第16話 幸と不幸(後編)

 迎えた八月十四日、智久は朝八時の便で故郷へと向かう。渋滞に巻き込まれる事なく、実家には十時半前には到着出来た。インターホンを押し蒼子の応答を待つと、意外な事に待たされる事なく中に入る事が出来た。チャロの手荒い洗礼を受け、先ずは仏壇に手を合わせる。そして、面倒な事は先に済ませようと智久が切り出した。

『十三時にはお寺さんに行かなければならないんで、サッサと誓約書の方を済ませましょう。』

そう言って、テーブルに誓約書を差し出した。

『内容を確認して、納得してから署名捺印して下さい。解らない事があれば、聞いて下さい。』

蒼子は、無言で眉間に皺を寄せたまま誓約書に目を通し出した。

『お金は一括では無理なんで、分割で払っていいですか?』

『はい、・・・・それはお任せします。只分割って言っても、金額が金額なんで一回の支払いは最低一千万以上でお願いします。毎月五万円ずつで、なんて言うのはやめて下さい。』

数回頷き、蒼子は視線を誓約書に落とした。暫く読み進めて、また口を開く。

『会社の資産総額は、一億四千万になっています。いくつかの不動産を、売却するつもりです。ですが、変動が御座いますのでその事は書いてないんですか?』

智久は、溜め息を吐きながら呆れた感じで返す。

『いいですか!不動産でも証券取引でも、御自分の判断で自己判断の下やるのが世の中では常識です。私も税務署にしても、貴方が売り時や決済時を間違えたからといって考慮する事は御座いません。私の個人情報の事にしてもそうなんですが、少し世間一般の事と照らし合わせてお考え下さい。』

すると蒼子は、あからさまに不貞腐れて言い放つ。

『ええそうですよね、私はどうせ頭のイカれた人間って事ですよね!』

今度は、大きく溜め息を吐いて智久が応える。

『ふぅ〜・・・・、受け取り方はお任せします。只悪意を持って、歪曲して受け取るのはやめて下さい。どちらにしても貴方と鷲巣会計士が、今この段階になってでも相続の総額を隠している事に変わりはありません。私の言葉を如何受け取ろうと自由ですが、なぜこの様な事態になってしまっているのかをよくよくお考え下さい。』

すると蒼子は、すくっと立ち上がり自室に戻って行った。智久は目で追う事もせず、只蒼子の戻って来るのを待つ。ほんの二・三分だろうか、印鑑を持って蒼子が自室から戻ると口を開く。

『ここに署名すればいいのね!・・・・・本当、お金が絡んだ途端人は変わるんですね。実の弟が、こんな金の亡者とは思いませんでした!』

視線を合わせる事なく、嫌味を言いながら蒼子が署名と捺印をしていく。智久は、何も言わずに只々堪えた。次に、蒼子が放った言葉を聞くまでは・・・・・。

『本当、親子ってよく似るもんなんですね!琴美絹子さんと、よぉ〜く似てらっしゃる。全てが、そっくりだもんねぇ。』

カッとなった智久が、衝動的に口を開いた。

『この後に及んでも、まだ自分は理不尽に追い込まれた被害者だって思っているんですね。肉親として、・・・・姉弟最後のお節介として言わせてもらいます。お袋の看病もした事なく、闘病中のお袋に家事を全てやらせる。その上で、通院の送迎も車があるにも拘らずにやらない。入院しても、病院に顔を出す事もしない。一人で不安になりながら、癌と闘うお袋を助ける事は何もしなかった。やっていた事といえば、鷲巣会計士と結託してお袋の意思に沿わない会社の継続を画策。まるでお袋が亡くなるのを、手ぐすね引いて待っていたかの様な所業。貴方が私を嫌っているのは、私にしてみれば如何でもいい事なんです。只貴方がお袋にした事を、私は絶対に・・・・死んでも許しませんから。憎まれ口を叩くのも結構、私を嫌うのも結構。会社を継続していくのも結構でしょう。お好きにおやりなさい!・・・・・大学院まで出て、社会には出る事なく二十数年生きてきた貴方が。一度も自分の手で、お金を稼いだ事のない貴方が。出来るもんなら、やってみるがいいでしょう。世の中がそんなに甘いものなのか、たっぷりと味わってみて下さい。世の中が甘かろうが厳しかろうが、不動産価格が上がろうと下がろうと私は一切関知致しません。この誓約を、守っていただくだけです。ですのでこの誓約を反故にする様な事があった場合は、弁護士を通しての対応に変えさせていただきます。これが姉弟として、私が貴方に言う最後の言葉でしょう。もう少し周りを見て、人の心を考えて生きて行っては如何ですか?年金だなんだと老後の事をお考えの様ですが、国が年金を支払えなくなる未来を危惧する報道を見聞きした事さえないのですか?その時に、貴方の周りには誰も居ないのではないですか?五十を前にして、「私は孤独でいいの」なんて言うおつもりですか?一度、御自分の胸に手を当ててじっくり考えてみて下さい。』

