第12話 虫螻(前編)

 水を得た魚の如く、蒼子は勢い良く話している。普段の不貞腐れて無愛想な蒼子は影を潜め、信じられない程の笑顔で朗らかに説明をしている。智久は説明を聞きながら不思議に思い、蒼子の差し出した資料に目を向けた。そして、書類を読み進めながら心の中で囁いた。

「これは最初から、会社の閉鎖をする事なく準備されていたものだ。」

そして蒼子の説明も、絹子が如何いう風に言っていたとか関係なく進められる。智久は蒼子の説明を一通り聞き、蒼子の目を見て聞いた。

『お袋が言っていた話しと、全然違うんやけど如何いう事?』

『・・・・・。』

一転、蒼子は押し黙ったままだ。自分の都合が悪くなると、不貞腐れたり押し黙ったりする。子供の頃はそのまま自分の部屋に閉じ籠って、両親が根を上げるまで粘っていたものだ。智久は、語気を強めて再度聞いた。

『都合が悪くなったとしても、説明責任が貴方にはあるでしょ。何?馬鹿な弟は、何も聞かずに言う事を聞いていればいいって事なのかな?』

『そんな事は、・・・・・言ってないけど。』

『お袋が亡くなる前に電話で言っていたのは、六月中に会社の閉鎖が終了するって貴方が言ってくれたって事。だから胸を撫で下ろして、生きているうちに整理する事はするけどあとは頼むって言われていた。でもこの書類を見ると、会社の閉鎖なんて微塵も書いていない。始めっから会社を継続する事だけがあって、その準備に関することしか書いていない。しかも、この準備万端って感じも気に入らないね。』

そこまで言われると、蒼子がムキになって言い返してきた。

『私にだって、いろいろあるんです。将来の事を考えると、年金の事とかいろいろ考えているんです。だから・・・・』

そこで、智久が割って入る。

『だからお袋の送り迎えから、普段の食事洗濯まで手が回らずに全部お袋にやらせていたって事かな?お袋の闘病生活に何一つ協力せんでおって(しないでいて)、年金の心配とはそれはそれは大変ですなぁ。』

『・・・・・。』

またダンマリを決め込んだ蒼子を見て、智久は辛辣に言い放った。

『これはお袋が亡くなるのを、手ぐすね引いて待ち構えていたみたいやね。待ってましたとばかりに、色んな書類が出てくるしね。貴方の協力者も、さぞかし大変だったでしょう。はっきりと言っておくけど、お袋が閉鎖するって言っていた会社を継続していく事には反対です。如何しても会社を継続して行きたいのであればお一人でやって下さい。大体会社を継続したいのであれば、その事をお袋なり俺になり相談する必要があったでしょう。それもなくお袋が亡くなるまで何の相談もない、その上な亡くなったら何事もなかったかの様に書類を作成するって言われてもねぇ。アンタは、黙って印鑑証明書を提出すればいいって感じでの進め方には何一つ協力しませんよ。それにこの会社が如何いう経理状態なのか、不動産をどれだけ所有しているのかとかの説明も何もない。にも拘らず、黙って名義変更の為に印鑑証明書を出せだぁ?馬鹿にすんのもいい加減にしとけよ!』

すると蒼子は、すくっと立ち上がり二階の自室へと駆けて行った。ドタドタという足音と共に蒼子が戻ってくると、智久の前に一冊の銀行通帳を差し出した。

『これが、この会社の全てです。』

そう言って置いたのは、(有)コトミ名義の口座の通帳だった。智久が中を見ると、一行だけ記入されている。十年前くらいの日付で、二千万円と書かれた以外は何の記入もされていない。智久は、溜め息を吐きながら言った。

『恐らくこれは、会社の名前を変更した時のでしょ?法務局に、資本金として提出した時のままなんじゃないの?こんなの見せられても、何の説明にもならん事くらい分からんかなぁ。こんなんじゃあ、今の会社の経営状態の説明にはならんやないの。それと、座ってもらっていいかな?なんか俺が、怒りちらしてるごたるけんさ。』

