今言いました通り、これからの連絡は私を通してという事でお願いします。これは、絶対に守って下さい。これまでお二人は、かなり雑な感じで接触や応答をしていた様ですからね。今日、弁護士の私が同席した意味をよく考えて下さい。これからお二人には、守るべき事は守ってもらいます。』

その言葉で、絵里と永野は席を立った。絵里の足下に、チャロが纏わり付く。

『あらぁ〜、君がチャロ君ですか。初めまして、智久さんの奥さんの絵里ですよ。』

まるで言葉が解っているかの様に、チャロは涙目でしゃがんだ絵里の顔を舐める。

『あれ?トモ君の匂いがしますか?』

懐かしむ様に、甲高い声で愛らしく鳴きながら絵里の匂いを嗅ぐ。まるで、智久の匂いを懐かしむ様に・・・・・。

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