それを聞いて、蒼子は益々激情して言い放つ。

『はいはい、頭の可笑しい姉で申し訳ありませんでした!』

智久は、瞼を閉じて続けた。

『では、最後に確認しますね。税理士とは、誰とも契約していないんですね?』

『はい、・・・・税理士は頼んでいません。』

『次に最初の入金は、今月中に出来ますか?』

『はい、・・・・大丈夫です。』

智久は、蒼子があっさりと返事をしたので驚いた。最低一千万は支払ってくれと言ったのにも拘らず、何の躊躇も無く二つ返事ですんなり承諾した。智久としては、ここで、いくつかの妥協案を提示するつもりでいた。例えば一周忌が終わるまで支払いは待って、その間に話し合いが持たれるのであれば臨機応変に見直して行く。

もしくは何かの不動産が売却出来るまで待ち、その都度その後の支払いを話し合う等を考えていたのである。それなのに、意外な事に二つ返事で承諾するのだ。

「そんな金、持ってねぇだろ!」

と、突っ込みたくなりそうなのを堪えたくらいだ。智久は絵里と相談して、お金の支払いは長期的なものになると思っていた。なので厳しい誓約書にして、抑止力としての効果を狙っていたのである。

「どうせ、払えはしないんだから。」

そう思っていたので、蒼子が最低一千万の支払い制限をすんなり受け入れた事に驚いた。そして智久はこんな大金の支払いを、二つ返事で承諾する蒼子の事を疑った。

「どうせ、支払う気なんかないんだろうな!」と・・・・・。

しかしここは、敢えて何も言わずに話しを進める。

『では・・・・、お願いします。そしてそのお金に関しては、御自分の自己責任の下御用意下さい。先程の不動産価格の件にしても、変動等の事は不動産会社と相談して下さい。その他に、「じゃあ、強盗してでも作ります。」なんて事を私に言われても迷惑ですので。・・・・・よろしいですか?』

蒼子は、憮然として頷く。

『分かっています!』


    誓約書


  一、分割相続として(有)コトミの資産総額一億四千万円の半額、七千万円

    を現金で支払う事を約束します。


  一、最初の支払いを令和四年八月末日までに、指定された銀行口座に入金す

    る事をお約束します。


  一、琴美智久氏の個人情報を、無断で使用・漏洩しない事を約束します。


  一、相続税の納付に共同で取り組む事を約束します。


  一、無断で身勝手行動をしない事を約束します。



この誓約書に署名捺印してもらい、智久は蒼子と一緒に初盆の法要の為にお寺へと向かった。タクシーに揺られながらお寺に向かう道中、智久はこの誓約書は簡単に反古されるだろうと思いながら溜め息を吐いた。




 その頃東京の自宅では、時間を持て余した絵里がパソコンを立ち上げて何やらやっていた。智久の作った楽曲が、如何したら認知される様になるのか。ネットで調べながら、智久がまだやっていないアプローチを模索してしていた。

『せっかく作ったのに、何で配信しないんだろうな?もしかして、まだ完成してないのかな?』

そんな独り言を呟きながら、モニターを見ていると未読メールのマークが点滅した。中身を確認すると、誓約書の写真が添付されていた。

『あっ、・・・・・署名捺印してくれたんだ。』

頷きながら見ていると、まだ幾つか残っている未読のメールを確認していく。

すると、病院からのメールが出てきた。

『・・・・・何だろう?』

メールの内容は、健康診断の結果が出たので来院してくれとのメールであった。

『あ〜バタバタしていたからな、忘れてるんだろうな。』

絵里は、そう呟いてまた智久の楽曲配信について模索し始めた。この時には、まだ気付く事が出来なかった。

二人の幸せの時間が、終わりに向かおうとしている事に・・・・・。





 意外な程すんなりと誓約書に署名捺印してくれた為に、お寺さんに予定よりも早く到着した智久と蒼子。言葉を交わす事なく、静まり返ったお堂で住職を待っていた。暫くすると住職が現れ、深く一礼をして語り出す。