蒼子は不貞腐れて、吐き捨てる様に言った。

『怒られているのと一緒なんで、本当琴美絹子さんと一緒。よう似とる!』

この一言で、智久は心を決めた。

『うん、よく解った。だったら、貴方の忌み嫌う絹子と智久には関係なくやればよろしいでしょう。この件からは、俺は全面的に撤退させてもらいます。会社をやりたければ勝手にやればよろしいし、その他の事もご自由にどうぞ。会社の事も家の事も、何の話し合いもなく貴方がやっていくのであればお好きにして下さい。遺産相続の話し合いも全くしないまま、貴方が何をしようとしているのかは俺には全く分かりません。そして、お袋から生前聞いていた話しとは全く違うんでね。このお袋の意思を全く無視した、こんな卑怯なやり方は俺は絶対に許しません。』

この日の話しは、これで終了した。




 翌朝、智久はチャロに舐められながら目を覚ます。柱時計に目をやると、時間は七時になろうとしていた。智久は起き上がり、玄関を開けてチャロに用を足させる。その様子を寝ぼけ眼でぼうっと見ながら、昨夜の事を思い返していた。

 昨夜智久は、母・絹子が今月中に閉鎖し終わると言っていた会社の事で蒼子と揉めた。(有)コトミというこの会社は、絹子が幾つかある不動産の管理の為に所有していた会社である。智久は所有不動産も収支も何も知らないのだが、琴美家ではこの二十年くらいの唯一の収入源になっていた。只その幾つかの不動産も、半分くらいは手放して残りの半分は老朽化が進んでいる。一見すると不動産収入で安泰の様にも見えるのだが、実情はそうもいかないものなのである。マンション・アパートなどの賃貸物件は、当然入居者がいてナンボのものである。そして入居者の有無に拘らず、維持費はかかるのである。外装内装に水回りにエアコンと、使っても使わなくても定期的に入れ替えなくてはいけない物が幾つもあるのだ。そして意外と純利益は上がらないもので、生前に絹子も頭を痛めていた。しかもマンションに至っては、築四十年にもなる物件だ。一棟丸ごと所有しているのであれば問題ないが、琴美家の場合は一部屋を投資物件として購入して貸している。建物全体に補強工事が必要となっても、組合で居住者全会一致の合意がなければ工事の施行は許可されない。

 そこまでを考えたところで、智久はそんな事を蒼子が考えているのかと思った。音楽大学までは優秀な成績で卒業したが、在学中の宗教団体に入信したトラブルもあり社会経験は無い。父親が新たなトラブルを嫌い、大学院を卒業後実家に呼び戻して社会に出さなかった。なので働いた事もなければ、世間の事も何も知らないで年だけを重ねて四十後半の人生なのである。その上炊事洗濯などの家事も、闘病中でさえ全て絹子にやらせていたのだ。本当に、「お勉強しか出来ない馬鹿」を自で行っている。

『ふぅ〜・・・・初七日まで済ませたら一回帰京して、初盆に備えてって事になるけど大丈夫なのか?まあ兎に角、銀行口座とか携帯とかの契約解除なんかからやっていかないとな。』

そう呟いてチャロを部屋の中に入れると、智久は昨日蒼子が差し出した書類を携帯で撮りメールで送信した。

「こりゃ、面倒臭い事になりそうだな!」

智久は心でそう思いながら、各種解約手続きに出かけて行った。




 各種解約手続きを済ませていきながら、智久は銀行の解約手続きに手間取り東京支社での手続きにしてもらい帰京する事にした。窓口での解約は予約をしてからでないと受け付けられないという、何とも古臭い手順になっていたからである。保険証等を含めて市役所での用事を済ませ、智久は弁護士事務所の無料相談を予約していた。

これから如何いう事になるのかについて、世間一般の対策を参考にしたかったのである。こんなトラブルを抱えているのが異常なのか如何なのか、専門家に話しをして心を落ち着かせたいと言うのもあった。

市役所を出て県庁跡地の方へ歩きながら、智久は頭の中を整理していた。無料相談の時間は三十分、その短時間の間に何を聞けばいいのかを考えとかないと時間はあっという間に過ぎてしまうだろう。ブツブツと独り言を呟きながら十五分位歩いた所で家庭裁判所の方へ進路を取り、それからまた独り言を呟きながら五分程歩いた。