『本日は・・・・・・。』

住職の説法の後、お経が読まれて初盆を慎ましく執り行った。智久は瞼を閉じて、これからの事を考えていた。絵里との結婚生活、そして生まれてくる子供のこと。蒼子との事よりも、正直に言えば絵里と生まれてくる子供の事に全てをシフトしたい。今日すんなりと誓約書に署名捺印したからといって、安心は出来ないにしても今日で一段落着けたいと思っていた。正直に言えば、こんなみっともない揉め事は早く解決したい。しかし母・絹子の闘病中にしていた、蒼子の余りにも冷血で薄情な対応を知っている。母・絹子が弱っている事をいい事に、イビルかの様な対応をしていた蒼子に何かの制裁を下したかったのだ。そして絵里と子供に、蒼子を近付けない様にもしたかった。

「もしかすると、これが最後の帰郷になるのかもしれない。」

そう考えながらお経を聞いていると、両親の事や幼い頃の事が蘇ってきた。そして上京する時に、母・絹子に言われた言葉を思い出した。

『いいね。東京みたいな大都会に行けば、アンタなんてただの地ゴロ(田舎者)なんやけんね(なんだからね)。騙されたり、利用されたりする事もあるやろう。全ての人を疑えとは言わんよ。ばって(しかし)友人だろうが職場だろうが、我慢をせにゃいかん(しなくちゃいけない)人間関係は断つごとせんと(断ちなさい)。』

上京して二十年、母・絹子にはギリギリ報告出来たが顔は見せられなかった。

そして、子供ができた事も報告出来なかった。色んな人と出会い、良い事も悪い事も色んな経験をした。だが一番厄介で我慢を伴う人間関係は、姉である蒼子との関係である。今回の事で姉・蒼子との関係は、殆どなくなっていくだろう。お金を払おうが払うまいが、智久としてはこれで終わりにしたいと思っている。初七日を迎える頃から抱えてきたストレスから解放されると思うと、智久は何となく肩の辺りが軽くなってきた気がした。

 法要も終り一旦実家に戻った二人は、改めて仏壇に手を合わせた。そして言葉を交わす事なく自室に戻る蒼子を横目に、智久が実家をゆっくりと見回していると足下にチャロが絡み付いてきた。智久はチャロを抱き上げ、ゆっくりと室内を歩く。まるで生まれてくる子供を、抱っこする練習をしてるかの様だ。そんな感じで、ゆっくりと実家の中を歩いた。色んな事を思い返しながら・・・・。

二階に上がって両親の部屋に入り、両親の遺品や写真をチャロに話しかけながら見ていった。

『なぁ〜チャロ、親父もお袋ももうおらんごとなったんやぞ(居なくなってしまったんだよ)。寂しくなったけど、お袋もチャロのおったけん(居たから)闘病頑張れたって言いよったぞ。』

階下に降り、居間から仏壇のある座敷に入る。何となく涙ぐんでるチャロを、優しく撫でながら仏壇を見る。そしてまた赤子をあやす様に、だっこしながら実家の空気を確かめていった。柱時計の時間を確認して、チャロを下ろして話しかける。

『なぁチャロ、恐らくこれが今生の別れになるやろう。かなり変わった飼い主やろうけど、可愛がってもらって長生きせろよ。ちゃんと飯は食わせてもらえ。色々と、お袋ば励ましてくれて有難うな。じゃっ・・・・達者でな!』

顔を近付けて話す智久の意を汲んだ様に、チャロは智久の顔を優しく舐めた。智久はチャロの鼻先に、軽くキスをして荷物を取った。そして玄関で靴を履き、振り返って深く々一礼をした。

「長い間、本当にお世話になりました。」

心の中で、そう言って智久は踵を返し扉を開けて実家を出る。チャロは、目を潤ませて智久を見送っていた。そして智久は、予約していたタクシーに乗り空港へと向う。

これが、智久最後の故郷となった・・・・・。




 お盆休みをバタバタと過ごし、やっと普段の生活を取り戻した智久と絵里に衝撃が走った。昼休憩を終えた業務中の智久に、絵里からの電話が掛かる。

『トモ君大変だよ、・・・・・大事件だよ。』

『ちょっと・・・・待って、・・・・何?・・・・如何したの?』

『今日、銀行に積立N ISAの手続きで行ったんだけどさ。』

『うん・・・・、何かあったの?』

『入ってるんだよね・・・・・。お金が・・・・・。』

『ん〜・・・・、今度は何の金が入ってんの?』

少し間を取って、絵里が自分を落ち着かせる様に言った。

『振込人名琴美蒼子で、トモ君の口座に二千万円が入金されてるんだよ。』

『はぁ〜、・・・・・って事は相続分配金って事か。誓約書に署名したから、本当に支払ったんだ。何か・・・・・、意外だな。』

『でも兎に角、本当に入金してあるよ。・・・・如何しよう?』

『如何もしないけどさ、・・・・取り敢えず帰ってからゆっくり話そうよ。』

『うん、・・・・分かった。じゃあねぇ。』

智久は、蒼子が約束を守った事が意外だったので少しドキドキしていた。しかし落ち着くにつれ、相続分配金が支払われているという当たり前の事である。これから数年掛かって、年に一回支払われる予定である。

『だとすると今週末の税理士との打ち合わせを済ませたら、本当に一段落って考えていいのかもな。』

午後の業務を終えて帰宅した途端、智久は絵里から腕を取られてパソコンの前まで引っ張られた。モニターを指差して、絵里は智久に確認を急かす。

『ほら見てよトモ君、本当に入っているんだってば。』

『ん〜、・・・・俺も本当に入金するとは思っていなかったけどさ。約束を破ると思っていた人間が、約束を守ったってだけじゃん。それに入金がなかった時の事を考えたら、入金されてて驚いている今の状況の方がいいでしょ?』

『ん〜・・・・まぁ、そうなんだけどさ。』

『そんでさ、今週末の税理士との打ち合わせに絵里も同席してよ。この間の打ち合わせで、いくつか揃えとかなきゃいけない物は準備したじゃん。だから後は、実家とのやりとりを如何頼むかになるからさ。絵里にも、如何いう感じなのかを解っといてもらいたいんだ。』

『オッケー、解った。』

 こうして週末に税理士と相談した内容は、一般的なものとはかなり違うものになった。まず根本的に変わった人間だという事を説明して、連絡が取り難い事も付け加えた。結果、まず文書で実家の電話に電話する日時を伝える。そしてその後、先に提示してある日時に電話をする。それでも連絡が取れない時に、携帯のショートメールで打診する。最後に、携帯に直接連絡すると言った順序だ。まあ常識的には考えられないが、こうでもしないと期限を切られている以上呑気に付き合っていられない。確実に十ヶ月以内に納税する為に、面倒だが蒼子に合わせた連絡方法を取る事にした。年内に終わらせなければ、確定申告等で税理士もなかなか忙しくなってしまう為でもある。東京と地方都市での長距離でのやり取りでもあるので、十分に気を配りながらの作業になる。

税理士との打ち合わせを終え、絵里が智久に聞いてきた。

『前回の打ち合わせで、ある程度の事は伝えていたの?』

『ああ、かなり厄介だってね。だから最初に相談に行ってから、向こうも一度会社で相談させてくれって言われたもん。ここまで関係の悪い案件だと、長距離だから上司がストップをかけるかもしれないって言われてさ。特に実家にはパソコンがないからさ、その上電話連絡も付き難い変人相手だもん。もしかしたら、断れるかもしれないってヒヤヒヤもんだったんだよ。』

『そうだったんだ。』

『うん、でも何とかオッケーが出たんでね。先ずは、今だに解らない相続の総額を調べないとさ。その資料を、蒼子と鷲巣から開示させなきゃならない。だから、報酬もそれなりに掛かるって事だけどさ。』

『そうか、入金されていたから終わりって思っていたけど。よく考えればそうだよ、総額が分からないから会社の資産価値の半分で請求したんだもん。今だに、幾ら納税すればいいかは解らないままだもんね。』

『そう、・・・・だから税理士も何度か実家に行く事になるって言ってた。その経費もかかるしね。』

『そうかぁ・・・・・。』

『まあ、後はプロに任せましょ!俺達は、子供の事に集中しようよ。』

『うん、・・・・そうだよね!』

この時には、まだ二人は気付く事さえ出来なかった。

蒼子が、・・・・既に奇行に走っている事に。

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