『え〜っと、・・・・・。』

家庭裁判所の対面に、幾つもの弁護士事務所が軒を構えている。智久はその中から予約した弁護士事務所を探し当て、エレベーターに乗りスマホのモニターを見た。

『ふぅ〜・・・・丁度時間か。』

目的の階に着き、予約していた弁護士事務所のインターホンを押した。

『十五時に予約していた琴美と申します。』

『どうぞ〜、お入り下さい。』

入り口のロックが解除され、智久は事務所内に入り十畳位の部屋に通された。女性の職員が冷たいお茶のペットボトルを出してくれ、智久は取り敢えず喉を潤した。そうしているとドアが開き、弁護士がにこやかな笑顔と共に入って来た。

『どうも琴美さん、担当させていただく黒澤と申します。・・・・それで、今日はどの様な御相談でしょう?』

智久は母親の闘病生活からの流れと、蒼子から提示された資料と話しの内容を説明した。勿論、母親から聞いていた話しと違う事も全て。

『ん〜・・・・それは、お姉さんとしては御母様が亡くなる以前から準備していたのでしょう。そこから考えますと、どれだけ話し合ったとしてもお互いが納得する事は無いと思いますよ。』

『えっ・・・・・?』

智久の驚いた顔を見ながら、弁護士は話しを続ける。

『琴美さん、これはよくある事なんです。私共の経験上この様な状況はよくある事ですし、この様な状況から話しが上手くまとまる事はほぼありません。』

『そうなんですか?』

黒澤弁護士は、智久の目を見て力強く応えた。

『はい、この様な状況から話しを好転させる事は前例がありません。』

智久は、溜め息を吐きながら返す。

『じゃあ、皆さん如何なされているんですか?』

『色々なパターンが御座いますが、話し合いをもって解決されるとしたら数年から十年位かけても如何にもならない。挙句民事調停をしても、なかなか解決しない。私共の経験上、話し合いは時間がかかると思っていただいた方がよろしいと思います。』

智久は、天井を見つめながら少し考え込んだ。

『琴美さん、お姉さんのことを今聞いただけで判断するのは難しいのですが。恐らくお姉さんは、数年前から会社継続の意思を持って準備をされていたのでしょう。書類を作った人が弁護士なのか誰なのかは分かりませんが、助言されている人がいるのも間違いなさそうですしね。だとしたら、お姉さんが会社を畳む事には同意するとは考え難いですねぇ。』

『そうですか・・・・・。』

『だとしたらその会社の資産価値で、その半分相当の金額を現金で請求しては如何ですか?その代わり、私はそれ以外の事には一切関与しないと言う事で。嫌らしい言い方ですが、お金で払ってもらって解決することを考えては如何でしょう。』

具体的な請求方法を聞いたところで、時間となり無料相談は終了した。

『兎に角琴美さん、姉弟で揉めているのは琴美さんの家庭だけではないんです。そしてこういうお金に関する話し合いは、感情が入り混じって長期化するのが一般的なんです。私の話しが、少しでも参考になれば幸いです。』

『有り難う御座います。言われた通り、お金で折半するのが良いんでしょうね。暫く考えて、如何するか決めようと思います。』

智久は、会釈をして弁護士事務所を後にした。スマホ内の写真を見ながら歩いていると、蒼子から渡された書類の写真に会計士の名前が書いてある事に気が付いた。

『チッ・・・・頭に血が昇って、こんな事にも気付けなかったのかよ!』

数枚の写真に、会計士の名前から事務所名まで書いてある。智久は、歩きながらその会計事務所に電話をしてみた。

プルル・・・・プルル・・・・

「お電話有り難う御座います。鷲巣会計事務所で御座います。只今外出しておりますので、メッセージを残して頂くと折り返し御連絡させていただきます。」

『なんだ留守なのかよ!一人でやっているのかな・・・・・?』

智久はメッセージを残して電話を切り、少し歩きながら考えを纏めたかった。懐かしい街並みを歩いていると、不思議と子供の頃の思い出が蘇ったりした。明後日に航空券の予約を取り、ふと空腹になっている事に気が付く。

『そういえば、ここ何日か何にも食ってないや。実家にいるって言うのに、飯がないって世の中の奴に言っても信じてもらえないだろうな。』

智久が絹子の訃報を聞いて帰郷してから、セレモリーホールでの軽い夜食を摂って以来何も食べていなかった。蒼子はと言うと・・・・・解らない。そんな何も出来ない五十前の女が、これから如何いう生活をしていくつもりなのだろう?

智久には全く解りはしないが、蒼子本人には何だかの計画があるのだろう。帰りに何か食べて帰ろうかと、周りに飲食店を探しながら歩いている所に智久のスマホがけたたましく鳴った。

『もしもし、琴美・・・・』

そこまで言ったところで、相手は被せ気味に名乗り出す。

『ああ、私鷲巣会計事務所の鷲巣です。琴美さんでよろしいですか?』

声からすると六十代であろうことが分かるが、智久は何となく不快な何かを感じながら応えた。

『はい琴美ですが、姉の琴美蒼子に会社継続のための書類を見せてもらいました。』

『ああそうですか。それでしたら、大至急貴方の印鑑証明書が必要になります。ですので東京に戻り次第、大至急送ってもらいたいんですよ。えっと・・・・、弟さんは印鑑登録しています?』

「貴方の・・・?」

智久は馴れ馴れしいと言うか何と言うか、鷲巣の話し方に苛つきながらも対応する。

『そんな事よりも先ず、生前に母から聞いていた話しと全く違うのでその確認を取る為にそちらに連絡したんです。印鑑証明等は、その後で構わないでしょう?先ず鷲巣さんにお聞きしたいのは、母が数年がかりで畳むと言っていた会社を継続させる事をなぜやっているのか。そして、何でそんな話しになっているのかをお伺いしたい。私が亡くなる数日前に母と話しをした時には、六月中に会社を畳む事が出来ると。なのでその先の事を、生きている間に済ませたいと言っていました。残念ながら、その数日後に亡くなるんですがね。にも拘らず通夜の前に準備良く用意されていた書類は、会社の継続にあたっての名義変更に必要な書類と流れの説明でした。姉に何度確認しても、黙りこくったままで何も応えない。先ずは母の言っていた話しと、貴方方がやろうとしている事が全く違う事の説明をしていただかないと。書類なんて物は、帰京してからでないと如何にもならないんだから今ではないでしょう?』

『・・・・・。』

語気強く話す智久に、鷲巣は何も言わない。

『もしもし、鷲巣さん聞こえているんですか?お通夜にいらっしゃっていたそうですが、なぜその時にでも何か説明してくれなかったのですか?この状況で、書類だけ送れと言われて送る馬鹿がいますか?一体、何が如何してお袋の言っていた事と全く違う事をしているのか。説明をして頂きたいですが。』

『まっ・・・・まるで・・・・・私とお姉さんが、結託して何かを企んでいる様な言い方だ!そんな言い方は、失礼ではないか!』

『はぁ・・・・?お姉さんと結託して・・・・・?』

智久は、余りの馬鹿馬鹿しい言葉に笑うしかなかった。

『ははっ・・・・、何を言うかと思ったら・・・・・ふぅ〜。まあ良いでしょう、兎に角一度実家に来てもらって話しを聞きたいんですが。私は明後日には一度帰京するんで、明日来てもらえませんかね?』

鷲巣は、口籠もりながら返事をする。

『分かりました。ですが書類等も結構御座いますので、私の事務所の方に来ていただくという事で如何でしょうか?』

実家に来るとなると、蒼子に連絡を取らずとも勝手に三者で話せる環境になると思っていたのだが。事務所に行くという事になると、蒼子の予定も聞かなければならなくなる。だが書類が嵩むという事であれば仕方がないかと思い、一応その方向で話しをする場を設ける事にした。

『分かりました。ですが姉の予定も確認しなければなりませんので、姉に確認取り次第折り返しします。』

智久がそこまで言った時、鷲巣から意外な一言が放たれた。

『ああ、お姉さんならここに居ますんで大丈夫ですよ。』

「はぁっ・・・・・?」

智久に、電気が走ったかの様な感覚が身体中を駆け巡った。

「何でアイツがそこに居るんだよ!」

『じゃあ弟さん、明日の十三時半に事務所でという事で如何でしょう。お姉さんも、十三時半だったら大丈夫という事ですけども。』

『分かりました、では明日十三時半という事で。』

智久は電話を切って、大きく息を吐いた。

『ふぅ〜・・・・・、こりゃぁ〜思っていたよりも大事おおごとかもしれんなぁ!』

そう言いながら、智久は重い足取りで実家に向かって行った。

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